インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

文章の書き方を学ぶ

中高年と呼ばれる年齢になり、どんどん衰えていくカラダとアタマに恐れをなして、これは鍛えるに如くはなしと思い立ったのがちょうど二年くらい前でした。以来、カラダのほうは体幹レーニングや筋トレを、そしてアタマのほうはこのブログを書き続けるという二本立てでここまで来ました。

どちらもすでに習慣化しているので、特に苦にもなりません。それでも文章のほうはなかなか思うように書けません。一年前や二年前のブログを読み返してみても、ああ、何だか読みにくい文章だなとか、回りくどい文章だなと思うことが多いです。それでも毎日文章を書くこと自体が「トライ&エラー」の繰り返しみたいなもので、続けていけば洗練とまではいかなくても、自分なりのやり方が出来上がってくるだろうと信じることにしています。

いまのところ、文章を書く上でいちばん励みになっているのは、コラムニストの小田嶋隆氏が、ネットラジオでの対談でおっしゃっていた言葉です。

(原稿を書くときにいつも気づくのは)自分は、物を書いている時のほうが頭がいいんだなっていうこと。頭がいいんだなって言うとちょっとアレですけども、結局、文章を書くことによって気づくことがすごくあるっていうことですよね。(中略)まずあらかじめ頭の中にあることを伝えるために外に出すっていうふうに考えがちだけども、実は書いているうちに、書いている段階で「ああそうだ」と気がつくことのほうがずっと多いんだと。

そうなんですよね。あれこれ考えているだけではなかなか文章にならないことが多くて、そんなときはとりあえず書き出しちゃうんです。そうすると、自分の中で「これも書け、あれも書け」という声が響き始めて、文章が出てくるような気がします。しかも、最初に考えていたのとはかなり違うところに行き着いたりする。「こんなん出ましたけど〜」という占い師みたい(古いですね)な感じです。

そうやって書いていると、百本か二百本に一本くらい、自分で言うのも大変おこがましいですけど「あれっ」と驚くようなイイことを書いているときがあります。これ、ホントに自分が書いたのかしら、という感じ。不思議なんですけど、トライ&エラーを繰り返しているうちに、それまでの自分では考えられなかったような達成が降りてくるというのは、スポーツや芸術の世界ではよく聞く話です。小田嶋隆氏もこうおっしゃっています。

書いているうちに考えが深まるんですよね。自分が書いたことを手がかりに、もう一歩先に考えを進めますから。そうすると、まあ二時間くらいかけて原稿用紙五枚くらいのものを書いたとすると、二枚目まで書いた時に、当初自分が予想していた結論よりももう一歩考えが深まってたりすることが、いつもじゃないけですけど、たまにあるんですよ。(中略)それは、物を書かなかったら決して気がつかなかったポイントで、それが一番、私は価値があるんじゃなかろうかなあと思っていて。

ブログを書き始める以前は、多少はテクニカルなことも学ぶべきかしらと思って、文章読本的な書物もあれこれ読みました。もはや古典ともいえる谷崎潤一郎氏の『文章読本』、丸谷才一氏の『文章読本』、三島由紀夫氏の『文章読本』はもうずいぶん前に読みましたが、あまり記憶に残っていません。むしろこれも古典と言っていい本多勝一氏の『日本語の作文技術』や岡崎洋三氏の『日本語とテンの打ち方』などのほうが自分の糧になったような気がします。

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https://www.irasutoya.com/2016/12/blog-post_233.html

最近はSNSやブログなどで文章を発信する方が増えたので(自分もそのひとり)、そうした方をターゲットにした文章読本的な出版物がたくさん出ています。私もそういった書籍の中から、直近では例えば三宅香帆氏の『文芸オタクの私が教える バズる文章教室』とか川崎昌平氏の『書くための勇気: 「見方」が変わる文章術』などを読みましたが、いずれも私の心にはあまり響きませんでした(ごめんなさい)。

思うに、文章はテクニカルな面だけを追いかけてもたぶん実入りは少なくて、むしろいい小説やマンガを読むとか、いい映画を見るとか、いい音楽を聞くとか、そういうのが文章になにがしかの影響を与えるのかもしれません。あと、人と意見交換したり議論したりすると、自分でも思いもよらなかった視点が手に入るような実感があります。

