インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

メタボよりロコモ

書店で偶然、面白い題名の本を見つけました。その題名の通り、フィジカルトレーナーである中野ジェームズ修一氏が、様々な職業の「運動嫌い」の方々と対談しながら、運動やトレーニングの意義を説明する本です。

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中野ジェームズ修一×運動嫌い: わかっちゃいるけど、できません、続きません。

対談のお相手はみなさん、様々な理由でほとんど運動をしていません。仕事や子育てで精一杯で、とてもじゃないけどそんな時間や気力や体力がないという方ばかりです。いや、よく分かります。私もかつては同じように「運動しなきゃいけないとは思っているけれど、時間もないし、そもそも運動自体が大嫌いだし」でなかなか運動を習慣化できなかったからです。体操もジョギングも、通勤時に一駅二駅分歩くのも、エスカレーターではなく階段を使うのも……。

中年にいたって下腹が目立ってきたときも、「まあお稽古で着物を着るときはかえってこの体型の方がかっこいいし」などと自分を納得させて、ほとんど運動していませんでした。ところが、そのころから肩こり、腰痛に加えて、なんとも言えない「しんどさ」が耐え難いほどになってきました。不定愁訴というか、男性版更年期障害というか、とにかくからだ全体がどよ〜んと不調で、QOL(クオリティ・オブ・ライフ:生活の質)が下がっていたのです。

中野氏によれば、「健康」と「筋肉」は大いに関係があるのだそうです。筋肉と聞くと、すぐに「ムキムキ」とか「ボディビル」といったイメージが先行して嫌悪感をあらわにする方は多いのですが、ダイエットしたいなら筋肉を鍛えるのが一番効果があると氏は言います。それは筋肉量が増えると基礎代謝量が増えるので痩せやすくなるからなんですね。筋肉もからだの一器官で、筋肉ほどエネルギーをたくさん使ってくれる器官はないので、脂肪を燃焼させるためにも筋肉が必要なのだと。

また、ポコっと出たお腹を引っ込めようとやたら腹筋を鍛えようとする方がいますが、これも少々方向がずれていると中野氏は指摘します。私もトレーニングに通っているジムでトレーナーさんから言われたのですが、腹筋って、なかなか筋肉量が増えないんですよね。それより太ももやお尻、胸や背中などの大きな筋肉のほうが鍛えやすい。そういった筋肉を増やして脂肪を燃焼させるほうが、結局はお腹まわりにも効いてくる。腹筋が割れて見えるのは、腹筋自身が増大しているというより、その上にある脂肪が減るからなんですね。

健康診断などでは、以前はよく「メタボ」が話題になりました。いまでも一定年齢以上の人には「メタボ健診」が項目として入っていますけど(そのわりに行われるのは腹囲測定だけですが)、中野氏によればメタボよりもむしろ「ロコモ」のほうが深刻な問題なんだそうです。ロコモは「ロコモティブシンドローム(運動器症候群)」の略。加齢に伴って運動機能が衰え、要介護状態や寝たきりになってしまう危険性を指摘したものです。

現在筋トレがブームだそうですが、これも歳を取って歩けなくなったり動けなくなったりした自分より上の世代を見て、その辛さや悲惨さに「今から鍛えておかないと」と危機感を持つ人が増えたからではないかと言われています。私が筋トレを始めたのは現時点での自分のQOL低下を痛感したからですが、もっと歳を取ったらより切実にQOLと向き合わなければいけなくなるでしょう。

その意味ではロコモはかつてのメタボ並にポピュラーな課題として人々の意識に上るべきなんですね。一時期話題になっていたNHKの「みんなで筋肉体操」はそうした目的もあって放送されていたんだと思いますが、少々エキセントリックな側面ばかりが強調されて広く浸透しなかったのはもったいなかったと思います。

「筋肉があると本当にあらゆることが楽」と中野氏はおっしゃっています。私はこの二年半ほど筋トレを続けてきましたが、その言葉の意味が本当によく分かります。

やはり「不要不急の外出は避けるべき」なのか

在宅勤務や自宅待機ばかりで身体がなまってしかたがないので、いつも早朝に通っているジムに行ってきました。今月に入ってずっと休業状態だったのですが、今日から業務再開になったからです。スタジオレッスンなど、人数を制限するなどしていたみたいですが、私がいつも利用しているフリーウェイトのコーナーはいつもと変わらない風景でした。いや、いつもより若干人が少なかったかな。やはりスポーツジムでの感染例が大々的に報道されていましたから、利用を控えている方もいるのだろうと思います。

不要不急の外出は避けるようにと「自粛」が始まって随分日数が経ちましたが、私はちょっとやりすぎじゃないかと思ってきました。あまり自粛が進みすぎると、お金が回りません。お金が回らないと社会のあちこちで悲鳴を上げる人がどんどん増えていきます。というわけで、一方で手洗いや消毒など必要なことはきちんとやって「正しく怖がり」ながらも、一方ではできる限り普段と変わらない暮らしを続けようと思って今朝もジムに行ってきたわけです。

ところが、ネットで色々と検索していたら、感染が拡大しているこの時期はやはりできるだけ外出しないようにするのが一番の策だと主張している方がいました。イギリスや、おそらく日本もこの方針に近いと思われますが「ピークカット」という戦略の陥穽を指摘するものです。病床数は十分でも、重症者の治療に対応できる機材はそこまで多くないため、医療崩壊の起こる危険性が高いという主張は説得力があります。ニュースでも、イタリアなどがすでにこの状態に近づきつつあると伝えられていますよね。

medium.com

この記事は最後に「家にとどまる勇気を持とう」として、“STAY HOME NOW”と二度繰り返して呼びかけています。う〜ん、やはり今の段階では経済の冷え込みを甘受しながら不要不急の外出はできるだけ避けるのが上策なのでしょうか。ワシントン・ポストのこちらの記事も同様に、人々が社会の中で最大限に距離を取るのが一番効果があるとしています。

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https://www.washingtonpost.com/graphics/2020/world/corona-simulator/

そうか……。この春はできるだけお金を回すため、自分なりに消費に力を入れようと思っていた(といっても、映画やお芝居を見に行く程度ですが)のですが、それも控えたほうがいいのかな。もっとも映画館などいまはかなりガラガラなようですから「距離」は十分取れているような気もします。一番問題なのは東京都心などの通勤電車ですよね。今日も早朝にジムへ行った際、電車に乗りましたが、ピーク時ではない時間帯だったにもかかわらず、けっこうな混みぐあいでした。

おでん・ド・ブラン

毎年冬に何度か作る「おでん・ド・ブラン」。白い食材ばかりで作った淡白なこのおでんは、写真家・現代美術作家の杉本博司氏が『趣味と芸術――謎の割烹 味占郷』で紹介されているものです。

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趣味と芸術 謎の割烹 味占郷

いまAmazonでこの本を検索してみたら、すでに新刊本は絶版になっているのか、マーケットプレイスで異様な高値がついています。でもだいじょうぶ、おでん・ド・ブランの作り方はごくごく簡単なので、何もこの本を買う必要はありません(こらこら)。

仕事のない日に、午前中から大鍋を引っ張り出してきて、白い食材を並べて入れ、ひたひたになるくらいの水と、その水の量に見合った「白だし」でゆっくり弱火で煮込んでいくだけ(出し昆布も敷きます)。杉本氏がおっしゃっているように、このおでんは普通のおでんに入っている「揚げ物」類を一切入れないのが特徴です。揚げ物を入れないことで、お出しがあくまで淡白なままに仕上がるんです。杉本氏は大量の鰹節で出汁を取るんですけど、私は伝家の宝刀(白だし)で。

