インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

じいさんばかりが跋扈する

昨日の東京新聞朝刊に「フェミニズムの過去・現在・未来」という記事が載っていました。「女らしくすべし」でも「女は毅然と生きるべし」でもない「ここに居る女」として生きる、右でも左でもない真ん中を生きるとおっしゃる田中美津氏。かつては女性学がアカデミズムに属して遠い存在だったのが、ネットやSNSの登場で広く共有されるようになり、これからの「伸びしろ」は大きいとおっしゃる山内マリコ氏。いずれも共感を持ちましたが、もうお一人、伊藤公雄氏の「問われているのは、今や女性ではなく、男性」という文章も興味深く読みました。いずれもネットで読むことができます。

www.tokyo-np.co.jp

伊藤氏によれば、1970年当時、OECD諸国における女性の就業率は、フィンランドが第1位、そしてなんと日本が第2位だったということです。しかも家父長制の撤廃、経済的理由による中絶の合法化など、当時の日本は欧米に先駆けてフェミニズムが進んでいたと。ところがその後欧米諸国が相次いで女性の権利擁護に関する施策を推し進め、男女共同参画と労働時間短縮をレベルアップさせ続けてきたのに対し、日本はその動きから取り残されて今に至るというわけです。

こうした動きに日本が取り残された原因として伊藤氏は、高度経済成長期に「男性=長時間労働:女性=家事・育児・非正規労働」という仕組みが確立し、それがプラスに作用したためその成功体験から抜け出せなかったから、と説明します。なんと、これでは「失われた30年」どころか「失われた50年」ではありませんか。

それで内閣府男女共同参画局にある、「OECD諸国の女性(15~64歳)の就業率」の直近のグラフを見てみたのですが、あれ? こんな感じ。フィンランドは12位で日本は16位、しかもその差は1%程度です(フィンランド:68.5%、日本:67.4%)。これだけ見ると、ほとんど差はないですし、下位にあるトルコやギリシャといった国々に比べれば日本はずいぶん健闘しているようにも見えます。失われた50年なんて大袈裟ではないかと言われそうです。

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http://www.gender.go.jp/about_danjo/whitepaper/r01/zentai/html/zuhyo/zuhyo01-02-02.html

ところが同じ内閣府の「就業者及び管理的職業従事者に占める女性の割合」を見れば、諸外国との差は歴然としています。韓国だけが日本とそっくりの状況で、ともに男性主導社会が根強く残っていることが分かります。このグラフにフィンランドは入っていませんが、あちらは昨年史上最年少かつ歴代3人目の女性首相サンナ・マリン(Sanna Marin)氏を選出し、閣僚19人のうち12人が女性というお国柄。彼我のあまりの違いにため息が出ます。

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http://www.gender.go.jp/about_danjo/whitepaper/r01/zentai/html/zuhyo/zuhyo01-02-14.html

伊藤氏は「生産性と効率・利益優先の男性主導社会は行き詰まる」と主張し、「持続可能な社会を目指すなら、男性主導でつくられてきた社会の仕組みをジェンダー平等の方向に転換する以外にない」とおっしゃっています。なるほど、もはや男性・女性という枠組みですらなく、ジェンダー平等と。でも「じいさん」ばかりが跋扈するこの国の政官財界を見ていると、道のりはまだまだはるかに遠いなあと思います。いやいや、倦まず弛まず声を上げ続けて行かなきゃならないですね。

フィンランド語 62 …受動態条件法現在形

先日来、受動態の現在形・過去形・過去分詞を作る練習をしてきました。そのなかでも受動態の過去形を作れるかどうかが今後の学習のポイントになるという話が授業でありました。例えば「lukea(読む)」なら……

lukea(原形)
luetaan(受動態現在形)
luettiin(受動態過去形)

……となるわけですが、今後登場する動詞の活用はすべてこの受動態過去形から派生してくると。具体的には最後の「iin」を取って、さまざまな語尾に変化していくそうです。そういえば受動態の過去分詞は「iin」を取って「u」か「y」をつければ作ることができました。これで受動態の過去形の否定・受動態現在完了形の肯定と否定・受動態過去完了形の肯定と否定まで作れました。さらに今後、受動態の過去形からこういう活用が登場してくるそうです。

luettiin(受動態過去形)✓
luettu(受動態過去分詞)✓
luettaisiin(受動態条件法現在形)
luettava(受動態条件法現在分詞)
luettaessa(受動態第二不定詞内格)
luettaneen(受動態可能法現在形)

そして今回はまず「受動態条件法現在形」を学びました。受動態過去形の最後の「iin」が「aisiin」に変わった形です。条件法というのは他の言語では「仮定法」と言われるアレで、現実とは違う仮定をしたり、可能性の低い話をする時に使う表現だそうです。

Jos Suomessa puhuttaisiin japania, voitaisiin matkustaa minne tahansa.
もしフィンランドで日本語が話されていれば、どこへでも旅行できるのですが。

否定は「ei puhuttaisi」と、否定辞に最後の「in」を取ったものがつきます。いずれにしても受動態過去形を作ることができれば語尾が変わるだけなので、引き続き練習していけばいいですね。「puhua(話す)」が与えられたら……

puhun puhutaan
puhuin puhuttiin
puhunut puhuttu

……と。

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Jos ei matkustettaisi lentokoneella, ei päästäisi ajoissa perille.

フィンランド語 61 …受動態と能動態のまとめ

ここのところずっとフィンランド語の「受動態」を学んできました。受動態というと英語や中国語でも出てきたそれを思い出しますが、フィンランド語の場合は「受動態」というイメージには収まりきらないかなり幅広い範囲の表現になり、なおかつ話し言葉で多用されるのでとても重要な文法事項だということでした。

先生によると、歴史的にはむしろ先に、話し言葉におけるこの受動態が広く使われており、その後フィンランド語の正書法が確立されるにいたって、私たちが初級の頃に学んできたような書き言葉が出来上がってきたということだそうです。言い換えると、フィンランド語は「話し言葉」と「書き言葉」がかなりはっきり別れている言語だということでしょうか。しかも実際の場面では圧倒的に話し言葉で話しかけられることが多い(当然ですが)のでしょうから、受動態はとても重要ということになるわけですね。

受動態の働きを復習すると……

Suomessa puhutaan suomea.
フィンランドではフィンランド語を話します。

フィンランドではフィンランド語が話される」と「受動態っぽく」捉えてもいいのですが、ここは単に事実としての表現と捉えておくのでした。また受動態の大きな特徴として「主語がない」ことがありました。もちろん上記の文は「人々は〜」とか「私たちは〜」という主語のようなものが想像できますが、明確に出さないんですね。これは日本語にとても良く似ていると思います。

Puhutaan suomea !
フィンランド語を話そう!