ところで、テクニカルな面だけを追いかけても仕方がないと書きつつ、すぐに前言を翻すようですが、わかりやすい文章を書くというきわめてテクニカルな点について、最近とても納得感のあった文章に出会いました。それはルポライター安田峰俊氏が「note」に書かれていた『片手間で教える文章講座「ユニバーサル日本語」の書き方』というシリーズ記事です。
note.com
ネット上に書く文章の一番基本になるところを丁寧に解説していらして、とても勉強になりました。特に「一文を短くする、逆接以外の『が』を使わない」というのは、ついつい文章が冗長になってしまう私にはとても示唆に富むポイントでした。そしてまた、ほかのポイントのうちいくつかは自分でも「こうじゃないかな」と手探りでやっていたテクニックだったので、とても心強く思えました。

中国語を話すと大声になる?

お昼ごはんを作りながらテレビをつけていたら「中国人観光客はなぜ声が大きいのか」という話題をやっていました。そもそも「〇〇人はこう!」と一緒くたに語ること自体にあまり意味はないように思います。でも、正直に申し上げれば、私自身の経験からしても「確かに声が大きい人が多いなあ」とは感じます。

テレビ番組では中国人のコメンテーターお二人が「中国は人が多いし、空間はデカいし、大きな声を出さないと聞こえないんですよ」とおっしゃっていました。なんだか分かったような分からないようなコメントですけど、たしかにそういう側面はあるのかもしれません。というか、声高に主張しなければどんどん自分が不利になっていくという、いわば生き馬の目を抜くような社会のあり方(なかんずく、中華人民共和国の建国から数十年、文革に代表されるような人心を荒廃させた社会のあり方)がそうさせているのかもしれません。あるいは「人は人、自分は自分」というリアリスティックな考え方をする人が多く、日本のような同調圧力が比較的薄いからなのかも。

世代の差があるという人もいます。比較的年齢の高い方は大声で話す人が多いけれども、若い世代になるほど、それも異文化に触れる機会が多い人ほど、往来で過度な大声を出すのはエチケットに反すると考える人がおおいんじゃないかと。でも、こういった説明はどれもいまひとつピンときません。私が知っている範囲でも年令を問わず声の小さい中国人はいますし、結局は個々人の差じゃないかとも思えます。

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https://www.irasutoya.com/2020/01/blog-post_651.html

ただ、自分自身でひとつだけ実感をともなって言えるのは、中国語を話すと自然に声が大きくなるということです。大きくなるというより、ダイナミックになる。もとから「地声」が大きい私が言ってもほとんど説得力はないのですが、私は日本語を話している時と中国語を話している時では、明らかに自分の性格が違っているのを感じます。どうも中国語のほうが声が大きくなるみたいなのです。

先日も「新型コロナウイルス」に関して箱根の駄菓子屋さんが店に掲げたという差別的な張り紙について、中国人の同僚と意見交換していました。話題が話題なだけにけっこう会話が盛り上がる要素はあったにせよ、かなりな大声で話してしまい、回りの同僚がちょっと引いているのがなんとなく分かりました。中国語を話すとつい大声になっちゃうのは、なぜなんでしょうか?

中国語には「声調」という音の高低や上がり下がり、つまりメロディのようなものがあって、それで意味の区別をしています。日本語にも音の高低やイントネーションはありますが、それほどクリティカルな要素ではないですよね。仮にまったく音の高低をなくして平板に話しても、不自然ではあるものの意味は伝わります。でも中国語はもう少し旋律を伴わないと、言い換えれば日本語よりは多少ダイナミックに話さないといけない。だから自然と声が大きくなるのかもしれません。

まあ私の場合は中国語が母語ではないので、話すときに日本語よりはもう少しエネルギーが必要です。つまりそれだけ必死になって話しているということで、だからついつい声を張って大きくなるのかもしれませんが。

ただ、東京の都心に毎日通っていて、日々中国語をはじめとしてさまざまな外語が飛び交っている電車に乗ることが多い自分の印象から言えば、声が大きいのは何も中国語の方々だけではありません。他の言語の方々もけっこうな音量で話してらっしゃる。そうすると、中国人の声が大きいと感じるのは、単にそれが自分の母語ではないから、馴染みの音ではないからなのかもしれません。ただ観光客にせよ住んでらっしゃる方にせよ、人数から行けば中国語を話す方が圧倒的に多いので、「声が大きい外国人」のサンプルとして中国人が上がってくる確率が高いのかも。

私は公共の場所はできるだけ静かな方が好きな人間ですが、旅先でつい気持ちが高揚して声が大きくなるってこともあるんじゃないかと思っています。インバウンドが増えて経済が活性化すると外国人観光客を受け入れるなら、そういう「異質」な文化との「違和感」にも多少は慣れていくしかないと思います。多様性を尊重するという言葉は素敵ですけど、それは一面そういう違和感をも受け入れていくことなんですよね。

「日本語を話す外国人」という存在がよくわからない?

