インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

マスクをしない理由

新型コロナウイルスによる肺炎の感染拡大が連日マスコミで伝えられる中、往来ではマスクをしている人の姿が目立ちます。目立つどころか、マスクをしていない人のほうが少ないくらい。マスクをせずに混雑した電車やバスに乗って、うっかり咳きこみでもしようものなら、周囲から白眼視されかねない状況です。

そんな中、私はといえばマスクをしていません。学校で働く周囲の同僚、特に教師のみなさんもマスクをしていません。マスクをしていると授業ができないからです。生徒の中にはかなりの割合でマスクをしている人がいますが、「語学訓練なのでマスクを取ってください」と言うわけにもいかず、自由にしてもらっています。

f:id:QianChong:20200209093207p:plain
https://www.irasutoya.com/2016/10/blog-post_719.html

私がマスクをしない理由は二つあります。ひとつは、現時点で健康な人がマスク、それもN95のような高機能(呼吸がしにくいほど)マスクではなく一般のガーゼや不織布製のマスクをするのはほとんど無意味だと知っているからです。毎年流行するインフルエンザの予防と基本的には同じですが、こうした感染症の感染経路は「接触感染」と「飛沫感染」です。ネットをちょっと検索するだけでさまざまな情報が手に入りますが、マスクは基本的に感染している人が飛沫を他の人にかけないため措置なのです。

kaigyou-turezure.hatenablog.jp
uniunichan.hatenablog.com

私がマスクをしない、というか「できない」もう一つの理由は、痒くなるから。軽いアトピー性皮膚炎を持っている私は、顔の肌に何かがぴたっとくっついていると、すぐに痒くなるのです。このためマスクのようなものは一分とつけていられません。二年前、インフルエンザに感染したときは、他の人にうつさないようマスクをしていましたが、あれは辛かった……。

よくヘアサロンで洗髪してもらうときに顔に薄い紙やタオルなんかが置かれますよね。あれもかなり苦手で、いつも拳を握りしめて耐えています。台湾に住んでいた時、通っていたヘアサロンではコピー用紙みたいな腰のしっかりした紙の一端に両面テープがついているようなものを額にピッと張ってくれました。額からまっすぐに顔を覆う庇が出ているような形になって、あれは快適でした。肌についている面積もとても小さいですし。ああいうの、日本でも導入してくれないかしら。

閑話休題

ニュースではマスクの品薄や、通販サイト・フリマサイトにおける不当な高値などの情報が伝えられていますが、いま私たちがすべきことは、不安にかられてマスクの買い占めに走ることではありません。健康な人がマスクを買い占めることによって、本当に必要な人――インフルエンザなどの感染症にかかった人、あるいはこれから増える花粉症などの人――にマスクが届かなくなる可能性だってあるのです。

またマスコミは連日「ダイヤモンド・プリンセス」号の集団感染ばかりセンセーショナルに報道していますが、あの閉鎖空間で濃厚接触が起こったがゆえの感染を除けば、現在日本国内で新型コロナウイルスによる肺炎が爆発的に広がっている状況はありません。「正しく知り、正しく怖がる」ことをひとりひとりが心がけたいものだと思います。

追記

厚生労働省ホームページの一般向けQ&Aでは、このように書かれています。

問10 マスクをした方がよいのはどのような時ですか?
マスクは、咳やくしゃみによる飛沫及びそれらに含まれるウイルス等病原体の飛散を防ぐ効果が高いとされています。咳やくしゃみ等の症状のある人は積極的にマスクをつけましょう。
予防用にマスクを着用することは、混み合った場所、特に屋内や乗り物など換気が不十分な場所では一つの感染予防策と考えられますが、屋外などでは、相当混み合っていない限り、マスクを着用することによる効果はあまり認められていません。

www.mhlw.go.jp

スープジャーでお昼ごはん

毎日のお昼ごはんで、プラスチックごみの多さにいたたまれなくなり、お弁当を持参するようになって二週間ほど。購入したスープジャーがことのほか便利で、ほぼ習慣化ができました。だいさん(id:GOUNN69)のブログ『片道書簡→』で紹介されていた「赤パプリカ味噌汁」に触発されて、ここのところずっとこればかり作って持参しています。野菜は赤パプリカのほか、そのときにある野菜いろいろ。あと土井善晴氏の名言「日本のベーコン」こと油揚げも。

shiba-fu.hatenablog.com

最初のうちはスープジャーに入り切らないくらい作りすぎちゃっていたのですが、今ではぴったりの量を小鍋で作れるようになりました。だいさんがおっしゃる通り、火の通りが早い食材ならお湯を注ぐだけでもよくて、忙しい朝には助かります。ただ私の場合、油揚げはまとめ買いして冷凍しているのを使うので、お湯を注ぐだけだとかなり熱を取られるみたい。お昼にはけっこう冷めちゃっています。それで一度小鍋で煮てからスープジャーに移しています。予めお湯でスープジャーを温めておくこともしているので、味噌汁はお昼に食べてもかなり「あつあつ」です。

f:id:QianChong:20200207121425j:plain:w400

あとはこれにオニギリなんかを作って持っていっています。オニギリもラップでいちいち包んでいたらゴミが減らないので、くり返し使えるタッパーで(まあこれもいずれプラごみになっちゃうんですけど)。そのうち曲げわっぱみたいな木の弁当箱を買おうかなと思っています。

漢字にルビ振りゃいいってもんじゃないです

学校の健康管理センターから「留学生に周知されたし」とのことでメールが届きました。新型コロナウイルス感染症の流行に対する学校の対応方針を伝えるためのものです。必要に応じて配布や掲示をするための説明文が添付されていたのですが、これが非常に興味深いと思いました。以下はその一部です。

f:id:QianChong:20200207103919p:plain

日本語の習熟度がまだそれほど高くない留学生を慮ってか、すべての漢字に「カッコ書きで」ルビが振られています。漢字にカッコ書きのルビをふるのは、Windows版のWordで文章を書いて、全選択ののちツールボックスから「ルビ」を選んで総ルビにしたのち、その文章をコピー&ペースト(ペースト時に「テキストのみ保持」)すると作成できます。試しにやってみたら、同じようなカッコ書きルビつき文が生成されました。

f:id:QianChong:20200207105046p:plain

武漢市」が「ぶ」と「かんし」に別れちゃってるなどのツッコミどころはこのさい脇に置きまして、この文章が興味深いのは、普段から申し上げている日本人(日本語母語話者)の「ナイーブな多言語観」が如実に現れていると思うからです。

日本語の習熟度が高くない方のためにといくらルビを振ってあげても、日本語そのものの読解力がなければ情報は伝わりません。例えば「多数報告されている状況を鑑み」とか「不要不急の渡航はやめてください」などの日本語を「たすうほうこくされているじょうきょうをかんがみ」とか「ふようふきゅうのとこうはやめてください」とひらがなに開いたとしても、それで文章の意図が相手に了解されるでしょうか。