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個人的な好みで、白いソーセージを入れますけど、ソーセージは最初から一緒に煮込むと膨張しすぎて大変なことになるので、最後に加えて温める程度にします。今回は大根・茹で卵・白滝・竹輪麩・竹輪・筋蒲鉾・白舞茸・焼き豆腐を使いました。全体的にごくごくあっさりなので、辛子もフィンランドでたくさん買いこんできた「シナッピ」のチューブを添えました。和辛子よりかなりマイルドで、ほんの少し甘みがあるマスタードです。

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Turun Sinappia トゥルン シナッピ 280g  マスタード からし フィンランドのマスタードです

輸入品だからしかたがないですが、ネットでの値段設定はこれもずいぶんお高いなあ。現地だといたって庶民的な食材なのでとてもお安いです。

自分の職場で感染例が伝えられたら

先日、私が勤めている学校の職員が「新型コロナウイルス」に感染していたことが分かりました。ご本人は軽症でいたって元気だそうですが、感染の拡大を防ぐため、この職員と近くで接触した職員は自宅待機+経過観察、学生は全員立入禁止、図書館や購買や学食などの学校施設もすべて休業となりました。私がいる部署はかなり離れているので時差出勤を続けていますが、今日から「できる限り出勤せず、自宅でテレワークを行うこと」との指示が。

個人的にはテレワーク大賛成なのですが、いざやろうとするといろいろ大変です。ほとんどすべての教材や資料や書類は普段からクラウドに置いてあるので特に問題はないものの、参考書籍や辞書類などはやはり「実物」が必要なんですね。そもそも電子化されていない書籍も多いし、電子化されていても、パソコンの画面でそれらを開いて参照しつつ作業するというのは、やってみると分かりますけどけっこう面倒で作業効率が落ちます。

といって全部自宅に持って帰るのも現実的じゃありませんし、プリントやスキャンやカラーコピーなどを全部自宅でやるわけにもいきません。イントラネットやCALL教室の設備と連動している教材もあるし、やはり出勤しないとできない作業はけっこうあるんだなと気づきました。でもまあ、こういうところを少しずつ変えて適応していくのも「働き方改革」かなとは思うので、よい機会ではあるのですが。いまはとにかく、テレワークでもできることを優先して、出勤が解禁されたら遅れを取り戻すしかありません。

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https://www.irasutoya.com/2018/01/blog-post_94.html

うつされる立場からうつす立場に

ところで、自分の職場近くで感染例が報告されたことで、自分の心境に興味深い(と言っていいのかどうか、わかりませんが)変化がありました。これまで私は、今回の感染拡大に対して「うつされる(かもしれない)立場」だったわけですよね。だから手洗いやうがいや人混みを避けるなどの基本を励行するだけで、マスクはしていませんでした。「うつされる」ことを防ぐ、つまり予防にマスクはあまり意味がないと考えていたからです。

でもこうして、ひょっとしたら自分がすでに職場で感染しているかもしれないという可能性に気づいてみると、逆に自分は「うつす(かもしれない)立場」でもあるのだなと思ったわけです。そして、もしそうだとしたら、どうやったら他の人に広げないですむだろうかと。そう考えると「咳エチケット」はもちろん(これまでもしていましたが)、マスクもしなきゃいけないかなと。でもどこのお店もマスクは品切れ状態なんですけど。

なぜマスメディアで報じない?

学校で職員の感染という報告を受けた際、学校側からは「教職員はもちろん、学生にも、また対外的にもできるだけ情報公開をしていく。事実をありのままに伝え、隠したり誤魔化したりは一切しない」と方針が伝えられました。まっとうな対応だと思います。その方針通り、学校のウェブサイトにはすでに公式の「おしらせ」が乗っていますし、ネットニュースでもその日のうちに報じられていました。TwitterなどのSNSでも情報が伝えられています。

headlines.yahoo.co.jp

ところが、当日の夜から昨晩にかけて、自宅でニュースをチェックした限りでは、マスメディアはどこも報じていないんですよね。うちの学校は東京都渋谷区にあり、最寄り駅はJR新宿駅です。目の前にある甲州街道を挟んで数百メートル先には東京都庁があり、一キロメートルほど先には新国立競技場や、国立代々木競技場などがあります。あれだけ毎日「○○県で2人」とか「どこそこの会社員が感染」とか詳細に報じているんだから、てっきり「渋谷区で1人学校職員が感染」とニュースで流れるかなと思ったんですけど……なぜでしょうね。

語学と辞書について

昨日は奉職している学校で教員のミーティングが開かれました。新年度を控えて、授業のスケジュールやカリキュラム、シラバスなどを確認する会議です。その場所で、ある日本語の先生からとても興味深いお話を聞きました。いわく「留学生が、ネットの辞書で調べた語彙を使って怪しげな日本語を書いてくる」。これ、留学生と日々接しておられる教員の間では「あるある」な事例かもしれません。

私も通訳や翻訳の授業で、留学生が披露してくれる訳出の日本語に怪しげな語彙があると指摘をするのですが、往々にして帰ってくる答えは「辞書にそう載っていました」というもの。それで「どの辞書ですか」と確認してみると、すべてネット上の無料で提供されている辞書です。中には海外の方が作ったと思しきかなり怪しい辞書もあります。

個人的には「ネットにある=まずは疑ってかかれ」もしくは「別のネットの情報で裏を取れ」なんですけど、現代のお若い学生さんにとって「ネットにある=オーソライズされたもの」みたいなんですね。するっとそのまま取り入れちゃう。かつての「活字信仰」にも似ています。とまれ、スマホ経由のネット辞書を使っている留学生がほとんどという時代です。電子辞書を使っている人さえ滅多に見かけず、紙の辞書に至っては皆無と言ってよいかと思います。

私は、一応授業では紙の辞書を推奨してその意義も説明していますが、それに共感して紙の辞書を買った人を見たことがありません。おのれの力不足を痛感しています。「スマホでネット辞書」を変えさせることは難しくても、せめて①「分からない→即スマホ」という「脊髄反射」だけはしないように、②(上述したように)別のネットの辞書で裏を取るように、と言っています。まずは自分の頭で考え、それを確認するためにネットの辞書を引き、さらにセカンドオピニオンを求めてね、と。でもこの面倒くさい方法を愚直に実行する人も……残念ながら非常に少ないです。

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https://www.irasutoya.com/2014/12/blog-post_665.html

「権威」のある辞書にも……

しかし、昨日のミーティングではこんな事例が報告されていました。ある留学生が練習問題にあった「墓地」という漢字に「はかち」という読みを書いてきたというのです。この留学生もご多分に漏れず「辞書にそう書いてありました」だったのですが、驚いたのはそれがネットの『広辞苑』で見つけた読みだという点です。留学生としては『広辞苑』にも載っている読み方がなぜ間違いなのか納得がいかないと。

sakura-paris.org

それで調べてみたら、確かに『広辞苑』でも『大辞林』でも『大辞泉』でも「墓地」の読みに「はかち」が載っています。しかも「ぼち」よりも上に出てくる。これでは留学生は「はかち」が一番ポピュラーな読みで「ぼち」はその次と考えても無理はありません。ちなみに『明鏡』や『新明解』では「ぼち」しか載っていません。

墓地を「はかち」と読んだり言ったりしたことは、私自身は一度もありません。でもネットで検索してみると大量にヒットします。中には一般的には「ぼち」だが、墓地にするための用地という意味で「はかち」と言うのではないかというご意見がありました。なるほど、不動産屋さんなどが使う業務的な用語というわけですね。でもそれだったら私は「墓所(ぼしょ)」を使うかなあ。