インターンシップという制度があります。学生さんが一定期間企業などで「就業体験」をすることです。実はうちの学校にもこの制度がありまして、主に日本での就職を希望する留学生が、短い期間ながら様々な業界の企業におじゃまして、日本企業での仕事の進め方や企業風土などを学んでいます。

さまざまな企業で就業体験をするので、インターンシップ期間が終了した後、参加者全員が集まってお互いの体験や気づきをシェアする機会を持ちます。私も留学生のみなさんのお話を聞きに行ったのですが、グループディスカッションの最中に、興味深い意見を聞くことができました。複数の留学生いわく……

もう少し、私たちの語学力を信頼してくれたら、うれしかった。

うちの学校のインターンシップは、基本的に一企業一人の割り当てです。それぞれの留学生はインターンとはいえ容赦ない日本語が飛び交う企業の現場で、日本語を駆使して孤軍奮闘しなければなりません。というわけで参加している留学生は、そのほとんどが日本語能力のかなり高い人たちです。日本語能力検定試験のN1レベルという人も多く、さらに上を目指そうと毎日通訳や翻訳の訓練をしています。

けれども留学生たちによると、現場の日本人は「とても優しかった。むしろ優しすぎた」というんですね。例えば仕事の指示を出して資料を渡す際に「この日本語、読めるかな」と言われたり、かなり簡単な日本語で噛んで含めるように説明されたり、さらには一緒にランチに行ってメニューに書いてあるカタカナ(ハンバーグとか、ナポリタンとか、アイスコーヒーとかですね)について「カタカナ、読めるかな」と気遣われたりしたと。

もちろんそれは留学生を慮ってのことであって、とてもありがたいことなんですけど、N1レベルの留学生にしてみれば、なんとなく「能力を低く見積もられている」「お子ちゃま扱いされている」ような感じがするのでしょう。あるいは、ごくごく簡単な仕事しか体験させてもらえず、自分の日本語力からすると力を持て余すというか、拍子抜けしたというか。

私はここに、日本人(日本語母語話者)の特徴が現れているような気がしました。日本語を学んで、使うことのできる外国人というのがどういう存在なのか、あまりよく理解できていない方がままいらっしゃるのです。

日本は現在、ほぼ単一の言語で社会を回して行くことができるという、世界でもまれな「モノリンガル」の国です。もちろん母語である日本語だけで社会が回り、幼児教育から高等教育まで行うことができるというのは、ある意味とても幸せなことです。他言語勢力による侵略や植民地統治の結果、土着の言語以外に英語やフランス語などを使わざるを得なくなった(特に知識階級で)国々のことを考えてみればよく分かります。

でもその僥倖ゆえか、日本人の多くは外語や多言語環境に対する想像力が足りていないのではないかと思います。そしてまた、そうであるがゆえに外語に対するコンプレックスも人一倍高いのだと。こう言ってはたいへん失礼ですが、多くの日本人は外語や多言語環境、つまりは「マルチリンガル」というものに対して、とてもナイーブ(うぶ)なんですね。違う言語の人たちにどういうスタンスで向き合えばいいのかがよくわからない。

いっぽうで留学生のみなさんは、英語や中国語に加えて日本語までかなりの水準に達しています。さらに英語や中国語以外の言語が母語の人や、中国語の他に各地方の言葉(広東語や上海語など)を母語としている人もいます。自宅では家族と土着の言語、学校ではその国の公用語、仕事先では英語などと、とにかく日本人にはなかなか想像しにくいほどのめくるめくようなマルチリンガル環境に生きている人たちなのです。

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https://www.irasutoya.com/2018/05/blog-post_45.html

留学生の教育を担当する教師の間ではとてもポピュラーな戒めのひとつに、こういうものがあります。「日本語の拙さと、その人の知性はリンクしない」。自分が英語や中国語など、外語を学ぶときのことを想像してみれば容易に理解できることですが、言語が発展途上のうちは、発話が拙かったり、たどたどしかったり、文法が間違っていたりします。当たり前のことです。でも、それはその人の知性が劣っているからでは(たぶん)ないのです。