かつて、阪神・淡路大震災などでは被災した在日外国人への情報伝達が上手く機能しませんでした。そこで、その反省から考案されてきた「やさしい日本語」というものがあります。Wikipedia「やさしい日本語」の項には「簡易な表現を用いる、文の構造を簡単にする、漢字にふりがなを振るなどして、日本語に不慣れな外国人にもわかりやすくした日本語である」との説明があります。本来であればそうした「簡易な表現・簡単な文の構造」を目指すべきところ、上記のメール作成者は「漢字にふりがなを振る」だけで済ませちゃったわけですね。

f:id:QianChong:20200207114202p:plain
https://www.irasutoya.com/2017/07/blog-post_380.html

もちろん何もしないよりはマシです。留学生になんとか情報を伝えたいという気持ちを疑うものでもありません。でもこう言っては大変失礼ながら「外国人向けには漢字にルビ振っときゃいいでしょ」的な思考方法には、多言語やマルチリンガル、異文化コミュニケーションなどにナイーブ(うぶ)な日本人ならではの特徴が現れていると思います。日本社会はほぼ単一の言語で社会が回るモノリンガル社会であるがゆえに、私たち日本人は、外語を学ぶとはどういうことか、言語の壁を超えるとはどういうことかについての想像力があまり働いていないのではないかと思うのです。

この国では、ウェブサイトをグーグル翻訳に丸投げして珍妙な英語や中国語やその他の言語が並んでいるなどという事例は枚挙に暇がありません。昨年はかの「堺マッスル」なんてのもありましたし、昨日は厚生労働省のウェブサイトでも、こんな珍事(笑い事ではありませんが)が。官から民まで、ここまで多言語のありように無頓着でいられるというのは、これはもうこの国の宿痾とさえ言えるかもしれません。

mainichi.jp

幼少時から英語を始めとする外語教育に力を入れるのもいいでしょう。でもその前に、いやせめてそれと並行して、言語とは何なのか、言語や文化の壁を超えるとはどういうことなのか、通訳や翻訳とはどんな作業をしているのか、多言語に分かれているこの世界とはいったいどういうものなのか……そうしたことを学ぶ「言語リテラシー」的な教養科目がぜひとも必要だと思います。それは幼少時からの外語教育がその前提としている「グローバル化した世界」と対峙する際の、基本中の基本だと私には思えます。

qianchong.hatenablog.com

こんなに尻尾を振っているのにね

昨日の朝刊紙を読んでいたら、アメリカのトランプ大統領による一般教書演説の記事が大きく載っていました。演説前にペロシ上院議長が差し出した握手の手をトランプ氏が無視しただの、演説後にはペロシ氏が演説原稿を破り捨てただの、どこかの国に負けるとも劣らぬ「お子ちゃま」ぶりに笑いましたが、演説要旨を読んで「日本」の「に」の字もないことに、さもありなんと思いました。

原文はどうなんだろうと思って確かめてみたら、“China”が5回も出てくるのとは対照的で、ホントに“Japan”の“J”の字もありません。まあ、文脈をすっ飛ばして数だけどうこう言っても始まらないんですけど。

www.nytimes.com

トランプ氏の一般教書演説はこれが3回目だそうですが、同じように過去のフル・トランスクリプトを確認した限りでは一度も日本に言及していません。こんだけ尻尾振って追随して、軍事面でも土地やお金を提供し、兵器や装備を爆買いしているというのに、日本もかわいそうですね。ちなみにさらに遡って前任のオバマ氏の一般教書演説でも“Japan”の文字はほとんど引っかかりませんから、ま、もともとアメリカってのは元々そんなものなんでしょうけど。

f:id:QianChong:20200206171211p:plain:w400
https://www.irasutoya.com/2016/02/blog-post_49.html

折しも先日から、東京都心を通過する羽田空港への新飛行ルートの「実機飛行確認」が始まったんですけど、新宿にあるうちの学校の真上をひっきりなしに飛行機が通過して、かなりな騒音に戸惑っています。でもこれだって、もとをただせば米軍の「横田空域」が首都圏にど〜んと横たわってるがゆえの苦肉の策なんですよね。

新聞やテレビのニュースも、そこにこそ踏み込んで世論を喚起すべきなのに、やれ「すっごい威圧感!」だの「飛行機好きにはちょっと興奮」だのといった街の声を拾ってる場合じゃないです。そして政治家も。アメリカをはじめとする連合国側からの押しつけ憲法を改定して自主憲法制定とか言ってるヒマがあったら、まずこの「アメリカの第51番目の州」的な状況をどうにかするのが何よりも大事じゃないかと思います。

この「アメリカの第51番目の州」って表現、実は外国人留学生にものすごくウケるフレーズです。それだけ外から見た日本は「そういう存在」に映るんでしょうね。でも、今回の一般教書演説を読んでふと思いました。現状の日本はひょっとしたら「アメリカの第51番目の州」ですらなく、それ以下じゃないかなって。こういう存在は、なんと呼べばいいんでしょうね。

留学生の同時通訳実習

通訳や翻訳を学んでいる留学生が、講演会での同時通訳実習に臨みました。毎年この時期に開催しています。学外から講師をお招きして、ご専門の内容を「容赦なく」お話しいただき、それを同時通訳するという実習です。この日のために、数ヶ月前からサイトラを始めとする同時通訳訓練を行い、スライド資料や関連資料などの予習を行い、グロッサリーを作り……という作業を続けてきました。

講演のテーマはプロの能楽師による「能楽史通覧」、つまり能楽が成立する以前の芸能から説き起こして、近現代までの歩みをたどるという難しいものでした。なにせ、猿楽や伎楽、雅楽など能楽に先行する諸芸能をはじめ、日本や中国の古典、芸能、宗教、政治などの話題がふんだんに盛り込まれた内容なのです。日本語の母語話者であってもけっこう難しいと思います。しかも講師の先生からは世阿弥風姿花伝』の一部を読んでおいてくださいという指示まで。

さらに講演の直前までスライド資料に変更や増補が入り、この点でもリアルな、いやリアル過ぎるほどの実習になりました。実際の通訳業務でも、当日使用するスライド資料がなかなか出ないとか、本番直前に出ても変更がたくさん入るとか、極端な場合には当日に全部差し替え(しかも通訳者には知らされず!)なんてこともあるからです。もちろん今回は訓練が目的なので、なるべく「前びろ」に資料を渡して各自予習させましたが、なかなか難しい内容でした。

それでも留学生諸君はよく頑張っていました。英語と中国語の2チャンネルで同時通訳を行い、下級生や教職員が聴衆となって訳出をイヤホンやパナガイドで聞きました。人によって出来不出来の差が大きかったですが、約二年前に入学して以来、地道に真面目に訓練を重ねてきた留学生は、ほとんどこのまま現場に出てもなんとかなりそうなくらいのレベルにまで達していました。逆に、二年間手を抜きつづけてここまで来て、惨憺たる結果に終わった留学生も若干名いました。やはり語学は、日々の地道な努力がものをいいますね。

こうやって同時通訳の訓練をしても、実際にフリーランスとして活躍する場はかなり限られています。それに一部のハイエンドの方々を除いて、通訳や翻訳だけで食べていくのはかなり難しいのが現状です。それでも卒業して企業などの就職したら、その語学力を活かして通訳や翻訳をすることは多いでしょうし、またウィスパリングのような形で同時通訳を任されることもあるでしょう。若い留学生のみなさんの、今後の活躍を期待したいと思います。お疲れさまでした。

f:id:QianChong:20200205130211j:plain

黒板消しを手伝ってくれる留学生

うちの学校にはパーテーション(間仕切り)で隔てられた教室がいくつかあります。授業に参加する生徒の人数に合わせて、二つの教室を一緒にしたり、別々に仕切って使ったりするため、天井から床までの大きな可動式の壁が設置されているのです。