この事例を報告してくださった先生によると、ネットの辞書は『広辞苑』のような権威性のある辞書を下敷きにしていることが多く、その『広辞苑』には「はかち」が載っている、それもネットで検索したら「ぼち」よりも「はかち」が上位に載っている以上、学生がこれを使ってしまうのはしかたがないのかもしれないとのことでした。う〜ん、そうですか……。

たぶんこうした例は他にもあると思います。ともあれ、学生さんが紙の辞書を使わずネット辞書に頼るという趨勢は止めようもない中、今度はそのネット辞書で裏を取った結果がとても一般的とはいえない言い方だった、それも権威性のある辞書が裏打ちしてくれた……となれば、私たちはどうすればいいのでしょうか。

「トンネル・デザイン」の危うさ

上述したように、現代の学生さんは初手から紙の辞書など使わず、よくて電子辞書、圧倒的多数はネットの辞書を使って言葉を学んでいます。私はこれ、長い目で見るとかなり大きな知的損失とでも呼ぶべきものにつながるのではないかと危惧しています。ずっと以前にこのブログで『プログレッシブ中国語辞典』第二版の巻頭言にある「トンネル・デザイン」のくだりを紹介したことがありました。もう一度それを引用します。

出発点から目標点に向かってトンネルを掘るような一直線の進み方をしたのでは、その課程で何も学ぶことはできないし、記憶するいとまがないことにも留意しなければなりません。入門・初級段階で身につけなければならない語彙は、本来的には調べて探し出す対象ではないのです。

qianchong.hatenablog.com

当時も思いましたが、これは「さらっ」と、でもすごいことを言っていると思います。初学段階では「分からない言葉がある→辞書を引く」というのは本質ではないというんですね。初学者にとって辞書は、まずは大いにあちこち泳ぎ回ってみるべき大海原みたいなものであり、その体験を積み重ねないと語学の体力というか筋肉のようなものがつかないのではないかと。

国語学習者にとっての辞書

特に中国語の学習者にとって、紙の辞書を使うことがいかに重要かを語っている文章を、こちらの駒沢大学のウェブサイトで見つけました。こちらでも「トンネル・デザイン」に触れ、『プログレッシブ中国語辞典』の巻頭言も紹介され、その上でこう書かれています。

中国語の辞書はたいてい、漢字ごとに意味分類と字義、用例があり、その下に、その字で始まる単語を並べる形式をとっている。これは上で見たような中国語独特の「単語」の成り立ちにぴったりだ。知らない単語に出くわしたら、まず最初の一字に狙いを定め、その字の解説を経て、ずらり並んだ単語群からお目当ての単語にたどりつく。リニアでトンネルを駆けぬけるのと比べ、ひと手間かかる。だがそのひと手間に学習者は、(1)単語の基礎にある「字」の意味分類 (2)一字を共有する大量の別単語――という二つの風景を見ることになる。それらを眺めるうち、だんだん「字」に対する感性に磨きがかかり、中国語の旅が豊かで楽しいものになる。トンネル内を驀進していると、単語が字というユニットからできていることすら見落としてしまいがちだ。
どの外国語の先生も、きっと紙の辞書の効用を説くに違いない。だが中国語の場合、見晴らしがよいからだけではなく、紙でなければならない構造的理由があったのだ。

www.komazawa-u.ac.jp

中国語の旅を楽しくするためにも、中国語の学習における辞書は「紙でなければならない構造的理由があった」。けだし名言です。ウェブサイトには署名がありませんが、どなたがお書きになったのでしょう。拳拳服膺すべき文章かと思います。

通訳というおしごと

関根マイク氏の『通訳というおしごと』を読みました。通訳業界の現状、通訳者としてのデビューからステップアップ、現場での心構え、通訳者のセカンドキャリアまで、通訳の語学としての側面よりも「おしごと(業務)」そのものにスポットをあてて書かれた一冊です。語学のお仕事を志す学生さんが読むのもおすすめですが、何より現在通訳学校に通っておられる方々にいちばん重宝される内容ではないでしょうか。

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通訳というおしごと アルク はたらく×英語シリーズ

この本で紹介されているのは、実際に通訳者として稼働している方、あるいは通訳業界で働いたことがある方には自明のことばかりです。でもこうした「常識」こそが、実は業界の外にいる方にはなかなか理解してもらえないことでもあります。その意味で、通訳業務を依頼する立場にある方々にも、いうなれば「通訳者のトリセツ」的な意味合いで読んでいただきたいと思いました。

一方で、この本は主に英語通訳業界を念頭に書かれていますから、他の言語の情況とは異なる部分もあるかもしれません。例えば、キャリアを積んでいく過程で自分の専門分野を絞り込んでいくというようなことは、案件(仕事)の数が圧倒的に多い英語だからこそできるのかなとも思いました。

AIなどの技術が日進月歩で新しくなっていく今後における通訳者の「生き残り術」や「撤退」の仕方についても言及があります。その内容にはとても共感する一方で、関根氏のこうしたお話を読んでいて、私はやはり通訳業界における「二極分化」について一層その思いを強くしました。それは最終章の一節「コモディティ化する通訳の現在」に引用されている、ここ十年ほどにおける通訳レートの推移にも如実にあらわれています。

確かな技術を持ついわゆるAクラスの通訳者は、一〇年前とほぼ変わらないレートを維持していますが、それ以外のクラスはこの一〇年で最大約2万円/日も下落しています。

つまりこれは、一部の「ハイエンド」の通訳者はこれからも生き残っていける、いや、ますますその必要性は高まる可能性すらあるけれども、それ以外はどんどん食べるのが難しくなっていくということだと思います。関根氏も「通訳者は関東だけで何百人といますが、本当に優秀な通訳者は常に不足気味なのです」とおっしゃり、特に繁忙期の年末などは「文字通り『忙殺』状態です」とのこと。

もちろん通訳業務には様々な業界での様々な稼働状況がありますし、この本でも解説されているように「インハウス」「エージェントの専属」「フリーランス」といった雇用形態によっても違いはあります。ただインハウスは昔から「語学屋さん」の呼称が示すように「基本的に昇給しない」(と関根氏も書かれている)立場。また仕事のパイがそこまで大きくない中国語の場合、エージェントの専属というのはごくごく僅かでしょうし、フリーランスフリーランスで、翻訳に引き続き通訳も価格破壊や経費削減の波に襲われつつあります。

この本には、現在多くの通訳者を悩ませている「仮案件&リリース」の問題についてはあまり多くの言及がありません。関根氏ほどのハイエンド通訳者にとってはそれほどの大きな問題ではないのかもしれませんが、この問題は通訳者とエージェントの信頼関係にも深く影を落としており、今後フリーランスでの稼働はますます厳しいものになっていくのではないか(少なくとも英語以外は)と私は考えます。

qianchong.hatenablog.com
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特に昨今のような「自粛」で経済全体が冷え込みつつある時にはなおさら。ちょうど私は来週、中国語の通訳者として稼働したいかた向けに「入門編」となるようなお話をしてほしいと依頼されているので、関根マイク氏のこの本をぜひ紹介しようと思っています。そしてまた、「ハイエンド」を目指そうとする方を心から応援する一方で、厳しい現実も踏まえ、無責任に不確かな夢ばかりを語るのは慎まなければと考えています。

別役実さんのこと

今朝の新聞で、劇作家・別役実氏の訃報に接しました。別役氏といえば日本における「不条理演劇」の代表的な作家。そも「不条理」という言葉を知ったのも高校時代に別役氏の演劇に接してからでした。確か高校の演劇部が文化祭が何かで上演していた「死体のある風景」というお芝居を見たのが最初だったと思います。