「〜しよう」と呼びかけをする文にも受動態が使われるのでした。この場合は文頭にいきなり受動態を置きます。

Me puhutaan suomea.
私たちはフィンランド語を話します。

逆に文頭に主語を置くと、単純に「私たちは〜する」の文になるのでした。しかもこの場合、基本的に主語は「me(私たち)」を使うことがほとんどだそうです。主語を文頭に置かないと上記の「〜しよう」の文になってしまいます。そして受動態は「主語がない」のが特徴であるのに主語を置いているということは原則を外れているわけですが、実際にはそれが話し言葉で多用されていると。『フィンランド語文法ハンドブック』にはこう書かれていました。

フィンランド語の話しことばでは、me「私たち」が主語のときに受動態が使われることが非常に多くなっています。
Me mennään keskustaan. = Me menemme keskustaan.
私たちは中心街(keskusta)へ行く。
Me ei mennä maalle. = Me emme mene maalle.
私たちは田舎(maa)へ行かない。
本来であれば menemme や emme mene と言うべきところで、受動態 mennään や ei mennä を使うことが一般的になっています。ただし、このような受動態の使い方は正式には誤りだと考えられています。(92ページ)

なるほど。ともあれ、3つ目の用法は例外(とはいえ広く使われる)として、受動態は「主語なし」の文だと考えることができそうです。そうすると以前に学んできた主語のある現在形・過去形・過去分詞は能動態で「主語あり」の文ということですね。つまりひとつの動詞に対して、こういうバリエーションがあると。

能動態(主語あり) 受動態(主語なし)
現在形 現在形
過去形 過去形
過去分詞 過去分詞

過去分詞ができれば、過去形の否定・現在完了形・過去完了形まで一気に作ることができますから、とりあえずは動詞の原形が与えられたら、即座にこの6つを作ることができるかどうか……が大切なようです。以前、動詞のワークシートを改良して簡略化したんですけど、あれをさらに改良して、当面はこの6つを作る練習をたくさんやろうかなと思っています。

例えば「lukea(読む)」が与えられたら……

luen luetaan
luin luettiin
lukenut luettu

「nukkua(眠る)」が与えられたら……

nukun nukutaan
nukuin nukuttiin
nukkunut nukuttu

……と、口頭で作っていくのです。ワークシートではなく口頭で、というのがポイントですが、答え合わせをしなければならないのでとりあえずは書きながら口慣ししていこうと思っています。

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Suomessa juodaan paljon kahvia.

フィン語だのフラ語だのチャイ語だの

群ようこ氏の小説で映画にもなった『かもめ食堂』にこんな記述があります。

暇な青年はひょこひょことミドリの手元をのぞき込みにきた。
「コレハ、カンジ」
鮭の字を指差した。
「そうです」
「コレハナンデスカ」
きっとフィン語で何かと聞いているのだろうと、ミドリが思わずサチエの顔を見ると、すかさず、
「merilohi(メリロヒ)」
と答えた。(文庫版99ページ)

私はこの「フィン語」という記述になぜか引っかかって、以前読んだときに付箋を貼っておいたのですが、要するにこれは「フィンランド語」のことですよね。日本語母語話者は(というかたぶんどの言語の話者でもやるんでしょうけど)言葉の経済性を追求してか、こういうふうに略して言うことが多いです。「ふぃんーご」と二音節で言うと簡便でストレスが減るのかな。いま通っているフィンランド語の教室でもときおり耳にするのですが、私はこういう省略、あまり好きではありません。

きょうびの大学生は中国語のことを「チャイ語」と呼ぶ、と聞いたのはもう十年以上前だったと思いますが、そのときも言いようのないむず痒さを覚えました。が、その後、書店でフランス語のことを「フラ語」と表記した学習参考書を見つけるにいたって、ああもうこれは自分の感覚の方が古くなっちゃったのかなと思いました。フランス語関係者(?)のみなさまはどう思っていらっしゃるのでしょうか。学生さんたちが「今日のフラ語、3限だっけ?」などと言っているのを聞いて、私と同じような気持ち悪さを感じたりするのでしょうか。

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https://www.irasutoya.com/2019/12/blog-post_3.html

いま、にわかに気になって「チャイ語」でネットを検索してみたら、「フラ語」同様すでに「チャイ語」を冠した書籍が出版されており、中国語母語話者の先生にも「チャイ語」を使ってらっしゃる方がいます。まあ学生さんたちにより親しみを持ってもらおうとする戦略と考えることもできますが、ご自分の言語をこうやって略称されて、複雑な気持ちにならないのかなあ。いやまあ、大事なのは中身であって、看板は軽くポップな感じでも構わないですか、そうですか*1

でもこのセンで考えると、中国語でも日本語のことを“日語(Rìyǔ)”とか“日文(Rìwén)”とか言いますね。“日本語(Rìběnyǔ)”とも言いますけど、前者の方がより一般的。しかもこの言い方に私自身はあまり気持ち悪さを感じないので、要は慣れの問題で、とどのつまり「フィン」とか「フラ」とか「チャイ」とかのつづめたカタカナ表記に反応しているだけなのかもしれません。英語を「英国語」、米語を「米国語」とはそもそも言わないし、「仏語」だの「独語」だの「露語」だのは少なくとも表記としてはよく使われますし。

しかもお若い方がこれだけ大量に「フラ語」だの「チャイ語」だのに馴染んでらっしゃるのですから、近い将来は「○○外国語大学チャイ語学科」という名称も一般化するのかもしれません。ううう。それに「フィン語」ですが、これは「フィン・ウゴル語派(suomalais-ugrilaiset kielet)」という言語群がありまして、その中の「バルト・フィン諸語(Itämerensuomalaiset kielet)」の一つとしてフィンランド語があるので「フィン語」と称するのも故なしとは言えず、フラ語チャイ語とはちょっと毛色が違うかもしれません。

*1:まさかと思って検索してみたら「イタ語」「スペ語」「ドイ語」「ポル語」などとおっしゃってる方もいました。いやはや。

自然で無理のない身体の使い方

腰痛とはかれこれ数十年来の付き合いです。数年前から体幹レーニングや筋トレを続けてきたおかげで、最近は以前のような深刻な状態に陥ることはなくなりましたが、それでもちょっと油断していると「じんわり」とした腰痛の兆候が現れます。腰が張っているというかダルくなるというか、とにかく「あ、これは腰痛が来そうだな」というのが分かるのです。

そんなときは、とにかく能動的に動くことにしています。よく歩き、ジムに行って積極的に身体を動かす。腰痛は能動的に動くことが大切、つまりマッサージや整体や湿布など「受け身」の方法では腰痛は軽快しないということが分かってきました。そしてまた実際、歩いている時やジムで体を動かしている時はさほど腰痛が気になりません。一番よくないのは座ること、しかも長時間同じ姿勢で座り続けることです。

デスクワークでパソコンを何時間も見つめながら座り続けるなんてのは(私にとっては)最悪で、だから時々立って身体を動かしたり、座るときもバランスボールに座って時折腰を動かすようにしています。ふだん授業をしている時には座ったり立ったり、学生の間を動き回ったり、とにかくいろいろと動くので、特に腰痛は気になりません。ところが昨今のコロナ禍で授業がオンラインになり、そのメリットが失われてしまいました。何時間もずっとパソコンの前に座ったまま授業をする羽目になってしまったのです。

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https://www.irasutoya.com/2014/03/blog-post_2000.html

それで、しばらく影を潜めていた腰痛が最近復活してきました。これはいかんということでパーソナルトレーニングで再び腰痛対策の運動を組み込んでもらっています。ただ、トレーナーさんの見立ては「やっぱり身体の使い方の問題ですね」。つまり立つこと・座ること・歩くこと・運動すること……すべてにおける身体の使い方に癖や偏りがあって、それが腰痛として現れているのではないかということでした。