このパーテーションを授業前の短い時間で畳んだり広げたりするのはけっこう大変です。まず昔のエンジンを始動させるときに使うような「クランク棒」を差し込んでくるくる回し、床と接しているパーツを引き上げてパーテーション自体を自由にした後、天井に組み込まれているレールに沿って重いパネルを一枚ずつ動かしては教室の端にあるスペースに収納していきます。それが何枚もあるのでふうふう言っていると、たいがい留学生の男子諸君が手伝ってくれます。ありがたいことです。

パーテーションに限らず、留学生のみなさんはこうして教師の作業を手伝ってくれることが多いです。一番多かったのは授業が終わったあと、黒板やホワイトボードの板書を消す作業。こちらが消そうとすると「センセ、私がやります」と駆け寄ってくれる留学生がいるのです。

これもなぜか男子が多く、それも中国や台湾などを始めとするの華人留学生やアジア圏の留学生ががほとんどです。欧米などの留学生が手伝ってくれたことは、少なくとも私の経験ではありません。もっともこれは、単に私が担当する授業では、華人留学生の割合が高いからというだけのことかもしれません。

今しがた私は「一番多かった」と書きました。そうなんです。最近の華人留学生は、あまり「黒板消し」を手伝ってくれません。私が最初に華人留学生のクラスを担当したのはほんの十数年ほど前のことですけど、その当時から比べても、明らかに「センセ、私がやります」は少なくなりました。いえ、別に手伝っていただかなくても構わないのですが(もともと私がやるべき作業ですし)、ただ、たったこの十数年ほどで、華人留学生のメンタリティになにがしかの変化があったのかしら、とちょっと興味を持ちました。

想像するに、かつて「黒板消し」を率先して手伝ってくださる華人留学生が多かったのは、たぶん母国で、それも初中等教育の中でそういう指導なりしつけなりが行われてきたからではないかと思います。だから日本に留学してきても、当然のようにそういう行動に出ていた。それが最近に至って減ってきたということは、彼の地でもそういう教育に変化が現れたからなのかもしれません。現代の“課堂規矩(教室でのきまりごと)”がどうなっているのか、こんど華人留学生のみなさんに聞いてみたいと思います。

f:id:QianChong:20200204162508p:plain
https://www.irasutoya.com/2014/11/blog-post_30.html

あ、そうそう、この件に関して、個人的な印象でひとつだけ気づいたことがあります。それは日本へ留学して間もない留学生には「センセ、私がやります」という人が多いのに、日本で一年、二年と学ぶうちにだんだんそう言わなくなるという点です。別に統計など取っているわけじゃないですから漠然とした印象ですけど、「ああ、こういうところは日本の若い人とずいぶん違うなあ」と新鮮な感動を覚えるような場面がだんだん少なくなっていくのです。

来日間もない留学生が授業でも積極的に、いえ、積極的すぎるくらいに発言していたのが、来日年数が増えるに従ってどんどんおとなしくなっていく、打てど響かぬようになっていくという現象をブログに書いたことがあります。日本語教育業界やその周辺で言うところのいわゆる「日本人化」というやつですが、上述の「センセ、私がやります」が減っていくのも日本人化のひとつなんですかね。だとすると、その日本人、日本人的なありようって一体なんなんだ、という興味深いハナシになっていくわけですが。

qianchong.hatenablog.com

追記

この話を周囲の同僚にしたら、「ベトナムやタイの留学生は今でもけっこう『黒板消し』をやってくれる」という情報を得ました。なるほど。さするに、経済が発展して市場原理が人心にまで染み込んでいくと、「教育ったって結局は投資とリターンでしょ。学費払ってるのになんでそんな作業をやらなきゃなんないの」的なメンタリティになっていくということなのかしら。十年くらい後にまた観察してみたら、何からの確証が得られるかもしれません。

キッシュとオニギリ

先日、トレーニングの帰りに地下鉄外苑前駅近くを歩いておりましたら、フランス風のおしゃれなデリカテッセンに出くわしました。お店で食べるのが基本みたいでしたが、持ち帰りもOKらしいので入ってみました。キッシュやデザートがおいしそう。おおぶりなキッシュが一個千円近くもするのに少々たじろいだものの、その日は夜遅くなって晩ご飯を作るのもめんどくさくなっていたので、細君のと私のと二つ買い求めました。あとはまあサラダでも作ればいいかなと思って。

店員さんはフランスの方とおぼしき外国人のお兄さんで、過剰な接客トークも笑顔もまったくない「本場ふう」(失礼)。でもそれが面白くて「何だかほんとにフランスに来たみたい」と喜んでいました。しかもそのお兄さん、素手でキッシュをつかんで箱に詰めてくれたのが興味深かったです。キッシュは食べるときに温めるものだから、素手でつかんでも大丈夫っしょ、的な。わはは、日本人のお客さんの中には「ええ〜っ!」と非難の声を上げる方がいるかもしれません。

いえ、別にフランス人をはじめとする外国人はこういうところに無頓着で、日本人は日本人で潔癖すぎる……と一般化した話をしたいわけじゃありません。たぶんそのお兄さんの、あるいはこのお店のスタイルというだけの話なんでしょう。日本人にだって私みたいにあんまり気にならない人間もおりますし。ただそのお兄さんの、とてもワイルドかつ自然な「てづかみ」に、なにかこう心休まるものを感じてしまったのです。ああ、これでも別に構わないんじゃないかって。

f:id:QianChong:20200204121201p:plain
https://www.irasutoya.com/2016/08/blog-post_8.html

よく「他人の握ったおにぎりが食べられない」という話題を目にします。おにぎりは基本ラップで包んで握るという方も。私など日常的にお弁当のおにぎりやいなり寿司などを素手で作っていますから、そういう方がかなりの割合でいるのだと知って少々驚きます(あ、自分で握ったのはいいのか)。じゃあ握り寿司なんかはどうするのかと思いますけど、昨今の回転寿司なんかだと、ご飯は機械が成形して、ネタはビニール手袋をした店員さんが乗っけてるんだそうですね。

blogos.com

そう思ってデパ地下のお惣菜売り場などを見渡してみると、店員さんはみなさんけっこうな「重装備」です。以前「いきなりステーキ」では店員さんが口の周りを覆う透明なプラスチックの板状マスクを着用していて驚いたんですが、あれは「つばよけ」ってことですかね。むかしむかしの香港映画で、レストランの店員が運んできたスープの蓋をとって料理の説明をしたら即座に「下げろ」と言われるシーン(『古惑仔』シリーズだったかな?)を思い出しました。

同僚の英国人によれば、イギリスでも個人営業の小さなお店は、パンや焼き菓子などけっこう手づかみで入れているかなあとのこと。肉とかケーキとか、水分が手につきやすいものは手袋とかトングなどを使うけど、キッシュだったらそのまま手にとるんじゃないかと。「いきなりステーキ」の話をしたら「知ってます。初めて見たときはちょっと笑っちゃいました」と言っていました。