でもその当たり前がわからない、というのが言い過ぎなら、肌感覚でピンとこないという日本人がけっこう多い。いえ、これは何も日本人だけではないかもしれません。言語として圧倒的なプレゼンスを持っている英語圏の人々にも、拙い英語の話者に対してハナから「この人はバカなのではないか」という偏見を持つ人がいるそうです。

日本でも、外国人労働者が多く働くコンビニで、店員の話す日本語のイントネーションがちょっと不自然だというだけで「日本人と代われ!」などと暴言を吐く人もいます。「そう言われるときが一番心が折れます。あとちょっと日本語が不自然だと『ドゥーユーアンダスタン?』と英語で対応されるのも」と私に語ってくれた中国人留学生もいました。

私はその話を以前Twitterでつぶやいたことがあったのですが、たくさんついたリプライのうち少なからぬ人が「完璧に日本語を話せないなら仕事をするな」という主張であったことに驚きました。つまり、日本語の発音や統語法に関する要求がことのほか高いのです。自分が海外のコンビニで、その土地の言語で仕事をすることを考えてみたら、その大変さとスゴさが少しはわかるのではないかと思うのですが……。これ、外国人の看護師や介護福祉士の受け入れに際して「日本語への要求が高すぎる」という問題とも通底する話だと思います。

qianchong.hatenablog.com

ただ、会社の方々を責めるわけにもいきません。普段外国人と接点があまりない方にとっては、二つ以上の言語を切り替えて話すのがどういうことなのか、外国人が日本語を学ぶというのはどういうことなのか、そういったことそのものに想像が働かないのも無理はありません。日本語能力検定試験の「N1」や「N2」にしたって、一般の人はそれがどんなレベルなのかなんて、まずわからないですよね。

いま日本は、「グローバル化」のバスに乗り遅れるなとばかり、朝野をあげて小学校から英語教育だとの声喧しいです。もちろん外語学習はとても大切ですし、大いにやればよいと思います。でもその前に、あるいはそれと平行して、「言語リテラシー教育」とでもいうものが必要なのではないでしょうか。そもそも言語とは何か、母語や外語とは何か、言葉の壁を超えるとはどういうことか、通訳や翻訳とはいったいどんな作業なのか……世界がさまざまな言語に分かれているという現状の難しさも面白さも奥深さも、そして一面の怖さもきちんと理解しておく必要があるのではないかと。

ただ単に「英語や中国語がペラペラに」を目指すだけでなく、言語が異なる人々とのつきあい方や交流の仕方、すなわち「異文化(異言語)コミュニケーション」とは何か、という包括的な教育の必要を感じるのです。それは言語の習得のみにとどまらず、多様性を認識し、認め合い、寛容と相互理解の精神を養うことなどにもつながると思います。

qianchong.hatenablog.com

一律に排除することへの違和感

新型肺炎のニュースが毎日大々的に流される中、私としては職場の同僚である中国人や、日本に留学中の中国人に、差別的な言葉が投げつけられないだろうかというのが気がかりです。SARSの時もそうでしたが、「正しく知り、正しく怖がる」ことができずに、中国、あるいは中国人というだけですべてが「汚染」されているかのような極端なイメージを持つ人が少なくないからです。

私の周囲で聞いてみた範囲では、みなさん「特に、いまのところは何も」だそうです。それでも「仮に電車内などでマスクをしておらず、中国語でおしゃべりしたら……というシチュエーションを想像すると、たしかにちょっと周囲の目が気になるかな」とは言っていました。こうした「○○人だと分かるやいなや、一律に排除」されるかもという理不尽さに対する懸念や不安は、もし自分がその立場にあったらと想像してみれば、少しは分かるのではないでしょうか。

そんな中、Twitterでこんなツイートに接しました。

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https://twitter.com/Wl9uZ/status/1222365398374371329

「#拡散希望」というハッシュタグとともに書かれたこのツイートは、その希望通り、すでに千の単位でリツイートされ、中には感謝の言葉とともにこれを店の前に貼りますというリプライまでついていました。