確かに、体幹レーニングをしていると身体の左右で明らかに可動域が違っていたり、全身を連動させたしなやかな動きがかなりぎこちなかったりします。いろいろな身体の使い方の癖があることに加えて、全身の筋肉がバランスよく発達して連携していないのが腰痛を生む一番の理由ということでしょうか。

そこで、座るときにはスクワットの容量で足の付け根から折り込むように身体を落とし、骨盤に背骨がストンと乗るイメージを意識するようにしています。また不自然に胸を張ったり、肩をそらせたり、おなかを引っ込めすぎたりすることなく、つまり身体に余計な緊張を与えないように意識することも。

実はこれ、能のお稽古で師匠に言われることと驚くほど似ています。能楽師が昔から伝えてきた、強く、美しく、それでいて無理のない身体の使い方は、結局は人間の身体の最も自然な使い方と通底しているのかもしれません。聞いたところによると、武道などでも同じような指導をされるとのこと。いずれも、まことに奥深いことでありますな。

生ハム大好き

最寄り駅から家に帰る途中、住宅街の中に小さな小さなワインバーができているのを見つけました。うっかり看板ごと見逃してしまいそうな狭い間口で、ちょっと入るのに勇気が要ったのですが、ある日妻から「今日は友人と食べてくるから夕飯いらない」とのLINEが入ったので、じゃあってんでそのワインバーに入ってみたんですね。

若いお兄さんが一人で経営していると思しきワインバーでした。席数もすごく少なくて、お客さんは他にいませんでした。私一人なのでボトルを開けるわけにもいかず、グラスワインで何杯か、と思ったのですが、リストに乗っているグラスワインは「それはいま切らしておりまして」というのが多く、結局栓が開いていたうちの一杯を頼みました。

おつまみに「生ハム:800円」というのがあったので注文しました。私は生ハムでワインを飲むのが大好きなのです。泡でも、白でも、赤でも合いますよね。それで楽しみにしていたのですが、果たして出てきた生ハムはプロシュットでもなくハモンセラーノでもなく、「しっとりまろやか」ってパックに書いてあるようなロース生ハムでした。えええ、それ数枚で800円?

いや、カルディで売ってる「生ハム切り落としお徳用パック」みたいなロース生ハムも、あれはあれで好きですけど、この値段だったら……いやいや、この値段だからなのかしら。ワインバーなんて入ったの十年ぶりくらいなので、わかりませんけど。とにかく、がっかりして一杯だけでお勘定してもらって、家に帰りました。

最近知ったんですけど、イタリアの生ハム「プロシュット」には甘いの(ドルチェ)と塩辛いの(サラート)の二種類があるんだそうですね。甘いのと言っても砂糖甘いのではなく、塩分控えめに作ってある種類のものだそうです。有名なプロシュット・ディ・パルマ(Prosciutto di Parma)は甘い方に属するそうで、うん、確かにちょっとお高い生ハムは塩分控えめでその分甘い香りがするように思います。

イタリアはフリウリ・ヴェネツィア・ジュリア州にサン・ダニエーレという町があって、ここの特産品である生ハム、プロシュット・ディ・サン・ダニエーレ(Prosciutto di San Daniele)は、パルマ産よりも高級品なんだそうです。個人的な味覚ですけど、ここの生ハムはより塩分控えめで甘い香りが強いように思います。なにかこう、ナッツみたいな香りがするのです。

週末にしか寄らないお高めスーパー「成城石井」にはこのサン・ダニエーレの生ハムのミニパックが売られていて、これをお酒のおつまみにするのが自分としてはささやかな贅沢です。でも贅沢と言ってもこのパック一つ408円なんですよね。消費税込みで450円。居酒屋やバーに行って飲むことを考えたら、ずいぶんお安いような気がします。

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イタリアの生ハムにはもう一つ、パルマ近くのポー川流域にあるジベッロという村で生産されている、クラテッロ・ディ・ジベッロ (Culatello di Zibello) というのがあって、輪をかけてお高いので私は一度しか食べたことがないんですが、それはまあ美味しいです。この生ハム、中国語の教材に使った動画で知ったのですが、ポー川から昇ってくる霧が生ハムの熟成を手助けして、唯一無二の味わいを作り出すのだとか。

youtu.be

いつかジベッロ村に行って、現地でこの生ハムを食べてみたいです。あと中国は浙江省の金華にも、いつか行ってみたい。言わずとしれた金華ハムの産地です(しかも現地のそれは、広く流通している「金華ハム」とはかなり違うという話を聞いたことがあります)。あ、くだんのワインバーはあれから程なくして閉店してしまいました。いまはサイケデリックなテーブルウェアとお持ち帰りデリカテッセンを販売するという不思議なお店になっています。

茂木外務大臣の言語観

茂木敏充外務大臣が先日の記者会見で、ジャパンタイムズの記者の質問に対して英語で聞き返し、さらには答えをはぐらかした上に「日本語、分かっていただけましたか」などと発言して批判を集めていました。外務省のウェブサイトにはその会見記録が載っています。きちんと載せているのは素晴らしいけれど、こうした当たり前のことを「素晴らしい」と思ってしまうほど今の政府に信用を置けません。ともあれ、やりとりは以下のようだったそうです。

ジャパンタイムズ 大住記者】2点お伺いします。入国規制が、外国人を対象にした入国規制が緩和される方向であるというふうに伺っているんですけれども、その方向性の中には、在留外国人は日本人と同じような、それに似たような条件で入国が認めるようになるかというその方向について、それは1点で、2点目はそもそも論として、この在留外国人を含めた規制は、特に在留外国人を対象にした入国規制は、どういった、その背景になった科学的な根拠を具体的に教えてください。


【茂木外務大臣】まずこういう在留資格を持つ方々、今、日本にいらっしゃる、もしくは在留資格を持っていったん海外に出られている方、そういった方々の入国もしくはその再入国を認める方向で、今、最終調整をしているところであります。
 そしてこれは、日本に限らずあらゆる国が、今、新型コロナウイルスの中で、水際措置、これをとっている状況であります。それぞれの国によりましてやり方は違ってくるわけでありますけれども、まさにそれは各国の感染症対策であったりとか主権に関わる問題でありまして、各国がとっている措置、日本としても適正な措置をとっていると考えております。


ジャパンタイムズ 大住記者】すみません、科学的な根拠について。


【茂木外務大臣】What do you mean by scientific?