そんなきれい好きの東京の、その中心部に「キッシュ手づかみお兄さん」がいて、変な話ですけどなんだか「ほんわか」してしまったのです。これからもご贔屓にしたいと思います。もっともけっこうお高い値段設定なので、そう足繁くは通えないと思いますけど。

文章の書き方を学ぶ

中高年と呼ばれる年齢になり、どんどん衰えていくカラダとアタマに恐れをなして、これは鍛えるに如くはなしと思い立ったのがちょうど二年くらい前でした。以来、カラダのほうは体幹レーニングや筋トレを、そしてアタマのほうはこのブログを書き続けるという二本立てでここまで来ました。

どちらもすでに習慣化しているので、特に苦にもなりません。それでも文章のほうはなかなか思うように書けません。一年前や二年前のブログを読み返してみても、ああ、何だか読みにくい文章だなとか、回りくどい文章だなと思うことが多いです。それでも毎日文章を書くこと自体が「トライ&エラー」の繰り返しみたいなもので、続けていけば洗練とまではいかなくても、自分なりのやり方が出来上がってくるだろうと信じることにしています。

いまのところ、文章を書く上でいちばん励みになっているのは、コラムニストの小田嶋隆氏が、ネットラジオでの対談でおっしゃっていた言葉です。

(原稿を書くときにいつも気づくのは)自分は、物を書いている時のほうが頭がいいんだなっていうこと。頭がいいんだなって言うとちょっとアレですけども、結局、文章を書くことによって気づくことがすごくあるっていうことですよね。(中略)まずあらかじめ頭の中にあることを伝えるために外に出すっていうふうに考えがちだけども、実は書いているうちに、書いている段階で「ああそうだ」と気がつくことのほうがずっと多いんだと。

そうなんですよね。あれこれ考えているだけではなかなか文章にならないことが多くて、そんなときはとりあえず書き出しちゃうんです。そうすると、自分の中で「これも書け、あれも書け」という声が響き始めて、文章が出てくるような気がします。しかも、最初に考えていたのとはかなり違うところに行き着いたりする。「こんなん出ましたけど〜」という占い師みたい(古いですね)な感じです。

そうやって書いていると、百本か二百本に一本くらい、自分で言うのも大変おこがましいですけど「あれっ」と驚くようなイイことを書いているときがあります。これ、ホントに自分が書いたのかしら、という感じ。不思議なんですけど、トライ&エラーを繰り返しているうちに、それまでの自分では考えられなかったような達成が降りてくるというのは、スポーツや芸術の世界ではよく聞く話です。小田嶋隆氏もこうおっしゃっています。

書いているうちに考えが深まるんですよね。自分が書いたことを手がかりに、もう一歩先に考えを進めますから。そうすると、まあ二時間くらいかけて原稿用紙五枚くらいのものを書いたとすると、二枚目まで書いた時に、当初自分が予想していた結論よりももう一歩考えが深まってたりすることが、いつもじゃないけですけど、たまにあるんですよ。(中略)それは、物を書かなかったら決して気がつかなかったポイントで、それが一番、私は価値があるんじゃなかろうかなあと思っていて。

ブログを書き始める以前は、多少はテクニカルなことも学ぶべきかしらと思って、文章読本的な書物もあれこれ読みました。もはや古典ともいえる谷崎潤一郎氏の『文章読本』、丸谷才一氏の『文章読本』、三島由紀夫氏の『文章読本』はもうずいぶん前に読みましたが、あまり記憶に残っていません。むしろこれも古典と言っていい本多勝一氏の『日本語の作文技術』や岡崎洋三氏の『日本語とテンの打ち方』などのほうが自分の糧になったような気がします。

f:id:QianChong:20200203103224p:plain:w500
https://www.irasutoya.com/2016/12/blog-post_233.html

最近はSNSやブログなどで文章を発信する方が増えたので(自分もそのひとり)、そうした方をターゲットにした文章読本的な出版物がたくさん出ています。私もそういった書籍の中から、直近では例えば三宅香帆氏の『文芸オタクの私が教える バズる文章教室』とか川崎昌平氏の『書くための勇気: 「見方」が変わる文章術』などを読みましたが、いずれも私の心にはあまり響きませんでした(ごめんなさい)。

思うに、文章はテクニカルな面だけを追いかけてもたぶん実入りは少なくて、むしろいい小説やマンガを読むとか、いい映画を見るとか、いい音楽を聞くとか、そういうのが文章になにがしかの影響を与えるのかもしれません。あと、人と意見交換したり議論したりすると、自分でも思いもよらなかった視点が手に入るような実感があります。

ところで、テクニカルな面だけを追いかけても仕方がないと書きつつ、すぐに前言を翻すようですが、わかりやすい文章を書くというきわめてテクニカルな点について、最近とても納得感のあった文章に出会いました。それはルポライター安田峰俊氏が「note」に書かれていた『片手間で教える文章講座「ユニバーサル日本語」の書き方』というシリーズ記事です。
note.com
ネット上に書く文章の一番基本になるところを丁寧に解説していらして、とても勉強になりました。特に「一文を短くする、逆接以外の『が』を使わない」というのは、ついつい文章が冗長になってしまう私にはとても示唆に富むポイントでした。そしてまた、ほかのポイントのうちいくつかは自分でも「こうじゃないかな」と手探りでやっていたテクニックだったので、とても心強く思えました。

中国語を話すと大声になる?

お昼ごはんを作りながらテレビをつけていたら「中国人観光客はなぜ声が大きいのか」という話題をやっていました。そもそも「〇〇人はこう!」と一緒くたに語ること自体にあまり意味はないように思います。でも、正直に申し上げれば、私自身の経験からしても「確かに声が大きい人が多いなあ」とは感じます。

テレビ番組では中国人のコメンテーターお二人が「中国は人が多いし、空間はデカいし、大きな声を出さないと聞こえないんですよ」とおっしゃっていました。なんだか分かったような分からないようなコメントですけど、たしかにそういう側面はあるのかもしれません。というか、声高に主張しなければどんどん自分が不利になっていくという、いわば生き馬の目を抜くような社会のあり方(なかんずく、中華人民共和国の建国から数十年、文革に代表されるような人心を荒廃させた社会のあり方)がそうさせているのかもしれません。あるいは「人は人、自分は自分」というリアリスティックな考え方をする人が多く、日本のような同調圧力が比較的薄いからなのかも。

世代の差があるという人もいます。比較的年齢の高い方は大声で話す人が多いけれども、若い世代になるほど、それも異文化に触れる機会が多い人ほど、往来で過度な大声を出すのはエチケットに反すると考える人がおおいんじゃないかと。でも、こういった説明はどれもいまひとつピンときません。私が知っている範囲でも年令を問わず声の小さい中国人はいますし、結局は個々人の差じゃないかとも思えます。

f:id:QianChong:20200202130633p:plain
https://www.irasutoya.com/2020/01/blog-post_651.html

ただ、自分自身でひとつだけ実感をともなって言えるのは、中国語を話すと自然に声が大きくなるということです。大きくなるというより、ダイナミックになる。もとから「地声」が大きい私が言ってもほとんど説得力はないのですが、私は日本語を話している時と中国語を話している時では、明らかに自分の性格が違っているのを感じます。どうも中国語のほうが声が大きくなるみたいなのです。

先日も「新型コロナウイルス」に関して箱根の駄菓子屋さんが店に掲げたという差別的な張り紙について、中国人の同僚と意見交換していました。話題が話題なだけにけっこう会話が盛り上がる要素はあったにせよ、かなりな大声で話してしまい、回りの同僚がちょっと引いているのがなんとなく分かりました。中国語を話すとつい大声になっちゃうのは、なぜなんでしょうか?