そう、別役氏の作品群は高校演劇でも定番の、というかとても人気のある一ジャンルを成していました。分かりやすく前向きで、愛だ恋だ青春だ……「ではない」作風が、何かと青春をこじらしている高校生はとても魅力的な世界に感じられたんですよね。特に体育会系に馴染めない文化会系文学青年にとっては。

というわけで、それからは演劇部の友人に誘われて(私は当時美術部でした)高校演劇祭にも出かけるくらい演劇が(というか別役氏のお芝居が)好きになりました。埼玉県の秩父農工演劇部が上演した「天神さまのほそみち」は実に衝撃的で、薄暗い舞台に据えられた電信柱と小さな縁日用の提灯が点々と連なる舞台装置を今でも覚えています。

浪人して大学に入った頃、演劇界は「小劇場ブーム」に沸いていました。大学で私は劇研に入り、本業の専攻はそっちのけで演劇にのめり込んでいました。アルバイトして稼いだお金のかなりの部分を観劇につぎ込んでいて、週に何本も、時にはマチネ(昼公演)とソワレ(夜公演)を「ハシゴ」するくらい観ていました。夢の遊眠社第三舞台や劇団3○○などの有名どころをはじめ、青い鳥、第三エロチカ、 秘法零番館、離風霊船、NOISE……といった、いわゆる「第三世代」の頃です。

この世代の前から活躍していた唐十郎氏の紅テント(状況劇場)や、68/71黒色テント、第七病棟、風の旅団なども観に行きましたねえ。逆にその後の世代、例えば東京サンシャインボーイズとか、劇団☆新感線とか、キャラメルボックスなどは全く観ていませんから、かなり偏った、熱に浮かされたような傾倒のしかたでした。

というか私は、こうした小劇場演劇のアングラでチープなところ(と括ってしまうのも無理がありますけど)が好きだったんですね。上述の「有名どころ」はメジャーになるに従って大劇場の商業演劇に進出していきます。そうなるとあまり食指が動かなくなります。それでも観続けていたのが別役実氏の作品でした。当時の「ぴあ」(まだ雑誌、紙媒体のころです)で演劇欄をチェックして、別役作品の上演があれば片っ端から観に行っていました。

なかでももっとも印象に残っているのが、渋谷公園通りの東京山手教会地下にあった「小劇場ジァンジァン」で上演されていた、かたつむりの会の「足のある死体」でした。かたつむりの会は、別役実氏の妻である楠侑子氏が毎回違う男優を招いて二人芝居を上演するというスタイルで、このときの男優は青年座の演出家でもあった鈴木完一郎氏でした(今検索したら、鈴木氏もすでに亡くなっていました)。

「足のある死体」は踏切の遮断機の前で足の突き出た大きな包みを引きずる女性と、誰かの披露宴に参加した帰りにたまたまその場に出くわした男性との間で繰り広げられる会話劇です。私はこのときの衝撃が忘れられず、後に大学の劇研で自分でも演出・出演して上演したことがあります。建築学科の江崎くんが精巧な遮断器の舞台装置を作ってくれて、デザイン学科の平野くんはとても凝ったシルクスクリーンのポスターを作ってくれました(平野くんは「死体役」もやってくれました)。

当時の写真は全く残っていません。当時はもちろんスマホなどなく、デジタルカメラさえありませんでした。レンズ付きフィルム(使い捨てカメラ)の「写ルンです」が登場したかしないかの頃じゃなかったかと思います。ともかく私はカメラを持っていなかったので、なにも思い出になるようなものが残っていないのです。残っているのは友人(上述の平野くん)が撮ってくれたこの一枚だけ。大道具を作っている私です。

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この頃別役実氏は、文学座とコラボしてかなり濃密な上質の作品をいくつも残しています。なかでも「さらだ殺人事件」(若き日の角野卓造氏が出ていました)や「ジョバンニの父への旅」などはとても印象に残っています。一度「さらだ」の時だったか、新宿区信濃町文学座アトリエの客席で、別役実氏をお見かけしたことがありました。私の真後ろの席に座っておられたのでした。

当時読んだ演劇雑誌の評論で、別役実氏のお名前をその作品世界に絡めて「別」の何かが「役」を通して「実」になるのだと解説しているものがありました。おバカな大学生の頭にも「ちょっと牽強付会じゃないかしら」とは感じましたが、確かに別役実氏の作品に出てくる登場人物は「不条理演劇」というカテゴライズにはなじまないほどリアリティのあるものだったとは思います。

「足のある死体」でいえば、日常生活のなかにいきなり登場する「死体」をめぐってやり取りされる二人の台詞は、イヤになるくらい人間の性(さが)とか業(ごう)みたいなものを浮かび上がらせていました。もっとも大学生だった私にそんな深いところまでを体現した演技ができていたかどうかと考えると、甚だ心もとない(というかできていたわけがない)のですが。

基本的にスタティック(静的)で陰鬱なトーンさえ漂う別役実氏の作品群は、今の時代にはあまりウケないかもしれません。それでもこうした心の奥底に深く降りていくような演劇は今でもその魅力を失ってはいない、というか今の時代にも必要なのではないでしょうか。今後別役氏の「追善公演」のような企画が立ち上がるといいな。その時はぜひ観に行きたいと思います。

自粛ムードの春に

昨日の朝、ブログに投稿したあと、ネットで以下の記事をつづけて読みました。いずれもこのまま社会の停滞を座視せず、普段の暮らしを取り戻そうと訴える内容です。本当に、おっしゃる通り。今回の「新型コロナウイルス」騒動、もうそろそろみんな頭を冷やして、過剰な自粛ムードにもひと区切りつけるべきではないでしょうか。なのに、うちの国の首相ったら「緊急事態宣言」にかこつけてさらに「私権の制限」をなどと言い出しちゃってます。危なかっしいったらありません。

blogos.com
note.com

こういう時は誰もが詰め腹を切らされるのを恐れて、ゼロリスクないしは事なかれ主義に走ってしまうものです。でも私は一人一人が正しく怖がったうえで、うがいや手洗いなどの基本を抑えつつも、職場やコミュニティなどそれぞれの持ち場で「全て取りやめなどという思考停止をやめて、前向きにリスクと向き合っていきましょうよ」と言うべきだと思います。

私の職場でも、二年間学んできた留学生の卒業式が中止になってしまいました。でも教員から「それはあまりにも残念」という声があがり、うちの科だけでもみんな集まって、卒業式をしようということになりました。学校側にも働きかけて、校長先生から卒業証書の授与をしてもらうことになり、事務の皆さんにも生花の手配をお願いし、私たち教員は手作りで飾り物やら、写真を集めたスライドショーやら、黒板アートやらを作りました。最後には教員全員で歌を歌って……。

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実はこの時期、来年度(今年四月から)の授業計画を立てて具体的な準備に入っているのですが、私は校外での通訳実習とか、毎年秋の文化祭で取り組んでいる演劇などについて、かなり後ろ向きな気持ちになっていました。学校のカリキュラムとして位置づけられているものの、これらの活動にはとてつもなく手間がかかります。だけど、非積極的な学生も多いし、またみんなのお尻を叩いてテンションを上げていくの、なんだか疲れたな、めんどくさくなっちゃったな、今年はもう規模を縮小するか、いっそのことやめちゃおうかななどと。私は、知らず知らずのうちに自粛ムードに呑まれていたのかもしれません。社会の雰囲気ってひとりひとりの精神にも影響するものなんですね。