ジャパンタイムズ 大住記者】日本語でいいです。そんなに馬鹿にしなくても大丈夫です。


【茂木外務大臣】馬鹿にしてないです。いや、馬鹿にしてないです。全く馬鹿にしてないです。


ジャパンタイムズ 大住記者】日本語で話しているなら、日本語でお答えください。科学的な根拠の、同じ地域から日本国へ、日本国籍の方が外国籍の方と一緒に戻られて、全く別の条件が設けられ、その中には例えば事前検査だったり、同じ地域に住んでいるところから、全く別の条件で入って、入国が完全に認められないケースもあったんですね。それに関しては、その背景に至ったその違い、区別を設ける、その別の条件を設ける背景になった、背景にある科学的な根拠をお聞きしています。


【茂木外務大臣出入国管理の問題ですから、出入国管理庁にお尋ねください。お分かりいただけましたか。日本語、分かっていただけましたか。

併せて動画も見ましたが、確かにこれは本当に失礼な対応です。そしてまた、ここには日本語母語話者の多くに広く見られる、非日本語母語話者に対する典型的かつ差別的な心性が現れているようにも思えます。さらにこの心性は、日本語母語話者がその言語的特殊性から、なかなか脱却することができない「外語に対するナイーブな感性」あるいは「外語に対するコンプレックス」が露呈しているようにも思えます。

非日本語母語話者に対する典型的かつ差別的な心性というのは、日本語母語話者の多くが少しでも発音や統語法に違和感のある日本語に接すると、急に「上から目線」になる傾向、あるいはことさらに厳しくその瑕疵をとがめる傾向のことです。とはいえ実はこれ、どの言語の母語話者にも多かれ少なかれ見られる現象で、私もつたない中国語や英語で話している際に同様の圧力なり差別的な扱いを感じたことはあります。

ただ日本語の場合、この巨大言語(話者が一億人以上いる言語は世界中で十ほどしかありません)が主にこの日本列島という範囲にぎゅっと凝縮して使われているという言語的特殊性のため、私たち日本語母語話者は英語や中国語のように様々なバリエーションのある日本語を想像できない、あるいはそれへの許容度が低いという傾向が強いように思います。コンビニなどで働いている外国人労働者の日本語に対して、ことさらにそれを咎め、あげつらい、「日本人に変われ!」だの「きちんとした日本語を話せ!」だのとクレームをつける人が多いというのは、以前から指摘されてきたことです。

qianchong.hatenablog.com

私が日々向き合っている外国人留学生からも、コンビニのバイト先で仕事の説明を受けるときなど、日本人の先輩や店長などがダダダダーッと日本語で説明して、しかもその日本語が曖昧模糊としていているので、何度も聞き直したりしていると、すごく嫌な顔をされ、かつ英語で「ドゥユーアンダスタン?(Do you understand?)」などと聞かれ、「心が折れる」と言っていました。こうして相手の日本語の拙さにつけこんで、上から目線の英語で難詰する(相手の母語が英語かどうかに関わらず)というのは、今回の茂木氏の“What do you mean by scientific?”と全く同じ態度ではないかと思います。

qianchong.hatenablog.com

茂木氏は外務大臣という職にありながら、日本語を話す外国人という存在、あるいは非日本語母語話者が日本語を話すということについて、ほとんど何も想像力が働いていないように思えます。このブログでも何度も申し上げていることですが、外国人、あるいは非日本語母語話者という存在、さらには外語や多言語環境、つまり「マルチリンガル」というものに対して、とてもプリミティブ(粗野)な知識しか持ち合わせていないのではないか。つまり違う言語の人たちにどういうスタンスで向き合えばいいのかがよくわかっていないのではないかと思うのです。

qianchong.hatenablog.com

茂木氏は海外への留学経験もおありで、英語も堪能だそうですが、留学もして、そこそこ語学も極めた人物にしてこのプリミティブな言語観、世界観はどういうことでしょうか。いったい海外で何を学んできたのでしょうか。同じ外語学習者の端くれとしてはそこが非常に不可思議かつ憤ろしいですし、また一人の日本語母語話者として恥ずかしく思うところです。

追記

ある言語Aの非母語話者が、その言語Aを使って記者会見で質問することについて、私は以前にこんなことを書きました。台湾の蔡英文大統領(総統)が当選した際に、日本のあるメディアの記者がつたない中国語で質問したことに対する疑問です。

qianchong.hatenablog.com

私はここで、表面的なこととはいえ、拙さ全開の中国語で質問する映像が世界に配信されることは日本の国際的イメージや「国益」に影響するのではないか、と少々「生臭い」ことを書きました。そして、「誠意があれば伝わる」は美しい考え方だけれど、残念ながら国際的なやりとりの場では幻想であり、私たちはもう少し「表面的なイメージ」にも注意を払うべきだとも。

しかし今回のジャパンタイムズの記者氏は(氏の母語が何であるかは分かりませんが)、ところどころたどたどしい(言い直しなど)部分もありますが、とても分かりやすい日本語で内容のある質問されていました。そして質問に対する答えが噛み合っていないので、その点をさらに追求されています。それに対してきちんと答えず、英語で返したり、木で鼻をくくったような回答の末に嫌みのように「日本語、分かっていただけましたか」と付け加えたりした茂木氏は、やはりとても失礼であり、公人として不誠実のそしりは免れないと思います。


https://www.youtube.com/watch?time_continue=316&v=zdlt9n5FDUU&feature=emb_logo

「生→老病死」というベクトル

昨日の東京新聞朝刊に、宮子あずさ氏のコラム「差別への抑制を取り戻そう」が載っていました。権力者の心性が人の心の闇を引き出すという指摘は本当にその通りで、第二次安倍政権が私たちの間にもたらした大きな負の遺産の一つがこの「人々の分断を深め、差別への箍を緩めた」ことにあるのは疑いのないところだと思います。

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ですがもう一つ、このコラムで考えさせられたのは、強度の脳萎縮がありながらヘイト発言だけは易々とものしてしまうこの高齢男性のありようでした。数年前、私の妻がクモ膜下出血で三ヶ月ほど入院していた際に、妻や周囲の脳疾患関係の患者さんたちを見ていてしみじみ感じたのが、ちょっと語弊のある言い方かもしれませんが「人はそれまで生きてきたように病む」ということだったからです。

そしてまた、それより遡ること数年前、認知症の傾向が見られた義父と同居を始め、亡くなるまでにあれこれの情報を集めながらしみじみと感じていたのも、「人はそれまで生きてきたように老い、死んでいく」ということでした。

生老病死(しょうろうびょうし)」という仏教の言葉があって、普通これは「生まれること・老いること・病気をすること・死ぬこと」という人間の一生を表すとされていますが、私には「生→老病死」というベクトルを持った言葉に思えます。人間の、主に晩年に起こる「老病死」はそれまでの人生と不連続な突発的状況なのではなく(もちろん突発的な、望まぬ死というものもありますが)、その人の生き方の延長線上に必然的に立ち現れてくる状況なのだと思うのです。つまり「生生生生生生……→老病死」というイメージ。

gendai.ismedia.jp

不摂生が生活習慣病を誘発する、というようなことが言いたいのではありません。ただ、老病死のありよう、特に心のありようは、それまでの人生の心のありようと密接につながっているということ。まあ、こう書いてしまうとごく当たり前のことのようにも思えますが。

クモ膜下出血の後遺症で水頭症に陥った妻は、一時期認知症と同様の症状を呈していました。そのときの妻は、時に子供じみた要求を繰り返したり(やたら甘い食べ物や飲み物を欲する)、時間や空間の概念が混濁したりしていましたが、基本的にとてもおとなしく、まるで年老いた猫が日がな縁側で居眠りをしているような状態でした。でも周囲の患者さんの中には、絶えず家族の名前を叫び続けていたり、寂しさを訴え続けていたりする方がいました。そして上掲のコラムのように、暴言や攻撃性の箍が緩んでしまう方もいるのです。