この中国語は、一見とても丁寧です。でも私には慇懃無礼を絵に描いた(文字に書いた?)ような文章に読めます。こうやって“中国游客(中国人旅行者)”というだけで一律に入店を拒否するのは、予断と偏見を助長するだけではないでしょうか。それに在日中国人や留学生と旅行者をどうやって区別するのでしょう。“尊敬的(尊敬する)”とか“万般无奈之下(万やむを得ず)”などと丁寧な言葉を使いつつも、結局は一律に中国人を排除していることになります。

この文言が印刷されて、実際に店頭に掲げられていることを想像してみましょう。あるいは状況を逆転させてこれが中国の店頭で日本人に向けて掲げられたものであったらと。「ウイルスの拡散を防ぐためにお客様にはマスクの着用と入店時のアルコール消毒をお願いいたします」などならまだしも、こうして「〇〇人」というだけで一律に自分が排除の対象になってしまったら、私ならきっと憤慨して「こんな店、二度と来るもんか」と思うでしょう。

そこにこの文言は追い打ちをかけます。“等疫情结束后,欢迎您的再次光临(感染の状況が収束したのちのご来店をお待ちしております)”。一律に排除しておいて、でも顔では愛想笑いをしている。しかも最後に誰も異論を挟むことができない“武汉加油!中国加油!(がんばれ)”までつけ加えられています。この落差こそ慇懃無礼だと感じるゆえんです。寄り添っているように見えて、その実冷たく突き放しているだけじゃないかと。

この文言は、上掲の「店舗用」に加えて「病院用」も作られ拡散されているよし。こんな紙が入口に掲げられている病院があったとしたら……もはやモラルも理性も放棄した態度だと言わざるを得ません。

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https://www.irasutoya.com/2015/08/blog-post_320.html

繰り返しになりますが、いまの私たちに必要なのは「正しく知り、正しく怖がる」ことです。現時点では、日本国内における感染状況はパンデミックとは程遠いですし、患者の容態は比較的軽くて落ち着いており、対症療法で軽快するケースがほとんどで、なおかつワクチンや特効薬の研究が急ピッチで進められています。

中国人を「一律に排除」しているヒマがあったら、マスクをする、手洗いを励行する、「咳エチケット」を守るなど、感染の拡大を予防するために日常生活の中でできることを淡々と行うべきです。それは毎年流行するインフルエンザの時と大差ありません。幸いネット上には「正しく知り、正しく怖がる」ための情報が次々に公開されています。

BuzzFeed新型コロナウイルス どれぐらい警戒したらいいの? 感染症のスペシャリストに聞きました
厚生労働省中華人民共和国湖北省武漢市における新型コロナウイルス関連肺炎の発生について
business.nikkei.com

中国における感染拡大の状況は予断を許しませんが、そんな状況の中で私たちがすべきなのもやはり「一律に排除」ではなく、少しでも援助の手を差し伸べることでしょう。それは東日本大震災福島第一原子力発電所事故を経験し、その後の各国からの支援を受け、一方でそれとは真逆の風評被害に苦しんでもきた私たちには容易に理解できることだと思います。

こうした「一律に排除」の考え方は、ヘイトスピーチに特有な知性の退廃を反映していると思います。反中や嫌中、あるいは嫌韓といった言説に特徴的なのは、世の中をあまりにも単純化して見ていることです。例えば「中国人の入国を止めろ」だの「韓国と断交せよ」だのの勇ましい言葉がネットにはあふれていますが、本当にそんなことをすれば経済は大混乱に陥り、それは回り回って自分にも不利益として跳ね返ってくるのです。

中国の政治の現状を信用できないという気持ちは分かります。私だって現状の中華人民共和国が様々な問題を(それも相当深刻で重大な)抱えていることは否定しません。でも、だからといってすべての中国人をその政体と一緒くたにまとめて考えるのは明らかに間違っています。要するに、問題をひとつひとつ辛抱強く腑分けして考え抜くことをサボっているのです。めんどくさいからみんな一緒に嫌っちゃえという考え方は粗雑すぎますし、やはり知性の退廃というしかありません。

「募ってはいるが募集してはいない」という発想

昨日Twitterで、こんなツイートを目にしました。毎日新聞写真部の公式アカウント(@mainichiphoto)によるものです。


▼ツイートにつけられていた写真
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私は安倍晋三氏の政治手法に大いに疑問を持っており、一刻も早く退陣すべきだと考えている人間です。先日の「募ってはいるが募集してはいない」という珍答弁にも怒り心頭に発しました(もう何度目かしら)。でもこの毎日新聞写真部のツイートは、正直に申し上げて「卑怯」だと思います。