中国語には「声調」という音の高低や上がり下がり、つまりメロディのようなものがあって、それで意味の区別をしています。日本語にも音の高低やイントネーションはありますが、それほどクリティカルな要素ではないですよね。仮にまったく音の高低をなくして平板に話しても、不自然ではあるものの意味は伝わります。でも中国語はもう少し旋律を伴わないと、言い換えれば日本語よりは多少ダイナミックに話さないといけない。だから自然と声が大きくなるのかもしれません。

まあ私の場合は中国語が母語ではないので、話すときに日本語よりはもう少しエネルギーが必要です。つまりそれだけ必死になって話しているということで、だからついつい声を張って大きくなるのかもしれませんが。

ただ、東京の都心に毎日通っていて、日々中国語をはじめとしてさまざまな外語が飛び交っている電車に乗ることが多い自分の印象から言えば、声が大きいのは何も中国語の方々だけではありません。他の言語の方々もけっこうな音量で話してらっしゃる。そうすると、中国人の声が大きいと感じるのは、単にそれが自分の母語ではないから、馴染みの音ではないからなのかもしれません。ただ観光客にせよ住んでらっしゃる方にせよ、人数から行けば中国語を話す方が圧倒的に多いので、「声が大きい外国人」のサンプルとして中国人が上がってくる確率が高いのかも。

私は公共の場所はできるだけ静かな方が好きな人間ですが、旅先でつい気持ちが高揚して声が大きくなるってこともあるんじゃないかと思っています。インバウンドが増えて経済が活性化すると外国人観光客を受け入れるなら、そういう「異質」な文化との「違和感」にも多少は慣れていくしかないと思います。多様性を尊重するという言葉は素敵ですけど、それは一面そういう違和感をも受け入れていくことなんですよね。

「日本語を話す外国人」という存在がよくわからない?

インターンシップという制度があります。学生さんが一定期間企業などで「就業体験」をすることです。実はうちの学校にもこの制度がありまして、主に日本での就職を希望する留学生が、短い期間ながら様々な業界の企業におじゃまして、日本企業での仕事の進め方や企業風土などを学んでいます。

さまざまな企業で就業体験をするので、インターンシップ期間が終了した後、参加者全員が集まってお互いの体験や気づきをシェアする機会を持ちます。私も留学生のみなさんのお話を聞きに行ったのですが、グループディスカッションの最中に、興味深い意見を聞くことができました。複数の留学生いわく……

もう少し、私たちの語学力を信頼してくれたら、うれしかった。

うちの学校のインターンシップは、基本的に一企業一人の割り当てです。それぞれの留学生はインターンとはいえ容赦ない日本語が飛び交う企業の現場で、日本語を駆使して孤軍奮闘しなければなりません。というわけで参加している留学生は、そのほとんどが日本語能力のかなり高い人たちです。日本語能力検定試験のN1レベルという人も多く、さらに上を目指そうと毎日通訳や翻訳の訓練をしています。

けれども留学生たちによると、現場の日本人は「とても優しかった。むしろ優しすぎた」というんですね。例えば仕事の指示を出して資料を渡す際に「この日本語、読めるかな」と言われたり、かなり簡単な日本語で噛んで含めるように説明されたり、さらには一緒にランチに行ってメニューに書いてあるカタカナ(ハンバーグとか、ナポリタンとか、アイスコーヒーとかですね)について「カタカナ、読めるかな」と気遣われたりしたと。

もちろんそれは留学生を慮ってのことであって、とてもありがたいことなんですけど、N1レベルの留学生にしてみれば、なんとなく「能力を低く見積もられている」「お子ちゃま扱いされている」ような感じがするのでしょう。あるいは、ごくごく簡単な仕事しか体験させてもらえず、自分の日本語力からすると力を持て余すというか、拍子抜けしたというか。

私はここに、日本人(日本語母語話者)の特徴が現れているような気がしました。日本語を学んで、使うことのできる外国人というのがどういう存在なのか、あまりよく理解できていない方がままいらっしゃるのです。

日本は現在、ほぼ単一の言語で社会を回して行くことができるという、世界でもまれな「モノリンガル」の国です。もちろん母語である日本語だけで社会が回り、幼児教育から高等教育まで行うことができるというのは、ある意味とても幸せなことです。他言語勢力による侵略や植民地統治の結果、土着の言語以外に英語やフランス語などを使わざるを得なくなった(特に知識階級で)国々のことを考えてみればよく分かります。

でもその僥倖ゆえか、日本人の多くは外語や多言語環境に対する想像力が足りていないのではないかと思います。そしてまた、そうであるがゆえに外語に対するコンプレックスも人一倍高いのだと。こう言ってはたいへん失礼ですが、多くの日本人は外語や多言語環境、つまりは「マルチリンガル」というものに対して、とてもナイーブ(うぶ)なんですね。違う言語の人たちにどういうスタンスで向き合えばいいのかがよくわからない。

いっぽうで留学生のみなさんは、英語や中国語に加えて日本語までかなりの水準に達しています。さらに英語や中国語以外の言語が母語の人や、中国語の他に各地方の言葉(広東語や上海語など)を母語としている人もいます。自宅では家族と土着の言語、学校ではその国の公用語、仕事先では英語などと、とにかく日本人にはなかなか想像しにくいほどのめくるめくようなマルチリンガル環境に生きている人たちなのです。

f:id:QianChong:20200131222050p:plain
https://www.irasutoya.com/2018/05/blog-post_45.html

留学生の教育を担当する教師の間ではとてもポピュラーな戒めのひとつに、こういうものがあります。「日本語の拙さと、その人の知性はリンクしない」。自分が英語や中国語など、外語を学ぶときのことを想像してみれば容易に理解できることですが、言語が発展途上のうちは、発話が拙かったり、たどたどしかったり、文法が間違っていたりします。当たり前のことです。でも、それはその人の知性が劣っているからでは(たぶん)ないのです。

でもその当たり前がわからない、というのが言い過ぎなら、肌感覚でピンとこないという日本人がけっこう多い。いえ、これは何も日本人だけではないかもしれません。言語として圧倒的なプレゼンスを持っている英語圏の人々にも、拙い英語の話者に対してハナから「この人はバカなのではないか」という偏見を持つ人がいるそうです。

日本でも、外国人労働者が多く働くコンビニで、店員の話す日本語のイントネーションがちょっと不自然だというだけで「日本人と代われ!」などと暴言を吐く人もいます。「そう言われるときが一番心が折れます。あとちょっと日本語が不自然だと『ドゥーユーアンダスタン?』と英語で対応されるのも」と私に語ってくれた中国人留学生もいました。