高次脳機能障害の夫との日々を綴った柴本礼氏の『日々コウジ中』に「よく言われることだがこの障害はそれまでの夫婦・家族のあり方が試される」という一文がありました。まさにその通りで、人はこうして「老病死」のプロセスを歩むときにこそ、それまで自分の理性なりプライドなりで糊塗してきた本性、言い換えればその人のこれまでの生き方、そして周囲の人々との関係性が現れてくるものなのかもしれません。

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私など、そう考えるとちょっと怖くなります。私はどちらかというととても短気で「イラチ」な性格で、もし私自身が「老病死」のプロセスで自分の外側に塗り固めているものが剥がれ落ちて、本性やそれまでの生き方が露わになったなら……。今からではもう遅きに失したかもしれないけれど、「老病死」に向かう「生→」のベクトルを少しでもフラットで公正で温かみと喜びに満ちたものにしておかなければと思いました。

バーミキュラのフライパン・その後

今年の6月頃にバーミキュラのフライパンを買い、使い続けてきました。蓄熱性が高く、水分の蒸発スピードが速いという鋳物製琺瑯仕上げの特徴を生かしたこのフライパン、確かに炒めものなど水っぽくならずパリッと仕上がります。またステーキやハンバーグなどもかなり美味しくできるのですが、失敗と成功をくり返してなかなか安定しないのが焼餃子でした。

qianchong.hatenablog.com

焼餃子はフライパンへのこびりつきが最大の問題で、火加減よりも水加減よりも「テフロン加減」が一番大切、ということで以前はテフロン加工のフライパンで一度も失敗することなく餃子を焼いてきました。でもバーミキュラのフライパンで焼くとかなりパリッと仕上がるので、美味しさが全く違うんですね。市販の皮でも弾力がかなりあって「口福」感を味わえるというか。

ただ、テフロン加工のフライパンと違って、火加減と水加減がけっこう難しいです。最初に焼いたときは普段どおりの手順でやって、盛大にこびりつかせました。泣きそう。それでフライパンについているレシピブックを熟読してその通り忠実にやってみたら、一度だけかなり美味しくできました。最初から取説類はちゃんと読めということですか。ところがその後はうまく行ったり行かなかったり。ちょっと頭にきて、しばらくこのフライパンを使わないでいたこともありました。

たぶん同じような声が多く届いているのでしょう、バーミキュラYouTube公式チャンネルに、焼餃子のコツを詳細に紹介した動画が上がっていました。レシピブックと同じ手順ですけど、もっと細かい注意ポイントが解説されています。


【公式】バーミキュラ専属シェフが教える!絶対に失敗しない「羽根つき焼き餃子」の焼き方(バーミキュラ フライパン)

まずふつうのフライパン、特にテフロン加工のフライパンで焼くときとの大きな違いは、蒸し焼きにするときの水の量です。テフロンだとこびりつきを気にせず餃子の3分の1くらいの高さまでお湯をジャーっと注いで盛大に蒸し焼きしますが、バーミキュラフライパンの場合は大匙2杯くらいしか水を入れないのです。そのかわり極弱火でジリジリと焼く。とにかく水の量が少ないのでちょっと不安になるくらいなのですが、ここで「もう少し多めに」と日和ると、絶対に失敗するということが分かってきました。

動画の説明を自分の備忘録的にまとめると、こうなります。

①基本の強火(フライパンの底面4分の3くらいに火が当たる程度)で30秒間予熱。
②油を入れ、全体になじませ、さらに1分間予熱。煙がゆらゆら立ってくる。
③いったん火を止め、煙がほとんど見えなくなるまで待つ。
④火を消したまま餃子を並べる(最大でも15個程度)。
⑤極弱火(フライパンの底面に火が当たらない程度)で火をつける。
⑥2分間加熱して焼き目をつける。
⑦大匙2杯の水(あるいはプラス小麦粉)を鍋肌から回しかけて蓋をする。
⑧極弱火のまま5分間加熱する。
⑨蓋をとって水分がなくなるまで3分間加熱する。
⑩大匙1杯のごま油を鍋肌から回しかける。
⑪中火(フライパンの底面2分の1に火が当たる程度)にして1分間加熱する。

これで上手に焼けました! また泣きそう。

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……しかし、ですよ。

餃子を15個焼くのに、予熱から含めて14〜15分くらいかかるんですよね、この手順だと。そりゃまあ間違いなく美味しい餃子が焼けるので、そこに不満はないんですけど、家族が多い家庭だったらこんなサイクルで何度も焼いてらんないですよね。15個の餃子なんてあっという間になくなってしまいます。かと言って、正直かなりお高いこのフライパンを2つも3つも買い揃えるなんて非現実的ですし。

とにもかくにも、バーミキュラのフライパンは細やかな火加減への気遣いと、それにともなう調理時間の増加が不可避なように思います。こうなると「手早くちゃちゃっとたくさん」作りたい人にはあまり向かないのかもしれません。私の苦手な、あの「男のホビー」的クッキングの香りもいたしますね。もしくは一人暮らしとか、二人暮らし程度までだったら重宝する調理器具と言えるのかもしれません。

だれも知らないレオ・レオーニ

森泉文美氏・松岡希代子氏の『だれも知らないレオ・レオーニ』を読みました。『あおくんときいろちゃん』、 『スイミー』、『フレデリック』、『じぶんだけのいろ』など数々の絵本の名作で知られるレオ・レオーニレオ・レオニ)氏ですが、実は絵本制作をはじめたのは49歳の時だったそう。それまでにデザイナー・アートディレクター・画家・彫刻家・作家……と、さまざまな活動の末に結実したのがこうした絵本の数々だったのだとこの本で初めて知りました。

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だれも知らないレオ・レオーニ

レオ・レオーニ氏の没後、アトリエに残された膨大な作品群と資料が遺族によって整理・保管されており、回顧展の開催を機に著者のお二人が倉庫の調査を許可されたことからこの本の出版が実現したそうです。戦前からグラフィックデザインの活動を行っていたレオ・レオーニ氏の数々の作品、さまざまな芸術家からの影響、ナチスから逃れてのアメリカへの亡命、反戦や反人種差別などに対する働きかけ……確かにここでは「だれも知ら」なかった氏のさまざまな側面を時系列に沿って知ることができます。

氏は天性の芸術家だったようで、作品の制作に際して周到な下絵や設計図やスケッチなどをあまり作らなかった(全くないわけではなく、作品によっては色々残されてはいますが)そうです。頭の中にあるイメージを直接作品として表現することが多かったよう。とはいえ、それらはもちろん無から生まれてくるわけではなく、美術史やデザイン史の流れを踏まえ、また当時の時代背景や政治・社会の問題などに学びながらのものであることは間違いありません。

こうして膨大な作品群に接してみると、やはり芸術は極私的な感性や個性の一方的な発露などというものではなく、歴史を踏まえた現状への認識・分析、そして幅広い教養に裏打ちされたものであることが分かります。冒頭にレオ・レオーニ氏のこんな言葉が載せられていました。

芸術家が、人々にはよく理解できないことをした場合、それは人道に反する行為をしたことになるのです。作品の持つ意味は、説明できるような内容のものでなければいけません。

ときおり「芸術ってのは口で説明できるものじゃないんだ」と言って言語化を拒む、というか言語化から逃げる芸術家がいますけど(爆発だ! とかね)、きちんと説明できなければそれは自慰みたいなものだということですよね。このあたり、とかく雰囲気やフィーリングに流れた曖昧な語り方をする「アーティスト」が多い(アスリートにも多い)日本の私たちには耳が痛いところではないかと思いました。