リンク先の毎日新聞のウェブサイトに飛んでみると、そこにはこう書かれてありました。

参院予算委員会で「桜を見る会」を巡る問題で自身の地元事務所が「功績」などと無関係に参加者を募集した疑いに関して「幅広く募ったが、募集はしていない」との前日の自身の答弁について、野党議員が追及のために準備した「募る」と書かれた資料を手にする安倍晋三首相=国会内で2020年1月29日午前11時32分、川田雅浩撮影
http://mainichi.jp/graphs/20200129/hpj/00m/010/001000g/1

スクリーンショット
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つまりこの「募る」と大書された資料は野党議員が準備して安倍氏に渡したものなのですね。野党としては「募ってはいるが募集してはいない」という日本語のおかしさを強調するために「辞書の定義をよく読んでみなさい」と皮肉も込めて作成したのでしょう。

それはいいのです。でも元のTwitterのツイートにはこう書かれていました。

自身の地元事務所が「功績」などと無関係に参加者を募集した疑いに関した前日の答弁について準備したものです。

このツイートだけを読んだ方は、この資料が安倍氏の地元事務所が準備したと読むかもしれません。あるいは「自身の地元事務所が『功績』などと無関係に参加者を募集した疑い」を長大な名詞句として捉えたとしても、てっきり官僚が安倍氏のために準備した資料と思うでしょう。私もそう思いました。

これは明らかにミスリードを誘うツイートです。実際、ツイートだけに反応して「冗談だろ」「コラ(ージュ)かと思った」などのリプライがたくさんタイムラインに流れていました。もちろんミスリードを誘う書き方を批判したリプライもありましたが。

いくら安倍氏の手法が愚劣で悪辣だとしても、こうしたフェイクニュースまがいのツイートを報道機関の公式アカウントが流すのは間違っていると私は思います。そうやって信用を失えば、徐々にその会社の報道を信じる人は減っていくでしょう。それは回り回って健全な批判精神や言論の自由をも蝕んでいくと思います(もうすでにずいぶん蝕まれているような気もしますが)。

追記

卑近な話題で恐縮なのですが、うちの学校で、課題のレポートをネット情報のコピペで作成してきた留学生がいて、担当の先生が憤慨していました。この留学生は、以前にも同じようなコピペを行って学校側から注意を受けており、私の授業でもカンニングをした「前歴」があります。

この留学生は何度注意してもこういう行為がやめられないのですが、どうもご本人はそんなに悪いことをしているとは思っていない様子です。「コピペはしているが剽窃はしていない」「見てはいるがカンニングはしていない」という感じ。上述した毎日新聞写真部のツイートも「『前日の答弁について準備した資料を手にする安倍晋三首相』とは書いているが、それを誰が準備したとか、ましてや官僚が準備したとかは書いていない」と言うのかもしれませんね。

さらに追記

今朝になって、毎日新聞写真部が訂正を出していました。

語学の「見取り図」

中国語を学び始めて何年ぐらい経った頃でしょうか、あるとき「中国語とはこんな言語だ」という大まかな姿が見えてきたような感覚になったことがあります。最初は山の麓の樹海にいて周りの視界がまったくきかなかったところから、中腹まで登ってきて周囲の状況がある程度見渡せるようになり、頂上の姿もかすかに拝めるようになった感じ。あるいは中国語という巨大なテーマパークを空から俯瞰した感じです。

ごくごく簡単に描いてみると、こんな感じです。


①発音がきわめて大切。
②語順、特に「主語→動詞」を先に出す感覚になじむ。
③動詞にまつわる補語とアスペクト(態)を理解する。
④副詞がいい味出している。

中国語は発音にかなり重きを置く言語で、私がいま学んでいるフィンランド語がほぼローマ字読みでもなんとかなるのとはまったく違います。また語順で話す言語であること、動詞と副詞がとても重要であること、特に動詞が補語やアスペクトと結びついて多種多様かつヴィヴィッドな表現を可能にしていることなど……が、ある程度中国語を学んで見えてきた風景です。

もちろん他にもたくさん学ぶべき項目はあります。また、もとより語学に「これだけ学べばOK」というラインなどなく、学べば学ぶほどキリがなくなる(中国語でも“越學越沒境”といいます)ものです。でもこうやって語学全体を俯瞰して、この言語の「キモ」はここ! という「見取り図」的なものを手に入れると、それまで手探りで進んでいて、ともすれば学習を放棄しかねなかった危険性が薄れていくような気がします。