私はその話を以前Twitterでつぶやいたことがあったのですが、たくさんついたリプライのうち少なからぬ人が「完璧に日本語を話せないなら仕事をするな」という主張であったことに驚きました。つまり、日本語の発音や統語法に関する要求がことのほか高いのです。自分が海外のコンビニで、その土地の言語で仕事をすることを考えてみたら、その大変さとスゴさが少しはわかるのではないかと思うのですが……。これ、外国人の看護師や介護福祉士の受け入れに際して「日本語への要求が高すぎる」という問題とも通底する話だと思います。

qianchong.hatenablog.com

ただ、会社の方々を責めるわけにもいきません。普段外国人と接点があまりない方にとっては、二つ以上の言語を切り替えて話すのがどういうことなのか、外国人が日本語を学ぶというのはどういうことなのか、そういったことそのものに想像が働かないのも無理はありません。日本語能力検定試験の「N1」や「N2」にしたって、一般の人はそれがどんなレベルなのかなんて、まずわからないですよね。

いま日本は、「グローバル化」のバスに乗り遅れるなとばかり、朝野をあげて小学校から英語教育だとの声喧しいです。もちろん外語学習はとても大切ですし、大いにやればよいと思います。でもその前に、あるいはそれと平行して、「言語リテラシー教育」とでもいうものが必要なのではないでしょうか。そもそも言語とは何か、母語や外語とは何か、言葉の壁を超えるとはどういうことか、通訳や翻訳とはいったいどんな作業なのか……世界がさまざまな言語に分かれているという現状の難しさも面白さも奥深さも、そして一面の怖さもきちんと理解しておく必要があるのではないかと。

ただ単に「英語や中国語がペラペラに」を目指すだけでなく、言語が異なる人々とのつきあい方や交流の仕方、すなわち「異文化(異言語)コミュニケーション」とは何か、という包括的な教育の必要を感じるのです。それは言語の習得のみにとどまらず、多様性を認識し、認め合い、寛容と相互理解の精神を養うことなどにもつながると思います。

qianchong.hatenablog.com

一律に排除することへの違和感

新型肺炎のニュースが毎日大々的に流される中、私としては職場の同僚である中国人や、日本に留学中の中国人に、差別的な言葉が投げつけられないだろうかというのが気がかりです。SARSの時もそうでしたが、「正しく知り、正しく怖がる」ことができずに、中国、あるいは中国人というだけですべてが「汚染」されているかのような極端なイメージを持つ人が少なくないからです。

私の周囲で聞いてみた範囲では、みなさん「特に、いまのところは何も」だそうです。それでも「仮に電車内などでマスクをしておらず、中国語でおしゃべりしたら……というシチュエーションを想像すると、たしかにちょっと周囲の目が気になるかな」とは言っていました。こうした「○○人だと分かるやいなや、一律に排除」されるかもという理不尽さに対する懸念や不安は、もし自分がその立場にあったらと想像してみれば、少しは分かるのではないでしょうか。

そんな中、Twitterでこんなツイートに接しました。

f:id:QianChong:20200130130447p:plain:w500
https://twitter.com/Wl9uZ/status/1222365398374371329

「#拡散希望」というハッシュタグとともに書かれたこのツイートは、その希望通り、すでに千の単位でリツイートされ、中には感謝の言葉とともにこれを店の前に貼りますというリプライまでついていました。

この中国語は、一見とても丁寧です。でも私には慇懃無礼を絵に描いた(文字に書いた?)ような文章に読めます。こうやって“中国游客(中国人旅行者)”というだけで一律に入店を拒否するのは、予断と偏見を助長するだけではないでしょうか。それに在日中国人や留学生と旅行者をどうやって区別するのでしょう。“尊敬的(尊敬する)”とか“万般无奈之下(万やむを得ず)”などと丁寧な言葉を使いつつも、結局は一律に中国人を排除していることになります。

この文言が印刷されて、実際に店頭に掲げられていることを想像してみましょう。あるいは状況を逆転させてこれが中国の店頭で日本人に向けて掲げられたものであったらと。「ウイルスの拡散を防ぐためにお客様にはマスクの着用と入店時のアルコール消毒をお願いいたします」などならまだしも、こうして「〇〇人」というだけで一律に自分が排除の対象になってしまったら、私ならきっと憤慨して「こんな店、二度と来るもんか」と思うでしょう。

そこにこの文言は追い打ちをかけます。“等疫情结束后,欢迎您的再次光临(感染の状況が収束したのちのご来店をお待ちしております)”。一律に排除しておいて、でも顔では愛想笑いをしている。しかも最後に誰も異論を挟むことができない“武汉加油!中国加油!(がんばれ)”までつけ加えられています。この落差こそ慇懃無礼だと感じるゆえんです。寄り添っているように見えて、その実冷たく突き放しているだけじゃないかと。

この文言は、上掲の「店舗用」に加えて「病院用」も作られ拡散されているよし。こんな紙が入口に掲げられている病院があったとしたら……もはやモラルも理性も放棄した態度だと言わざるを得ません。

f:id:QianChong:20200130135143p:plain
https://www.irasutoya.com/2015/08/blog-post_320.html

繰り返しになりますが、いまの私たちに必要なのは「正しく知り、正しく怖がる」ことです。現時点では、日本国内における感染状況はパンデミックとは程遠いですし、患者の容態は比較的軽くて落ち着いており、対症療法で軽快するケースがほとんどで、なおかつワクチンや特効薬の研究が急ピッチで進められています。

中国人を「一律に排除」しているヒマがあったら、マスクをする、手洗いを励行する、「咳エチケット」を守るなど、感染の拡大を予防するために日常生活の中でできることを淡々と行うべきです。それは毎年流行するインフルエンザの時と大差ありません。幸いネット上には「正しく知り、正しく怖がる」ための情報が次々に公開されています。

BuzzFeed新型コロナウイルス どれぐらい警戒したらいいの? 感染症のスペシャリストに聞きました
厚生労働省中華人民共和国湖北省武漢市における新型コロナウイルス関連肺炎の発生について
business.nikkei.com

中国における感染拡大の状況は予断を許しませんが、そんな状況の中で私たちがすべきなのもやはり「一律に排除」ではなく、少しでも援助の手を差し伸べることでしょう。それは東日本大震災福島第一原子力発電所事故を経験し、その後の各国からの支援を受け、一方でそれとは真逆の風評被害に苦しんでもきた私たちには容易に理解できることだと思います。

こうした「一律に排除」の考え方は、ヘイトスピーチに特有な知性の退廃を反映していると思います。反中や嫌中、あるいは嫌韓といった言説に特徴的なのは、世の中をあまりにも単純化して見ていることです。例えば「中国人の入国を止めろ」だの「韓国と断交せよ」だのの勇ましい言葉がネットにはあふれていますが、本当にそんなことをすれば経済は大混乱に陥り、それは回り回って自分にも不利益として跳ね返ってくるのです。

中国の政治の現状を信用できないという気持ちは分かります。私だって現状の中華人民共和国が様々な問題を(それも相当深刻で重大な)抱えていることは否定しません。でも、だからといってすべての中国人をその政体と一緒くたにまとめて考えるのは明らかに間違っています。要するに、問題をひとつひとつ辛抱強く腑分けして考え抜くことをサボっているのです。めんどくさいからみんな一緒に嫌っちゃえという考え方は粗雑すぎますし、やはり知性の退廃というしかありません。