個人的には、私も大好きな美術作家であるベン・シャーンやアレクサンダー・カルダーから受けた影響という部分がとても興味深かったです。確かにレオ・レオーニ氏の絵画作品やデザインはこのお二人の作風を彷彿とさせるところがあります。それに比べると、晩年(と言っていいのかどうかわからないけれど)の絵本作品には、そこから一歩も二歩も突き出た、氏独特の境地に達した感じがあります。氏の絵本はとてもシンプルな作りに見えますけど、その誕生には膨大な前史があったということですね。

ひとつだけ残念だったのは、この本の「作り」です。硬い紙に印刷された220ページあまり、A5版サイズの厚さ2センチほどある本なのですが、本の「ノド(本の内側の綴じ目部分)」があまりにも固くて、開きにくく読みにくいのです。にもかかわらず「ノド」の近くまで図版や文章が印刷されており、中には見開きの図版もあるので、せっかくの作品を十分に楽しめません。図版も文章も編集も素晴らしいのに、最後の装幀や製本がちっとも「読者フレンドリー」じゃない書籍が多いのですが、この本もそうでした。これはぜひ180度ペタッと開ける「コデックス装」で作ってほしかったなあ……。

暑いんだから日傘を使いましょうよ

九月を目前に控えても、異様な暑さが続く日々。小学生の親御さんが子供に日傘を持たせたところ、学校や教育委員会から「日傘は禁止」と言われたというニュースに接しました。

www3.nhk.or.jp

「傘を使用していない子どもに傘がぶつかるとケガにつながりかねない」「傘で手がふさがると危険」「ランドセル通学にも慣れていない小学校低学年に日傘を持たせるのは難しい」「日傘は暗い色が多く周りが見えにくいため、交通事故の危険性が高まる」など様々な理由が挙げられています。総じて「危険だから」というわけ。

先日も東京都議会で「なぜツーブロックはだめなのか」という都議の質問に教育長が「外見等が原因で事件や事故に遭うケースがあるため」と驚きの答弁をして話題になっていましたが、教育者としてこういう発想はどうかと思います。リスク回避のようでいて、酷暑に対してはまったくの思考停止。危険であるなら、お互いが注意しようと自律性を高める方向に持っていってこその教育じゃないですか。

もちろんここには、何か「危険」な事が起こった場合に保護者やマスコミなど社会全般から叩かれるから、面倒なことは一切避けたいという思惑が働いているのだと思われます。公共空間でもあらかじめ苦情などの面倒を避けたいがゆえにサインシステムが煩雑になり、注意書きや注意の音声が満ちあふれてこの国独特のストレスフルな空間が出現していますが、もうそろそろ私たちはもっと自立と自律を尊ぶ大人に成長すべきじゃないでしょうか。そしてそれを子供の頃から養う方向へ持っていくべきです。起こる危険性の高い熱中症よりも、起こる危険性のあやふやな日傘によるトラブルを心配して、一律にダメと思考停止に陥るのではなくて。

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https://www.irasutoya.com/2014/01/blog-post_11.html

この記事には「日本日傘男子協会」の事務局長氏のコメントも載っていました。「子どもの登下校時の日傘は、学校ごとの判断なので、協会としての評価はできません」に始まり、こんなことをおっしゃっています。

もし日傘が周囲の人にとって不快になったり、危険を感じたりするようになれば、日傘をさすことについて周囲の理解を得ることは難しくなります。

そして、「もし学校でも日傘を使うなら『みんなで使う』というふうにしたほうがいいのではないか」として、こうもおっしゃっています。

子どもたちがみんなで日傘を使うようになれば、雨の日と同じように『お互い様』となって、誰もが気兼ねなく日傘を使えるようになると思います。

これを読んで私は、男性も日傘を使いましょうという先進的な考え方を持っておられるとおぼしき「日本日傘男子協会」の事務局長氏がこんな当たり障りのない、同調圧力だのみのことしかおっしゃらないなんて……と違和感を覚えました。それですぐに同協会のオフィシャルサイトを検索してみたのですが、そこにはこう書かれていました

男性にも日傘と帽子の選択肢があって然るべきです。当協会が目指すのは、男性が日傘をさすのが特別なことではなくなり、普通の持ち物として愛用できるような 「人と環境にやさしい社会の実現」です。

また、こうも書かれています

「自分の身は自分で護る」それは、現代社会を生き抜く鉄則です。

おお、まったくもって同感です。男性も日傘をという動きそのものが「男が日傘なんて」という旧態依然とした同調圧力からの解放を意味するんですよね。自分の身体は自分で守る。同調圧力には屈しない。それは子供から大人まですべての人が大切にしたい理念です。日傘を愛用している、というかこの酷暑に手放せない私としては、「日本日傘男子協会」代表理事氏にはもっと強いメッセージを発して学校や教育委員会の不見識を叱ってほしかったと思いました。

ところが、その後に日本日傘男子協会の公式Twitterがこんなツイートをされているのを見つけました。


なるほど、電話取材で発言をマスコミの意に沿うように使われてしまったということですね。これはちょっと同情いたします。結局これは、上述した思考停止の学校と教育委委員会と、そしてどこまでも両論併記的な報道しかせず、問題の在りかを究明するジャーナリズムの精神に欠けたNHKの問題ということなのでした。

新宿西口のメトロ食堂街

先日、新宿駅西口地下にある「メトロ食堂街」が閉館になるというニュースに接しました。
nlab.itmedia.co.jp
ここは学生時代からよく利用してきた場所だったので、とても残念です。パーコー麺(排骨麵)の「万世麺店」、カウンターで天丼が食べられる「新宿つな八」、洋食とパンの「墨繪」、蕎麦の「永坂更科布屋太兵衛」などなど……なかでも「永坂更科布屋太兵衛」の立ち食いコーナーでのみ販売している「肉天そば」はよく食べました。

関東風の濃いめのつゆに、大きなかき揚げが載っているだけなのですが、このかき揚げは豚肉のブロックとネギがたくさん入っていて、かなり「食べで」があります。最初に食べたときは「なんてぜいたくな立ち食い蕎麦なんだ」……と驚いて、それから数えきれないくらい食べてきました。最初は確か450円くらいだったかな。ほかの立ち食い蕎麦よりかなりお高い値段設定で、立ち食い蕎麦なんだけど「自分へのご褒美」的な不思議な一杯なのでした。

ここのお店は奥にちゃんとした(?)座って食べられる蕎麦屋さんもあって、その一角を利用して立ち食いコーナーがあるのですが、食券を買ってカウンターに出すと店員さんが小窓から奥の厨房に向かって「いっぱ〜い」と声をかけます。すると厨房から湯通しした麺がお椀に入って差し出され、カウンターでそれに天ぷらなどをのせ、つゆを注いで供されるというスタイル。つまり蕎麦自体は奥のお店と同じなんだけど、立ち食いにしているぶんお安く食べられるというシステムなんですね。そして「肉天そば」は、このカウンターにしかないメニューなのです。

メトロ食堂街が新宿西口の再開発に伴って九月末で閉館ということで、食べ納めに「肉天そば」を食べに行ってきました。値段は820円(!)になっていました。もはや立ち食い蕎麦の値段ではありません。以前は「春菊と小海老のかき揚げ天そば」というのがあって、それも大好きだったんですけど、普通の野菜かき揚げ天そばになっていました。とても柔らかい「イカ天そば」はいまも健在でした。