上掲の記事にはこんなことが書いてありました。

もうネガティブなことばかりいうテレビを消して、まちに出ると違うものが見えると思いますよ。いい加減まちに出ましょう。そして買い支え、飲み食い支えしましょう。

いいことおっしゃる。この春は私もささやかながら消費に邁進しようと思っています。どこか近場へ小さな旅行にでも行こうかな。

人が少ないことを喜んでいいはずなのに

昨日は、とある学校の無料公開講座に出かけてきました。講師として一時間半ほど模擬授業をするんですけど、昨今のご時世を反映して参加された方は通常よりもかなり少なめでした。それでも来てくださる方がいるのですからありがたいことです。ただ、申し込まれた人数の半分しか来校されませんでした。無料公開講座はたいてい、申し込んでも当日お見えにならない方が数割はいるものですが(なにせ無料ですからね)、半分の方が来ないというのはやはり今のこの時期だからなのかもしれません。

学校にお見えになった方はみなさんマスクをしていらして、しかも学校側の配慮で入口には消毒液が置かれ、座る場所もお互いが少しずつ離れるようポツンポツンと。いやこれ、語学の訓練としてはかなりやりにくいシチュエーションです。そういった雰囲気を反映してか、授業もなんだか上滑りな感じがしました。学生さんが無反応というのは常日頃から慣れてはいますが、それでも普段よりいっそう冷え切った雰囲気の中、まるで静まり返った湖水にひとり小石を投げ込み続けるみたいな授業を一時間半も続けるのは少々疲れます。

そんなこんなで仕事を終えて帰宅したら、大相撲ファンの妻が春場所の初日をテレビで見ていました。無観客の場内で行司が呼び出しを行い、懸賞幕が土俵をまわり、力士が立ち会い、まったく歓声のない中勝敗が決まる……。とても冷え冷えとした雰囲気でした。私はもとよりあまりスポーツの試合などに関心がないからいいですが、ファンのみなさんはすごくつまらないでしょうね。実況のアナウンサーや解説者もやりにくそう。特に昨日は、ほとんどなにを喋っているのかご自分でも分かってらっしゃらないと思しき元横綱氏が解説だったので、盛り上がらないこと甚だしかったです(おっと、これは悪口でした)。

私は普段、人が大勢いる場所が苦手で、かつ大勢が何かに対して一斉に盛り上がるというシチュエーションが好きではありません。その意味では、昨今の人気が少なくなった繁華街や観光地などの情況にほっと一息つけるはず。なのにやっぱり人が少ないというのは、特に本来人がいるべき場所に人が少ないというのは、なにか神経を病みそうな「悪しきもの」を含んでいるような気がします。自分でも、まったくもって矛盾しているなと思います。

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https://www.irasutoya.com/2014/06/blog-post_4544.html

こまやかな中国語に憧れる

昨日は通訳学校秋学期の最後の授業日でした。この学校では最終日に、これまでの訓練の総仕上げとして外部から専門家をお招きして講演を行っていただき、その内容を通訳するという実習が行われます。昨日の講師は、中国の大学を卒業されたあと日本の大学院で学び、日本の大手化学会社に就職して研究員をされている方でした。

こうした講演会を華人(中国語圏の方々)にお願いしていつも感じることなんですけど、中国語が本当に流暢です。中国語母語話者なんだから当たり前でしょ、と思われるでしょうか。それはまあそうなんですけど、いくらその言語が母語であっても、人前で話す際の巧拙というものはあります。それは私たち日本語母語話者が日本語で話す際も同じであることは容易に想像できますよね。

中国語が流暢というのはつまり、話の内容がロジカルで理路整然としていて分かりやすく、冗語(「えー」とか「あー」とか「そのー」といった不必要な言葉)がほとんどなく、それでいてなるべく平易な言葉を用いて専門的な内容を語り、さらにはユーモアや笑いのセンスも含まれている……ということです。中国語の非母語話者である私のような人間からすれば、ああ、いつかこんな話し方ができるようになったらいいな、でも一生ムリかもしれないと、ただただ惚れ惚れとするような話し方なのです。いや、中国語ネイティブだって憧れる話し方に違いありません。

聴いていてここまで心地よい中国語ですから、生徒のみなさんも張り切って訳していました。そう、話し手の話し方が優れていると、通訳者もノッてくるというか燃えるんですよね。「この素晴らしい内容をぜひお伝えしたい!」とアドレナリンが分泌されるのです。逆に「言語明瞭意味不明」どころか「言語曖昧意味不明」などこかの政治家のような話し方だと、たちまち気持ちが萎えます。

それに普段の録音や録画の教材ではなく生身の人間が話していると、普段の何倍もよく聴き取れるし深い理解ができるような気がします。だから本当は毎回こうして講師をお招きして授業ができればいいんですけど、まあ予算の問題やらなにやらでそれはムリでしょうね。それに講師の先生だって、講演の目的が自分の話を聞きたいのではなくて通訳訓練のためだとなると、内心ちょっと面白くないんじゃないでしょうか。だからこうした実習もその位置づけというかセッティングにはけっこう気を使います。

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それはさておき、この講演会形式の実習では、最後にかならずQ&Aを設けています。会場から質問を出してもらい、それを通訳し、講師の先生の答えをまた通訳し返す。予習の資料には出てこなかった話題に及ぶことも多いので、いちばん緊張する場面です。昨日は中国語による講演で、講師の先生は日本語がわからないという設定(本当は堪能)でしたので、会場から日本語で質問を出し、それを中国語に訳すという訓練になりました。

生徒さんは日本語母語と中国語母語がちょうど半々でしたが、そのみなさんが訳す中国語で若干の違和感を覚える場面がいくつかありました。中国語の母語話者でもない私がこんなことを言うのもおこがましいのですが。例えば、講師の先生にどう呼びかけるか。中国語で“○○先生(xiānshēng)”と言っている方がいましたが、私の語感からすると初対面の講師に“先生”はちょっと馴れ馴れしい感じがします。無難なところではやはり“老師(lǎoshī)”でしょうか。もしくは、昨日の講師は博士号をお持ちの方でしたから“博士(bóshì)”かな。

また会場からの質問、例えば「〇〇について教えて下さい」とか「〇〇についてどうお考えですか」といった部分を“請您說明一下”とか“請您解釋一下”と訳していたのも(まあこれは言い方の語調や雰囲気も絡んできますが)若干の詰問調というか押し付けがましい雰囲気が感じられてひやひやしました。もっといろいろな、例えば“您的看法是如何?”みたいなより押し付けがましくない言い方があるのではないかと。

これは私自身これまでいろいろと「やらかし」てきて、そのたびに中国語ネイティブ(上司や友人など)から指摘されたことなのですが、いくら“你(あなた)”よりていねいな“您”を使ったり、「プリーズ」にあたる“請”を入れたり、「〜してください」的あるいは「ちょっと」ということで相手の負担を下げる働きのある“一下”を加えたりしても、全体としてはやはり押し付けがましくてあまり上品ではないということはあり得ます。

世間には「中国語には敬語がない」などという暴論をものす方がいますけど(中国語ネイティブにもいる!)、とんでもない誤解だと思います。日本語のようにわかりやすい形で現れていないだけで、相手を敬ったり、こちらがへりくだったり、角が立たないアプローチだったり、押し付けがましくない言い方だったりはたくさんあります。そう、上述したような“您”や“請”や“一下”などのアイテムを足す(このあたりは日本語的発想と言えるかも)方法だけではなく、もっと繊細なところで敬語的な表現をすることができると思うのです。

以前にも書いたことですが、かつて私が友人に意見を求めたときに“請把您的意見告訴我好嗎?(あなたの意見を言ってくれませんか)”と、まあかなり生硬な中国語でお願いしたことがありました。そうしたらその友人は「私だったら“我很想聽聽您的意見(あなたの意見がとっても聞きたいな)”とでも言うかな」と指摘してくれたのです。