「募ってはいるが募集してはいない」という発想

昨日Twitterで、こんなツイートを目にしました。毎日新聞写真部の公式アカウント(@mainichiphoto)によるものです。


▼ツイートにつけられていた写真
f:id:QianChong:20200130074531p:plain:w400
スクリーンショット
f:id:QianChong:20200129170954p:plain:w500
私は安倍晋三氏の政治手法に大いに疑問を持っており、一刻も早く退陣すべきだと考えている人間です。先日の「募ってはいるが募集してはいない」という珍答弁にも怒り心頭に発しました(もう何度目かしら)。でもこの毎日新聞写真部のツイートは、正直に申し上げて「卑怯」だと思います。

リンク先の毎日新聞のウェブサイトに飛んでみると、そこにはこう書かれてありました。

参院予算委員会で「桜を見る会」を巡る問題で自身の地元事務所が「功績」などと無関係に参加者を募集した疑いに関して「幅広く募ったが、募集はしていない」との前日の自身の答弁について、野党議員が追及のために準備した「募る」と書かれた資料を手にする安倍晋三首相=国会内で2020年1月29日午前11時32分、川田雅浩撮影
http://mainichi.jp/graphs/20200129/hpj/00m/010/001000g/1

スクリーンショット
f:id:QianChong:20200129171030p:plain:w500
つまりこの「募る」と大書された資料は野党議員が準備して安倍氏に渡したものなのですね。野党としては「募ってはいるが募集してはいない」という日本語のおかしさを強調するために「辞書の定義をよく読んでみなさい」と皮肉も込めて作成したのでしょう。

それはいいのです。でも元のTwitterのツイートにはこう書かれていました。

自身の地元事務所が「功績」などと無関係に参加者を募集した疑いに関した前日の答弁について準備したものです。

このツイートだけを読んだ方は、この資料が安倍氏の地元事務所が準備したと読むかもしれません。あるいは「自身の地元事務所が『功績』などと無関係に参加者を募集した疑い」を長大な名詞句として捉えたとしても、てっきり官僚が安倍氏のために準備した資料と思うでしょう。私もそう思いました。

これは明らかにミスリードを誘うツイートです。実際、ツイートだけに反応して「冗談だろ」「コラ(ージュ)かと思った」などのリプライがたくさんタイムラインに流れていました。もちろんミスリードを誘う書き方を批判したリプライもありましたが。

いくら安倍氏の手法が愚劣で悪辣だとしても、こうしたフェイクニュースまがいのツイートを報道機関の公式アカウントが流すのは間違っていると私は思います。そうやって信用を失えば、徐々にその会社の報道を信じる人は減っていくでしょう。それは回り回って健全な批判精神や言論の自由をも蝕んでいくと思います(もうすでにずいぶん蝕まれているような気もしますが)。

追記

卑近な話題で恐縮なのですが、うちの学校で、課題のレポートをネット情報のコピペで作成してきた留学生がいて、担当の先生が憤慨していました。この留学生は、以前にも同じようなコピペを行って学校側から注意を受けており、私の授業でもカンニングをした「前歴」があります。

この留学生は何度注意してもこういう行為がやめられないのですが、どうもご本人はそんなに悪いことをしているとは思っていない様子です。「コピペはしているが剽窃はしていない」「見てはいるがカンニングはしていない」という感じ。上述した毎日新聞写真部のツイートも「『前日の答弁について準備した資料を手にする安倍晋三首相』とは書いているが、それを誰が準備したとか、ましてや官僚が準備したとかは書いていない」と言うのかもしれませんね。

さらに追記

今朝になって、毎日新聞写真部が訂正を出していました。

語学の「見取り図」

中国語を学び始めて何年ぐらい経った頃でしょうか、あるとき「中国語とはこんな言語だ」という大まかな姿が見えてきたような感覚になったことがあります。最初は山の麓の樹海にいて周りの視界がまったくきかなかったところから、中腹まで登ってきて周囲の状況がある程度見渡せるようになり、頂上の姿もかすかに拝めるようになった感じ。あるいは中国語という巨大なテーマパークを空から俯瞰した感じです。

ごくごく簡単に描いてみると、こんな感じです。


①発音がきわめて大切。
②語順、特に「主語→動詞」を先に出す感覚になじむ。
③動詞にまつわる補語とアスペクト(態)を理解する。
④副詞がいい味出している。

中国語は発音にかなり重きを置く言語で、私がいま学んでいるフィンランド語がほぼローマ字読みでもなんとかなるのとはまったく違います。また語順で話す言語であること、動詞と副詞がとても重要であること、特に動詞が補語やアスペクトと結びついて多種多様かつヴィヴィッドな表現を可能にしていることなど……が、ある程度中国語を学んで見えてきた風景です。

もちろん他にもたくさん学ぶべき項目はあります。また、もとより語学に「これだけ学べばOK」というラインなどなく、学べば学ぶほどキリがなくなる(中国語でも“越學越沒境”といいます)ものです。でもこうやって語学全体を俯瞰して、この言語の「キモ」はここ! という「見取り図」的なものを手に入れると、それまで手探りで進んでいて、ともすれば学習を放棄しかねなかった危険性が薄れていくような気がします。

この中国語の「見取り図」的なものは、いまもお世話になっている『Why? にこたえる はじめての中国語の文法書』第19課にある「中国語ってどんなことば?」にわかりやすく書かれています。


Why?にこたえるはじめての中国語の文法書

フィンランド語の見取り図

フィンランド語のほうは、細々と学習を続けて一年半あまり。先日ようやく最初の教科書の最後の章までたどり着きました。先生によると、これで基礎的な文法はひとまず出揃ったことになるそうです。

「悪魔の言葉」とも称されるほど語形変化が複雑なフィンランド語。それでも「基礎的な文法がひとまず出揃っ」てみると、何やらこの言語の見取り図のようなものが見えてきました。

1.語順で話す言語ではなく、語形の変化が激しい。

英語や中国語とは異なり、フィンランド語は語順に重きを置きません。その点では日本語に似ています。また名詞・代名詞・形容詞などが激しく格変化するので、決まったフレーズをとにかく暗記するという「戦略」が取りにくい言語だと思われます。一方で副詞は格変化しません。

2.24個の格変化がある。

格変化は単数12個、複数12個の合計24個あります。書き言葉になるともっとあるそうですが、いまのところこれだけ。格変化をさせるためには「単語の語幹の求め方」と「kptの変化(子音階梯交替)パターン」を覚える必要があります。その上で、それぞれの格にするときのポイントと、複数の格を作るときの「母音交替のルール」も覚える必要があります。

3.動詞は人称や時制に合わせて変化する。

動詞は一、二、三人称のそれぞれ単数と複数、つまり合計6つに変化し、時制によっても変化します。さらに肯定と否定があり、特殊な形として「第三不定詞」「第四不定詞(動名詞)」「命令形」があります。時制は「現在形・過去形・現在完了形・過去完了形」の四つ。ここでは動詞のタイプ別に活用させるときのポイントと、過去形を作るときの「母音交替のルール(複数を作るときと若干の違いがある)」を覚える必要があります。

4.不規則な変化がある。

代名詞や疑問詞には上記のパターンや規則によらない不規則な変化をするもの、言い換えれば暗記するしかないものがあります。また数詞も特殊なパターンで変化するものがあり、これも覚えてしまうしかありません。