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蕎麦にのせる刻みネギは、以前は取り放題の容器がカウンターに置いてあったのですが、コロナ禍の影響でしょうか、小皿での個別提供になっていました。それでも「肉天そば」は不動のおいしさ。食べながら、いろいろなことを思い出しました。出版社で編集兼営業をしているころ外回りの途中で寄ったなあとか、留学の奨学金を獲得するために仕事を辞めて試験勉強していた頃にたまの贅沢で食べたなあとか。

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メトロ食堂街は、この立ち食いコーナーからパーコー麺の万世麺店の方に抜けると、その先の怪しげな(失礼)雑居ビルの地下につながっていて、そこから地上に出ると目の前が焼き鳥横丁でした。いまは新しいビルになってユニクロが入っており、直接抜けることはできなくなっています。あの抜け道も懐かしいです。当時は西武新宿駅を利用していたので、焼き鳥横丁の「つるかめ食堂」や「ささもと」なんかにもよく行きましたねえ。

再開発はまあ利便性や耐震性の向上など理由があるのでしょうから仕方がないことですが、新宿も、それから渋谷も、こういう「ダンジョン」的な場所と個性的なお店がどんどんなくなっていくのはさびしいですね。日本全国の駅ビルがみーんなルミネとかエキュートみたいになっちゃって、同じようなテナントばかり並んでるのはつまらないです。

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「英語の学び方」入門

新多了氏の『「英語の学び方」入門』を読みました。第二言語習得研究の知見を踏まえて効果的な英語の学び方を指南する一冊ですが、手っ取り早い英語(あるいはその他の外語)上達の秘訣を教えてくれる本ではありません。この本が主張していることをちょっと乱暴にひとことで言ってしまえば「外語の習得には自律的かつ継続的な努力が必要」ということになります。この本に限らず、まっとうな語学書は多かれ少なかれ同じことを主張しています。極端なショートカットを謳う語学書は、まず疑ってかかったほうがいいですね。

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「英語の学び方」入門

この本で特に興味深かったのは、リンガフランカとしての絶対的な地位を確立した英語一辺倒の世界と、その世界に対峙する「複言語主義」が紹介されていることです。複言語主義という考え方は、多くの言語が混在しながらもひとつの経済圏を形成しているEUにおいて、欧州評議会が定めた「ヨーロッパ言語共通参照枠(CEFR)」で提唱されているものだそうです。私の理解では、ひとりの人間が複数の、それもさまざまなレベルの言語能力を持っていて、それらの言語を切り替えたり組み合わせたりしながら異文化・異言語の人々と交流できる能力……という感じでしょうか。

この本では「個人が複数の言語の『部分的』『複合的』な能力を持つことを重視する姿勢」と説明されているのですが、これは要するにほとんどの外語学習者が当てはまる状態ではないかと思うとともに、外語学習とは何も完璧な状態を目指すことだけではないのだという、ある種学習者にとっての福音的な響きを持つ考え方ではないかとも思いました。

新多氏は、複言語主義の考え方に立てば、私たちは英語を学ぶ際に必ずしもアメリカ人やイギリス人などネイティブスピーカーを目標にする必要はないと言います。そもそも母語話者と第二言語としてその言語を習得するものとでは、言語のあり方がかなり異なるのだと。なおかつ、母語と外語は個人の中でお互いに影響を与え合っているのだと。つまりどれだけネイティブスピーカーのようにその言語を使えるかどうかには価値を置かず、それぞれの母語とともにその言語がどれだけ有機的に機能しているかに価値を置くということでしょうか。

私はこの考え方に心から同意するものです。語学をやればやるほど分かってくるのは、自分はその言語のネイティブスピーカーにはなれないという厳然たる事実です。中にはネイティブスピーカーと見まごうばかりの達成を示す方もいますし、また周囲もそれを「ネイティブ並み」などといって誉めそやしたり、自分もああなりたいと恋い焦がれる方もいる。何を隠そう、かつての自分もそうでした。

まあ語学で目指すところは人それぞれで自由なのですが、私は外語というこの、時間も労力も膨大に使わなければ一定程度の達成をみることができないものにばかり人生の多くを傾けるという点については、いまは懐疑的です。さらには「ペラペラ」とか「ネイティブ並み」という評価には一種の知的虚栄心のような不健康さすら感じます。外語を学ぶ目標や意義は実はそこにはなく、外語を学ぶことで母語での思考がより豊かで深くなり、「『新しい自分』を構築していくこと(17ページ)」にこそあるのではないかと思うようになったのです。

「外語の習得には自律的かつ継続的な努力が必要」ということは、実はその言語の学習方法も最終的には自分が編み出していくものだということを示唆しています。結局はそこに行き着くしかない。SNSなどではあまたの語学の先達がそれぞれの学習法を紹介されており、ついついあれもこれも試したくなる衝動に駆られるものです。でもそれはその人ご自身がご自分で編み出した方法であり、私たちがすべきなのはそれに盲従することでもなければ、そんなのとてもできないと焦ることでもないのではないかと。

この本にも後半には「実践編」として語彙や文法、さらにいわゆる「四技能」についての具体的な学習法や教材が紹介されています。もちろんそれらも参考にはなりますが、これもまた語学の先達によるその方なりのメソッドであり、いきなり全部を実践したり、あるいは実践できなくて挫折感を味わったりする必要はなく、むしろその前段にある「理論編」の部分こそ読まれるべきだと思いました。

外語を学ぶことが「『新しい自分』を構築していくこと」であるとすれば、メソッドもまたこうした理論を踏まえて自分の中から発掘してくるべきものなのかもしれません。

ほんとうのリーダーのみつけかた

梨木香歩氏の『ほんとうのリーダーのみつけかた』を読みました。五年ほど前のトークセッションでの講演を文字に起こしたものと、雑誌『図書』に寄稿された二篇をまとめたものです。いずれも数年前に発表されたものですが、いま読んでもその問いかけは新鮮、いえ、いまだからこそより心に響きます。また、本自体は薄く活字も大きいのですぐに読めてしまうのですが、とても大切なことを語りかけてくれる一冊でした。

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ほんとうのリーダーのみつけかた

表題にもある「リーダー」については、飼い犬と飼い主の関係を例に語っている場面で、とある有名なドッグトレーナー(調教師ですか)のこんな言葉が引用されています。

リーダーの条件とは、「毅然として、穏やかであること」(22ページ)

人間は群れを作る生き物であり、それゆえに自分を安心・安定させてくれるリーダーを希求する、その指導のもとにまとまることができるリーダーを無意識のうちに求めるのではないかと筆者は言います。でもいまのこの国では、それが同調圧力という形をまとって人々に圧力を加え、かつ「毅然として、穏やかであること」という形容から想像される賢人然とした佇まいからはおよそ程遠い人物が長くリーダーの座に居座っています。

そんななかで「ほんとうのリーダー」はどこにいるのか、それは……というのがこの本の白眉なのですが、それは「ネタバレ」になるので本書をお読みいただくとして、私がまず心に響いて付箋を貼ったのは、帯にも引用されているこの部分でした。