この中国語の「見取り図」的なものは、いまもお世話になっている『Why? にこたえる はじめての中国語の文法書』第19課にある「中国語ってどんなことば?」にわかりやすく書かれています。


Why?にこたえるはじめての中国語の文法書

フィンランド語の見取り図

フィンランド語のほうは、細々と学習を続けて一年半あまり。先日ようやく最初の教科書の最後の章までたどり着きました。先生によると、これで基礎的な文法はひとまず出揃ったことになるそうです。

「悪魔の言葉」とも称されるほど語形変化が複雑なフィンランド語。それでも「基礎的な文法がひとまず出揃っ」てみると、何やらこの言語の見取り図のようなものが見えてきました。

1.語順で話す言語ではなく、語形の変化が激しい。

英語や中国語とは異なり、フィンランド語は語順に重きを置きません。その点では日本語に似ています。また名詞・代名詞・形容詞などが激しく格変化するので、決まったフレーズをとにかく暗記するという「戦略」が取りにくい言語だと思われます。一方で副詞は格変化しません。

2.24個の格変化がある。

格変化は単数12個、複数12個の合計24個あります。書き言葉になるともっとあるそうですが、いまのところこれだけ。格変化をさせるためには「単語の語幹の求め方」と「kptの変化(子音階梯交替)パターン」を覚える必要があります。その上で、それぞれの格にするときのポイントと、複数の格を作るときの「母音交替のルール」も覚える必要があります。

3.動詞は人称や時制に合わせて変化する。

動詞は一、二、三人称のそれぞれ単数と複数、つまり合計6つに変化し、時制によっても変化します。さらに肯定と否定があり、特殊な形として「第三不定詞」「第四不定詞(動名詞)」「命令形」があります。時制は「現在形・過去形・現在完了形・過去完了形」の四つ。ここでは動詞のタイプ別に活用させるときのポイントと、過去形を作るときの「母音交替のルール(複数を作るときと若干の違いがある)」を覚える必要があります。

4.不規則な変化がある。

代名詞や疑問詞には上記のパターンや規則によらない不規則な変化をするもの、言い換えれば暗記するしかないものがあります。また数詞も特殊なパターンで変化するものがあり、これも覚えてしまうしかありません。

以上はこれまでに学んだものだけなので、今後また新しい項目が増えると思います。でもこうして整理してみるととりあえず今やるべきことが見えてきました。つまり……


①語幹の求め方(ie子)を覚える。
kptの変化パターンを覚える(子音階梯交替)。
③基本となる24個の格変化のさせかたを覚える(含・母音交替)。
④動詞の活用を覚える(含・母音交替)。

……というあたりに集約されそうです(けっこう複雑ですが)。プラスとにかく「⑤単語を覚える(語彙を増やす)」でしょうか。先生からも「とにかく単語を覚えてください。単語(の原形・辞書形)を知らなければ、変化や活用のさせようもありません」と発破をかけられました。

こうした「見取り図」的なものは、初学者の段階で示されてもあまりよく理解できないと思います。最初は教師を信じて素直に一歩一歩山を登って、多少は見晴らしのきく中腹まで進むしかないんですね。

折り目正しい母語を話したい

入学試験のシーズンを迎え、私が奉職している専門学校でもすでに何度かの試験が行われました(一次募集、二次募集……と何度か試験があるのです)。筆記試験の他に面接試験があって、私もよく動員されます。面接試験では、日中通訳のクラスを志望する受験生に、日本語での質問の他に中国語でもいくつか問いかけることにしています。これは中国語母語話者である受験生の中国語のレベル、つまり「母語のレベル」を推し量りたいからです。

母語にも外語同様に巧拙の「レベル」があるんですね。自分の母語なら、誰だって何でも簡単に話せるだろうと思われますでしょうか。たしかに外語よりは自分の気持ちにぴったり沿った内容を話せそうですけど、そこで使われている語彙や文の組み立て、話し方のスタイルなどにはその方の「母語のレベル」が如実にあらわれます。複雑で抽象的な内容を立て板に水で話せる方もいれば、母語であってもたどたどしく要領を得ない方がいる。