以上はこれまでに学んだものだけなので、今後また新しい項目が増えると思います。でもこうして整理してみるととりあえず今やるべきことが見えてきました。つまり……


①語幹の求め方(ie子)を覚える。
kptの変化パターンを覚える(子音階梯交替)。
③基本となる24個の格変化のさせかたを覚える(含・母音交替)。
④動詞の活用を覚える(含・母音交替)。

……というあたりに集約されそうです(けっこう複雑ですが)。プラスとにかく「⑤単語を覚える(語彙を増やす)」でしょうか。先生からも「とにかく単語を覚えてください。単語(の原形・辞書形)を知らなければ、変化や活用のさせようもありません」と発破をかけられました。

こうした「見取り図」的なものは、初学者の段階で示されてもあまりよく理解できないと思います。最初は教師を信じて素直に一歩一歩山を登って、多少は見晴らしのきく中腹まで進むしかないんですね。

折り目正しい母語を話したい

入学試験のシーズンを迎え、私が奉職している専門学校でもすでに何度かの試験が行われました(一次募集、二次募集……と何度か試験があるのです)。筆記試験の他に面接試験があって、私もよく動員されます。面接試験では、日中通訳のクラスを志望する受験生に、日本語での質問の他に中国語でもいくつか問いかけることにしています。これは中国語母語話者である受験生の中国語のレベル、つまり「母語のレベル」を推し量りたいからです。

母語にも外語同様に巧拙の「レベル」があるんですね。自分の母語なら、誰だって何でも簡単に話せるだろうと思われますでしょうか。たしかに外語よりは自分の気持ちにぴったり沿った内容を話せそうですけど、そこで使われている語彙や文の組み立て、話し方のスタイルなどにはその方の「母語のレベル」が如実にあらわれます。複雑で抽象的な内容を立て板に水で話せる方もいれば、母語であってもたどたどしく要領を得ない方がいる。

日本語で卑近な例を挙げれば、おいしいものを食べても、美しい風景に接しても、映画や音楽に感動しても、あるいは学校に遅刻しそうになっても、雨が降ってきそうになっても……すべて「ヤバい」で済ませる方がいるとしたら、相手にどういう印象を与えるでしょうか。そういった母語の豊かさを面接試験で確かめようとしているのです。

ちょっと語弊があるかも知れませんが、中国語は日本語よりも「階級差」が比較的はっきりしている言語です。そしてまた、これもあんまり使いたくない言葉ですが、その方の“文化水平(教育や教養のレベル)”が現れやすい(まあどんな言語でも多かれ少なかれそうだと思いますけど)。だから面接の時に中国語で少しまとまった内容を話してもらうと、その方の母語のレベル、そして教養のレベルがある程度推し量れてしまうというわけです。

う〜ん、中国語の母語話者でもない私がこんなことを書いていいのだろうかというくらいの「おこがましさ」です。でもお仕事で中国語を聴いたり話したりされている方なら、おおむね同意してくださるのではないかと思います。日本語母語話者であっても、中国語母語話者の教養のレベルがある程度分かっちゃう。ということは、その逆もまたしかりですよね。中国語にしろ日本語にしろ、ふだんから折り目正しい(?)発言に触れて、それに学ばなければと思うのです。

さいわい現代は、ネット上に動画やアプリなどでそうした教養の香り高い中国語に簡単に触れることができます(日本語は探すのがなかなか難しいのですが)。もちろん教科書に載っている中国語を地道に学ぶだけでも大丈夫。中国語を学ぶ生徒さんからは、市井の中国語母語話者は教科書のように話していない、もっと実用的な中国語を学んで身につけたい、という「不満」を寄せられることが時々あります。日本語を学んでいる留学生からも「バイト先の日本人や日本人の友達は、教科書のような日本語を話していない」と言われることもあります。

でも私は、折り目正しい中国語を学ぶに如くはないと思います。崩すのはあとからいくらでもできるんですから。そしてそれは、母語でも同じ。少なくとも人前で話すときのそれは折り目正しくあるべきだと思います。自分としては、なかなか内実が伴わないのが歯がゆいところですが。

f:id:QianChong:20200128114630p:plain
https://www.irasutoya.com/2018/05/blog-post_582.html

結婚も幸せの形も人それぞれ

先日の国会、衆議院での首相の施政方針演説に対する代表質問で、選択的夫婦別姓の導入を訴えた野党の代表に対して、「だったら結婚しなくていい!」とヤジを飛ばした議員がおりました。あまりの愚劣さに驚きますが、この議員が「してやったり」とばかりに勇んでヤジを飛ばせるのは、その意識が周囲の仲間や所属する政党の価値観とリンクしているからこそなのでしょう。

選択的夫婦別姓なのですから、これまでのように同姓にしたい人はすればいい。そこに新たな選択肢を増やすことでより多くの人が幸せになるというお話なのに、あの人たちはいったい何に反対しているんでしょうね。というか、反対している「あの人たち」は自民党(の主流派)だけです。早くあの人たちを政権の座から引きずり降ろさなければなりません。

この課題について民意はもう明らかに「賛成」です。私が最初に結婚したのは三十年ほど前ですが、当時「夫婦別姓」を選んだ私としては、ここ三十年ほどでよくここまで民意が変化してきたなあと感慨深いものがあります。でも私はこの課題についてほとんど何も主体的なアクションをしてきませんでしたから、エラそうなことは言えません。地道に主張し続け、活動し続けてこられた方々に心から敬意を表します。

三十年前に夫婦別姓、つまり事実婚を選んだときは、様々な局面で制度上の不利益を被りました。でもまあそれは最初から覚悟していたことですから特につらくもなかったのですが、一番つらかったのは周囲の人々から投げかけられた言葉の数々でした。「事実婚? それは本当の結婚じゃないよ(本当の夫婦、本当の家族などバリエーションは様々)」といったたぐいの。みなさんどうして人様の結婚に、そして人様の幸せの形に、勝手な定義や解釈を加えたがるんでしょうね。

けさの東京新聞に、能町みね子氏がご自身の著書について書かれたコラムが掲載されていました。「結婚の定義なんて、それぞれが勝手に決めればいいと思うのです」。ホントにそのとおりだと思います。そしてまたこの部分に関しては心から同感です。

ドラマも映画も音楽も、(主に男女の)愛を、ラブを、まあしつこいほどに賛美しつづけているけれど、私はあれがそもそも間違っていると思っています。

f:id:QianChong:20200127060520j:plain

そうそう、現代ではかなり多様化してきましたけど、私は若い頃、どうしてポップスも映画もみんな愛だの恋だのばかりがテーマになるのか不思議でした。ハリウッド映画なんか絶対にキスシーンを放り込んできますし。人は(主に男女の)ペアになって結婚するのがデフォルトという強い価値観は、冒頭に書いたヤジ議員がかつて雑誌に開陳した「生産性云々」の暴言とどこかでつながっているようにも思えます。だってあの人たちの理屈は、生き物はペアになって生殖して子孫を残すことだけが絶対善なんですから。

でもまあ私は二度目の結婚では何だか色々とめんどくさくなって籍を入れちゃった日和見者です。やっぱりエラそうなことは言えません。能町氏のような、こうした自由で気持ちの良い関係を、しかも胸を張ってごくごく普通に淡々とつづけておられる姿をまぶしく仰ぎ見ながらコラムを読みました。