“請把您的意見告訴我好嗎?”は確かに“請”も“您”も使っているし、最後に“好嗎(いいですか)”を加えて押し付けがましさを消そうと努力している。でも全体としてはやはり「あなたの意見を私に言ってくれ」という要求なんですね。ベクトルが相手から私に向きすぎている。それに対して“我很想聽聽您的意見”は、単に「私が意見を聞きたいな〜」と思っているだけであって、相手に対する押し付けがましさがほとんどありません。「意見を言いたくないなら言わなくてもいいよ」という気遣いが感じられます。さらには「あなたは私が意見を傾聴すべき存在なんです」という相手を立てている意識すら感じられるかもしれません(もちろんこれも、言い方の問題ではあるのですが)。

中国語にはこういう、本当に繊細なところで人と人との機微を感じさせるような表現がたくさんあります。そこに私はとても惹かれますし、冒頭でご紹介したような「中国語の流暢な華人」にはそういう機微が十分に感じられて、聴いているこちらも心地よくなってしまうのです。あああ、そういう中国語を話すことができたら本当に素敵なんですけど。まあ死ぬまで到達できないかもしれないけれど、これからも少しずつ学んでいくしかないですね。

とりあえず、かつてお世話になった『说什么和怎么说――意図と場面による中国語表現 上級編――』(朋友書店)をもう一度復習してみようかしら。この教科書はとても古いので、そのぶん今となってはかなり古めかしい言い方も含まれているのですが、知識人のさまざまなシチュエーションにおける言い方のパターンが載っていて、なおかつよりフォーマルな表現には「+」、うちとけた雰囲気には「−」の記号がつけてあったりして、とても勉強になるのです。

“每堂课的较为理想的时间分配最好是七三开,学生多说,教师少说(各授業時間ごとののぞましい時間配分は7:3として、学習者が多く話し、教授者は少なく話すようにすることである)”といった、教える立場の方にとっても目のさめるような指摘もいろいろと詰まっています。

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CiNii 図書 - 说什么和怎么说

この本はもう絶版だと思います(ネットを探せばあるかも)が、こういう、中国語の敬語表現について様々なパターンを練習できる教材、それも現代の状況に即した新しい教材があったらいいな。学生さんはとかく「教科書的」な表現を嫌がり、「もっとカジュアルな、友達同士で話しているようにフレンドリーな表現を知りたい」といい、SNSなどでもやたらくだけた表現を使いたがるのですが、私は逆にもっとフォーマルな表現を学びたいなあと思います。

もっと「ゆるい」働き方を

新型コロナウイルスの影響が社会のあちこちに出ています。私の職場でも年度末の授業や行事がすべて中止になりました。日本留学の記念ということで、卒業式に着物や袴を着ようとしていた留学生もいるんですけど、その卒業式自体がなくなってしまいました。せめて受け持ちのクラスだけでもと、担当の教職員でささやかな会を計画しています。

教職員にも満員電車を極力避けるためという理由で「時差出勤」が推奨されています。一時間早く来て一時間早く帰るか、逆に遅く来て遅く帰るか。私は普段から満員電車を避けて早朝出勤するか、職場近くのジムに行って始業時間直前に「ひょい」と出勤するかしているのであまり暮らしに変化はありません。でもジムが今月中旬まで休業に入ってしまったので(その先も未定)、ここのところは毎日朝七時には職場に出て、そのかわり夕方は早めに退勤することを繰り返しています。

帰宅時、普段より一時間早く都心のターミナル駅から郊外方向への電車に乗って驚くのは、人がかなり少ないことです。もちろん「不要不急の外出を極力避ける」という昨今の状況がそれを後押ししているのでしょうけど、いつもの混雑が嘘のように少なくて、「人圧」に耐性のなくなっている私には本当にホッとできる環境です。ほんのちょっと時間をずらすだけで、こんなにも快適だなんて。

私たちはまだまだ「9時5時」、もしくは「9時5時」をコアタイムとした働き方から抜け出ていないのだなと改めて思いました。これだけ「働き方改革」が叫ばれ、都心の混雑緩和のために鉄道各社も「オフピーク」の宣伝に力を入れているというのに、大半の会社や学校や事業所は、勤務時間をフレキシブルに考え直すことができないのかと。でも本当に全員が「9時5時」で職場にいなければならないのでしょうか。授業時間が決まっているうちのような学校だって、なにも「9時5時」ですべての教師がびっしりと授業をしているわけじゃありません。

昨日の日経新聞で見かけた、サイボウズの全面広告。「がんばるな、ニッポン」、そして「出社や出張をがんばらせず」という考え方に共感します。

もっともっと「ゆるい」働き方ができる社会を目指すべきだと思いました。今回の騒動でテレワークを導入した企業も多いようですが、オフピークやフレックスタイムも併せ、やってみて「なんだ、意外にできるじゃないか」と一定数以上の人たちが実感できる結果になれば、怪我の功名と言えるようになるのかもしれません。

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豪華だけれど薄っぺらい

先日所用で東京は青山のお洒落な界隈を歩いておりましたら、なにやらこれまたお洒落なカフェテリアに遭遇しました。アジア的な麺料理(スープのない焼きそば系)と様々なデリカテッセン(お惣菜)を選んでワンプレートにしてくれるというのがコンセプトらしい。ちょうどお昼時だったので、興味を惹かれて入ってみました。

麺は色々なタイプがあって、好きなものを好きな味で注文することができます。押し豆腐を細切りにしたような、中国語業界の方にはおなじみの“乾豆腐絲(豆腐干絲)”まで選べるんですよ。デリもアジアンテイストたっぷりのものから洋風のものまで多種多彩で「わあ〜っ」と心が弾みます。トッピングなんかもいろいろ選べたりして、ちょっとお高いけれど、まあここは青山ですからと出来上がったプレートを手に席につきました。

この日はアボガドに皮蛋豆腐を合わせたものとか、オレンジ風味の鶏唐揚みたいなのを選びました。トッピングに香菜が魅力的です。おいしそうでしょう。

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ところが。

う〜ん、私には向かなかったようです。ひとつひとつの食材は(たぶん)とてもこだわっていいものを使っているのだと思いますが、料理全体としてはまとまっておらず、それぞれが主張しあっていて、とてもちぐはぐな印象なのです。いい食材を集めてはいるけれど料理にはなっていないというか、何か料理としての「おおもと」にあるものが欠けているというか。うまく言語化できないのですが「豪華だけれど薄っぺらい」という感じ(ごめんなさい)。

以前にも書いたことがありますが、アイデアは満載で「凝り凝り」なんだけど、ちっともおいしくないラーメンってあるじゃないですか。確かな基礎技術が培われないうちに、小手先の表面的な技術でウケを狙っても、受け手には薄っぺらい印象しか伝わらない――これはたぶん、どんな分野にも通じる道理じゃないかと思います。おっと、エラソーなこと書いちゃった。以て自戒といたします。

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自律的な学習って?