正しい批判精神を失った社会は、暴走していきます。批判することは、もっとよくなるはずと、理想を持っているからできること。社会を愛する気持ちと反対のものではないのです。客観的な目を持つ。つまり、そういう視点から自分をも見つめる。筋肉のようなものをつける。(30ページ)

最後の「筋肉のようなものをつける」というのがいいですね。まさしく正しい批判精神とは、筋トレのように倦まず弛まず日々自分に向き合い、自分の頭で考え続けることでしか身につかないものではないかと思うからです。そしてまた自分で考えることについて、こうも書かれています。

自分で考えるためには、そのための材料が必要です。その材料となる情報をまず、摂取しなければなりません。でもその情報もすべて鵜呑みにするのではなく、自分で真剣に向き合って、おかしいと思ったらこれはおかしいんじゃないか、と、疑問に思わなければならない、そういう時代になりました。つまり、その情報が出てきたところの事情を想像する力もつけなければならない。(35ページ)

考えるための情報摂取源として、現代はネット、とりわけSNSが大きな存在感を持っていますが、私はここのところ、このSNSこそが同調圧力を生み、知らず知らずのうちに自分の頭で考えることをしなくなる装置のように思えていて、意識的に距離を置く、あるいは目的意識を持って限定的に接するようにしています。

多様な意見が飛び交うSNSがなぜ同調圧力を生むのかって? たしかにSNSには自分ひとりでは想像すらできなかったような「耳目を惹かれまくり」の情報がどんどん飛び込んできます。でもそれらに引っ張られてあちこち情報のアンテナを伸ばし続けているうちに、ふと気づくと自分という核がなくなっているような気がすることがあるのです。自分という核を失って「マス」に身を預けてしまうという点では、これも同調圧力の一変種なのではないかと思ったのでした。

先日、とある有名なブロガー氏がTwitterについて「以前はテレビより情報が早いというところに価値があったが、最近は情報の多様性にある」とおっしゃっていました。自分一人では関心を持つことすらなかった話題に触れる機会をもたらしてくれるのが価値だと。私は確かにTwitterにはその一面があるとは思いますが、それにしては玉石混交の「石」の含有量があまりにも多すぎるような気がします。そしてまた逆に極めて手っ取り早く自分の「メンター」を求めてしまいがちであるとも。

またこの本ではInstagramについて、「人目を引くことに価値を置き、他者に評価してもらってはじめて安心する、極めて主体性の希薄な日常が透けて見える」ときわめて厳しい評価がなされています。私はInstagramを使っていないのでよくわからないものの、SNSの多様性に触れ続け、脊髄反射的に反応し・反応されることを続けていると、自分ではこの世界に広くアンテナを張ってフラットで多様な価値観を体現しているつもりで、実は自分では何も考えていなかった、あるいは自分で考えたと思っていたものは実はSNS圏内での力学に迎合した結果のものだった……ということはあるかもしれない、と思います。

自分を主体にして、客観的な視点を持つ。言うのは簡単ですし、なんとなくいいこと言った気にもなるのですが、よく考えるとこれほど難しいこともないような気がします。だって自分に向く視線と、自分から離れた視線を同時に持つということなんですから。

そしてそういう作法を身につけるためには、もちろんSNSの「情報の多様性」もひとつの道具になるでしょうけど、それ以上に有効なのは月並みですけどやはり広範な読書ではないかと思います。玉石混交の中からキャッチーで威勢がよくて歯切れのいい短い宣言や箴言をみつけてはスッキリするという習慣から少々離れて、まとまった量の文章を読み、自分の頭で考えることを繰り返す。そうやって「筋肉のようなものをつける」しかないのではないかと。

温暖化で服装がどんどんシンプルになる

アパレル受難の時代だそうです。ユニクロを始めとするファストファッションの隆盛で高い服が売れなくなり、コロナ禍によるリモートワークでますます外出のための「おめかし」需要が減り……とさまざまな要因が重なっているそうですが、個人的には気候の温暖化がそれに拍車をかけているような気がしています。

今年の夏はとんでもない酷暑でしたが、夏がここまで暑くなってくると、フォーマルなビジネスウェアはどんどん敬遠される一方ですよね。もはや「クールビズ」などで対応できるレベルは超えていて、私たちはもっともっとラフで涼しい格好をそこそこフォーマルな場でも許容せざるを得なくなっていくと思います。個人的にはスーツやネクタイは嫌いじゃないんですけど、この国では、特に夏の東京ではもう無理、というか拷問に近いと思っています。

冬だって私の子供のころに比べればずいぶん暖かくなりました。もちろん南北に長い日本列島のこと、地域差はありますが、少なくとも東京の冬はもう極端な寒さとは縁遠くなっています。分厚いオーバーコートなんて、東京ではもうここ十数年ほど着ていません。縕袍(どてら)とか丹前(たんぜん)なんてのも、住宅事情にもよりますが使う人はかなり少なくなっているんじゃないでしょうか。

台湾に住んでいた頃は、まあほとんど仕事しかしていなかったからというのもあるのですが、極端に服が少ない暮らしでした。日本のような同調圧力が少ないので「おめかし」することもないし、暖かい台湾の、それも一番南の地方だったので、冬の一番寒いときでも薄手のセーターが一枚あればいいくらい(それも1〜2週間程度)。とにかくシンプルきわまりない服装の暮らしでした。

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https://www.irasutoya.com/2015/07/blog-post_9.html

そして私はいま、気候の温暖化でほとんど台湾と同じような環境になってきた東京(夏の蒸し暑さ・不快指数でいったらむしろ東京の方がひどいかも)で、気がついたら当時と同じようなシンプルきわまりない服装の暮らしになっています。服装が自由な職場で働いているということもありますが、かつてたくさん持っていたフォーマルなスーツは一着(と冠婚葬祭用の黒)だけになり、一番フォーマルな姿でもジャケパンにネクタイをするかどうかという程度です。

特に夏の暑い時期は、ほとんどがシンプルなジーンズにシンプルなTシャツかポロシャツ。それも気に入ったものを複数枚持っていて、それをほぼ毎日ローテーションしています。靴も同様。というわけで、私服なんだけど制服・ユニフォームみたいないでたちになっています。色も青と白とグレーだけ。柄物はわずかにボーダー柄があるくらい。

ただし、服装で一番大切な「サイズ感」だけは慎重に選んでいます。あと服装以外の「清潔感」。といっても髪を切る・ヒゲを剃る・靴を磨くという程度ですが。数年前に「ノームコア」というファッションが話題になりましたが、もはやノームコアと肩肘張って呼ぶのさえはばかられるくらいのシンプルなところに来てしまいました。そしてこれが、ホントーにラク。参考図書はこちらです。主として若い方々向けにかかれた本ですが、私のような中高年にも十分応用できます。

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服が、めんどい 「いい服」「ダメな服」を1秒で決める

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結局、男の服は普通がいい 世界一かんたん、一生使えるオシャレの方程式

ファッションのトレンドというものはどんどん変わっていくので、十年後も同じシンプルな格好をしているかどうかは分からないのですが、ここまで気候の温暖化が進んだ日本では、特に夏の東京では、シンプルでラクなスタイルがどんどん浸透していくのではないかと私は予想しています。ファストファッションの隆盛はそれと機を一にした現象なのかもしれません。