多くの学校が年度末を迎えるこの時期、私の職場でも今年度の総括と来年度の準備が始まっています。こうした年度や学期の変わり目によく行われるのが学生さんへのアンケート調査です。学校の授業や事務や設備、その他もろもろについて、感想や不満や要望などを聞こうというもの。うちの学校でも毎年かなり詳細なアンケート調査が行われており、今年度の結果が先日メールで教職員全員に配布されました。

こうしたいわば「民主的手法」に基づくアンケート、私はぜひやるべき(それも無記名で)だと思っていますが、なかには内心いささか面白くないと思っている方もいるようです。耳が痛い意見も多々含まれていますし、それなりに学生さんと真摯に向き合ってきたのにその努力を否定されるような意見を読まされるのはつらい、ということなのかもしれません。“可憐天下父母心(親の心子知らず)”、ならぬ“可憐天下老師心”だなあと。

でもまあ、学生さんがアンケートの選択項目番号にマルをつけるだけでなく、自由記述欄にわざわざ書いてくださる意見は、批判も含めて正面から受け止めるべきだと思います。ただ同時に、学校生活が充実していたり授業に満足していたりで特に何も書かないという、いわゆる「サイレントマジョリティ」の存在も念頭に置いておく必要はあります。

教員の中には、一部の学生さんのけっこうとんがった意見に傷ついて自分の授業に自信を失いかけちゃう方もいますが、批判は批判として受け止めつつも、その批判が本当に根拠のあるものなのか、検討するに足るものなのかを一度立ち止まって考えてみてもいいですよね。ましてや、教職員の指導的立場にある人が「ノイジーマイノリティ(ラウドマイノリティ)」の意見だけを元に叱責をしたり現場を引っ掻き回したりというのも自重すべきです。

自律的な学習って?

こうしたアンケートで比較的多くの方が書いてくる(その意味でノイジーマイノリティとはいえない)意見のひとつに「○○の授業が少ない」とか「○○の訓練や練習をもっとやりたい」というカリキュラム構成に対する不満があります。私が奉職している複数の学校はいずれも外語や通訳・翻訳を学ぶ場所なので、「もっと○○語を話したい」とか「教養的な科目はいらないから、通訳翻訳だけを練習したい」といった意見に接します。あるいは「もっと面白い訓練がしたい」という意見も。

なるほど、だったらこちらは「もっとビシバシやって差し上げましょう!」と燃えるのですが、同時に若干不可解な思いも頭をかすめます。だって、言語の訓練というのは元々とても「泥臭い」ものであり、他力本願でどうにかなるものではなく、地道な自助努力が必要なものだからです。授業をもっと面白くしてほしいという希望も理解できる一方で、だったらどうしてもっと自ら学ぼうとしていかないのかなと。

教師は教案をあれこれ考えて、その言語の能力が伸びていくお手伝いをすることはできますが、それを自分の中に落とし込んで繰り返し学び、肉体化していく――そう、言語とは、特に聴いたり話したりする「それ」は、すぐれて肉体的なものです――プロセスはひとりひとりの努力にかかっています。受身の姿勢で「もっと訓練の時間があればできるようになるのに」とか「もっと面白く習得させてほしいのに」と言っているうちは、たぶん外語の能力は伸びていかない。

先日読んだ『ことばの教育を問いなおす』(鳥飼玖美子/苅谷夏子/苅谷剛彦共著)という本は、そんな私の不可解な思いに応えてくれる記述が満載で思わず快哉を叫びました。特にことば、それも母語ではない外語を学ぶ際の「自律性」についてこんこんと説いている部分は、そのまま学生のみなさんにも、そして自分自身にも届けたいと思う記述でした。

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ことばの教育を問いなおす (ちくま新書)

国語教育の現場で様々な実践指導を展開した大村はま氏。その氏の薫陶を受けた苅谷夏子氏は、「幾何学の父」と称されるユークリッドプトレマイオス一世に言ったという「学問に王道なし」を引いて、「科学技術がこれほど進歩しAIの時代が来ても、一人の人間が言葉を身につけ、知を鍛えるという挑戦に、王道はないのではないか」と言っています。

大村はこんな言い方をしています。「きっと、ことばの力をぐんとつけたい、急にうまくしたい、そんな方法があれば教えてもらいたいと思っているでしょうが、なかなか、そういう急にぱっと力をつける方法はないようですね。だんだんに、そのかわり確かに、力をつけることを考えましょう」(『大村はま やさしい国語教室』)


言語能力を育て鍛える簡単な方法はない。たとえ権勢を誇ったエジプトの王が求めても、また、教室に電子黒板やタブレット端末が備えられても、そんな便法はない。そう見極めた上で、こつこつと丁寧に勉強していく。言語に関わる神経をしっかり覚醒させた子どもと教師が、現実世界といきいきと重なることばを扱っていく。それが、迂遠なようでいて確かな言葉の教育ではないか――なんだか気が抜けるほど普通で当たり前ですが、でも本当のところではないでしょうか。

そう、「語学に王道なし」とも言われますよね。また鳥飼玖美子氏は「外国語学習は学校では完結せず卒業後も続くとなれば、もっとも重要なことは、学習者が学びを継続できる自律性を涵養することです」と言い、その自律性についてこう書いています。

「自律性」とは何でしょうか。一言でまとめるなら、「自らの学習に責任を持つことのできる能力」です。英語を学んでも、日本語とは言語文化的な距離が遠く、簡単に使えるようにはなりません。その時に、学校や教師や環境のせいにするのではなく、自分自身で自分にあった学習方法を見つける努力が肝要になります。英語の達人とされる人たちは、誰しも、ありとあらゆる学習方法を試した上で、自分に合った方法を見つけて努力を重ねています。シャワーのように聞くだけで英語が上達したという人を残念ながら私は知りません。

身も蓋もないような、あるいは「気が抜けるほど普通で当たり前」の見解ですけど、結局はこれに尽きるのです。世上「これをやればマスターできる!」とばかりに新しい、あるいは革新的と銘打った語学書が次々に登場しますけど(特に英語)、そうした「これぞ決定版の学習方法」が次々に登場するということそのものが、実は語学に王道なし、決定版の学習方法なしということを如実に表しているのではないでしょうか。

語学の達人が実践して効果のあった方法について、それを参考にすることはできても、完全にその上をなぞることはできないし、またすべきでもないと思います。結局は個々人が、その人なりの語学の発達段階を自分で辿っていくしかないのです。となれば、教師の役割はその個々人がどうやって自律的に、しかも長い時間をかけて継続的に語学を学んで行くことができるか、そのヒントやきっかけを与え続けることだけなのかもしれません。

先日ネットを検索していて、偶然面白い動画を見つけました。それは自律走行する「マイクロマウス」と呼ばれるミニカーが、迷路を抜ける時間を競う、台湾でのコンテストの動画でした。一度目は試行錯誤しながら長い時間をかけて迷路を抜けるマウスですが、二度目、三度目と回を重ねるごとに自分で学習しながら最短距離を見つけていきます。そして最後にはほんの数秒でゴールにまで達することができるようになるのです。


2016 Taiwan Halfsize micromouse First Prize Kojimouse 11, Hirokazu Kojima

私はその、小さな機械に過ぎないマイクロマウスが自律的に自らを向上させていく姿にちょっとした感動を覚えました。語学は何も速さを競うものではありませんが、そうやってトライ&エラーを重ねながら、自身の能力を少しずつ向上させて行く営みという意味では選ぶところがないからです。もっとも、これはどんな技能についても当てはまることかもしれませんが。

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か・ち・も・な・い

体幹レーニングや筋トレなどの「朝活」で通っているジムから、件名に【重要】と書かれたメールが次々に届きました。「2月29日の安倍首相の記者会見を踏まえて、弊社ではお客さまならびに従業員の健康と安全確保のため店舗の臨時休業を決定しました」とのことで、今月中旬まで全面休業とのことです。

会見で「スポーツジムやビュッフェスタイルの会食で感染の拡大が見られる事例がありました。(中略)事業者の方々には、感染防止のための十分な措置を求めたいと思います」とまで言われちゃったら、まあそうなりますよね。仕方がないですけど、なんだか身体がなまって気持ちが悪いです。

うちの学校でも年度末の行事関係はすべて中止。卒業式も取りやめになり、内輪で卒業証書を渡すだけということになってしまいました。留学生の中には、たぶんお国のご家族から心配する電話なりメールなりがたくさん入っているんでしょう、かなり神経質になっている人もいて、マスクだけでなく薄いビニール手袋をしている人まで登場しました。う〜ん「正しく怖がる」ってのは、なかなか難しいんですね。

きのうの東京新聞朝刊に、興味深い記事が載っていました。いわく「日本人のヘルスリテラシーは他国より低い傾向にある」。自身の健康や身体の状況について、科学的な根拠に基づき正しく知って自分で判断しよう、あるいは「正しく怖が」ろうとする姿勢の人が少ないということですか。今回のマスク不足だってそのひとつの現れかもしれません。

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以前、妻がくも膜下出血で緊急に手術をしなければならなくなったとき、私は担当医師から説明を受け、数多くの同意書にサインをしたのですが、その医師からは後日「(説明時に)落ち着いておられたので救われました。かなり取り乱すご家族もいらっしゃるので」というようなことを言われました。無理もないとは思います。家族が病に倒れ、いきなり難しい病状や予後についての説明を受け、すぐにサインを求められるという状況においては、普段からある程度のリテラシーというか一般常識みたいなものがないと判断のしようがないのかもしれません。

qianchong.hatenablog.com

上掲の記事では、情報の正しさを見極めるポイントとして「か・ち・も・な・い(価値もない)」という合言葉を推奨しています。

か:書いた人は誰か
ち:違う情報と比べたか
も:元ネタは何か
な:何のために書かれたか
い:いつの情報か

なるほど、これは常に気をつけたいところです。特にネットで検索ないしはSNSの閲覧などをしているとき「脊髄反射的に反応しない」というのはとても重要です。特に拡散機能の強いTwitterは要注意。ヘルスリテラシーもですけど、こうした情報リテラシーも学校などで学ぶ機会を増やしていく必要があるんじゃないかと思います。

お土産は籠の鸚鵡

先般、NHKチコちゃんに叱られる!』の「岡村の嫁探し」について、その古い言語感覚はいかがなものか、というような文章を書きました。同じように感じておられる方は多いんじゃないかなと思い、何らかの動きがあるかしらと変な意味で先週の放送を意味で楽しみにしていたのですが、同コーナーは何も変わらずにそのまま続いていました。

qianchong.hatenablog.com

ブログのリンクをTwitterにも放流したところ、「嫁は確かに古い感覚だけど、そこまでは気にならない」というリプライ、さらに、そうやって「言葉狩り」が進むことについては懸念があるというリプライもありました。確かに「嫁」という言葉は死語でもありませんし、さまざまな文化と結びついた言葉でもありますから、一律に「使っちゃダメ」という方向に行くのは本意ではありません。言葉が差別の文脈で問題になるのは、その言葉を使う人の心性に拠るわけですから。

私個人は、例えば自分の妻のことを「嫁」と呼んだり、「嫁にもらう・嫁にやる」というまるでモノのやり取りみたいな表現を使ったりすることに抵抗があります。でもその一方で、例えば結婚式に際しての「お嫁さん」とか「花嫁・花婿」とか「花嫁衣装」といったような言葉にはそれほどの引っかかりを覚えません。

また「嫁」という漢字は「女」を「家」に縛りつけているとか、「責任転嫁」の「嫁(なすりつける)」だからマイナスイメージだといったような漢字解釈もあまり好きではありません。それを言い出したら「女」はひざまずく姿だとか「家」は屋根の下に家畜もしくは生贄の犬が字源だとか、解釈が果てしなく広がっていきます。あくまでも現代の私たちが、どんな心性でその言葉なり漢字なりを使っているのかに立って判断したいと思います。

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https://www.irasutoya.com/2017/03/blog-post_99.html

ところで、「嫁」といって思い出すのは、懐かしい歌の数々(いわゆる懐メロ)。新沼謙治氏の「嫁に来ないか」なんて、今じゃちょっと歌えないほどこっ恥ずかしい歌詞ですけど、これはこれでなんだか素朴な味わいがあります。


嫁に来ないか 新沼謙治 (1976)

瀬戸の花嫁」という歌もありましたねえ。たぶんこの歌、私が初めて覚えた歌謡曲じゃなかったかと思います。カモメみたいな海鳥の声に似せた音が入っているのも印象的でした。


瀬戸の花嫁/小柳ルミ子

あとは「お嫁サンバ」ですか。歌詞そのものはネガティブなのに、なぜかこの明るさ。このバカバカしいほどの明るさ(失礼)はサンバのリズムのなせる技でしょうか。「マツケンサンバ」もやたらポジティブですよね。


郷ひろみ お嫁サンバ

しかし「嫁」の歌でいちばん印象深いのはこれ、「南の花嫁さん」です。

合歓の並木を/お馬の背にゆらゆらゆらと/花なら赤いカンナの花か
散りそで散らぬ花びら風情/隣の村にお嫁入り
お土産はなあに/籠のオウム/言葉もたったひとつ/いついつまでも


南の花嫁さん(高峰三枝子)

この歌は、懐メロ好きの母親がよく聴いていたのですが、「お土産はなあに/籠のオウム」という掛け合いの言葉めいた歌詞が不思議で、子供心にとても強い印象を残しました。後年知ったのですが、これは1943年ごろに高峰三枝子氏が歌って大ヒットした曲で、当時東南アジアから太平洋地域に進出(というか侵略)していた大日本帝国を背景に生まれた、「南方」をモチーフにした歌のひとつだったそうです。

さらに後年、私は中国留学中に偶然テレビでこの「南の花嫁さん」そっくりのメロディを耳にしました。中国の伝統楽器を用いた楽団が演奏していたのは任光氏の「彩雲追月」という曲でした。


彩雲追月 任光曲 陳如祁 編 指揮/陳如祁

「南の花嫁さん」と若干の違いはありますが、ほとんど同じメロディです。調べてみるとこれは任光氏の「彩雲追月」を元に、古賀政男氏が編曲、藤浦洸氏が詞をつけたもののようですね。こちらのブログに、詳細な解説がありました。

takashukumuhak.hatenablog.com

それにしても、掛け合いの言葉が歌詞になっている「お土産はなあに/籠のオウム」というやり取りはどういうシチュエーションなんでしょう。「お土産」というのはひょっとして「お嫁入り」するときの「嫁入り道具」のことで、鸚鵡(オウム)を贈り贈られる風習のある南の地方があるのかしら、それとも当時の日本人が思い描く「南方」の風物としてエキゾチックな鸚鵡が象徴的に使われているのかしら……などと空想します。

ネットで検索してみると、「白鸚鵡と美少女」という学術論文がありました。この論文の中では「鸚鵡」が中国の文学史で「美女」とのつながりで登場し、そのモチーフが日本でも小説や絵画、音楽などに用いられている例が上げられ、一覧表の中にはこの「南の花嫁さん」も入っています。なるほど「鸚鵡=中国大陸+美しい女性(=お嫁さん?)」といったイメージの連携もあったのかもしれません*1

ところで、ネットで検索している間にこんな動画も見つけました。台湾の歌手・劉依純が日本語の歌詞で歌う「南の花嫁さん」。「幾度花落時」という中国語のタイトルがついています。しかも動画の冒頭には「詞:任光/曲:藤浦洸」とのクレジットが。う〜ん、まあこれは単純な記載ミスなんでしょうね。


劉依純 - 南の花嫁さん/ 幾度花落時

*1:検索中『アラビアンナイト』の中に「夫と鸚鵡」という説話があることを知りました。しかもその源流は中世インドのサンスクリットで書かれた説話集にあるとか。このお話はさらに追いかけてみたいと思います。