日本語で卑近な例を挙げれば、おいしいものを食べても、美しい風景に接しても、映画や音楽に感動しても、あるいは学校に遅刻しそうになっても、雨が降ってきそうになっても……すべて「ヤバい」で済ませる方がいるとしたら、相手にどういう印象を与えるでしょうか。そういった母語の豊かさを面接試験で確かめようとしているのです。

ちょっと語弊があるかも知れませんが、中国語は日本語よりも「階級差」が比較的はっきりしている言語です。そしてまた、これもあんまり使いたくない言葉ですが、その方の“文化水平(教育や教養のレベル)”が現れやすい(まあどんな言語でも多かれ少なかれそうだと思いますけど)。だから面接の時に中国語で少しまとまった内容を話してもらうと、その方の母語のレベル、そして教養のレベルがある程度推し量れてしまうというわけです。

う〜ん、中国語の母語話者でもない私がこんなことを書いていいのだろうかというくらいの「おこがましさ」です。でもお仕事で中国語を聴いたり話したりされている方なら、おおむね同意してくださるのではないかと思います。日本語母語話者であっても、中国語母語話者の教養のレベルがある程度分かっちゃう。ということは、その逆もまたしかりですよね。中国語にしろ日本語にしろ、ふだんから折り目正しい(?)発言に触れて、それに学ばなければと思うのです。

さいわい現代は、ネット上に動画やアプリなどでそうした教養の香り高い中国語に簡単に触れることができます(日本語は探すのがなかなか難しいのですが)。もちろん教科書に載っている中国語を地道に学ぶだけでも大丈夫。中国語を学ぶ生徒さんからは、市井の中国語母語話者は教科書のように話していない、もっと実用的な中国語を学んで身につけたい、という「不満」を寄せられることが時々あります。日本語を学んでいる留学生からも「バイト先の日本人や日本人の友達は、教科書のような日本語を話していない」と言われることもあります。

でも私は、折り目正しい中国語を学ぶに如くはないと思います。崩すのはあとからいくらでもできるんですから。そしてそれは、母語でも同じ。少なくとも人前で話すときのそれは折り目正しくあるべきだと思います。自分としては、なかなか内実が伴わないのが歯がゆいところですが。

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https://www.irasutoya.com/2018/05/blog-post_582.html

結婚も幸せの形も人それぞれ

先日の国会、衆議院での首相の施政方針演説に対する代表質問で、選択的夫婦別姓の導入を訴えた野党の代表に対して、「だったら結婚しなくていい!」とヤジを飛ばした議員がおりました。あまりの愚劣さに驚きますが、この議員が「してやったり」とばかりに勇んでヤジを飛ばせるのは、その意識が周囲の仲間や所属する政党の価値観とリンクしているからこそなのでしょう。

選択的夫婦別姓なのですから、これまでのように同姓にしたい人はすればいい。そこに新たな選択肢を増やすことでより多くの人が幸せになるというお話なのに、あの人たちはいったい何に反対しているんでしょうね。というか、反対している「あの人たち」は自民党(の主流派)だけです。早くあの人たちを政権の座から引きずり降ろさなければなりません。

この課題について民意はもう明らかに「賛成」です。私が最初に結婚したのは三十年ほど前ですが、当時「夫婦別姓」を選んだ私としては、ここ三十年ほどでよくここまで民意が変化してきたなあと感慨深いものがあります。でも私はこの課題についてほとんど何も主体的なアクションをしてきませんでしたから、エラそうなことは言えません。地道に主張し続け、活動し続けてこられた方々に心から敬意を表します。

三十年前に夫婦別姓、つまり事実婚を選んだときは、様々な局面で制度上の不利益を被りました。でもまあそれは最初から覚悟していたことですから特につらくもなかったのですが、一番つらかったのは周囲の人々から投げかけられた言葉の数々でした。「事実婚? それは本当の結婚じゃないよ(本当の夫婦、本当の家族などバリエーションは様々)」といったたぐいの。みなさんどうして人様の結婚に、そして人様の幸せの形に、勝手な定義や解釈を加えたがるんでしょうね。

けさの東京新聞に、能町みね子氏がご自身の著書について書かれたコラムが掲載されていました。「結婚の定義なんて、それぞれが勝手に決めればいいと思うのです」。ホントにそのとおりだと思います。そしてまたこの部分に関しては心から同感です。

ドラマも映画も音楽も、(主に男女の)愛を、ラブを、まあしつこいほどに賛美しつづけているけれど、私はあれがそもそも間違っていると思っています。

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そうそう、現代ではかなり多様化してきましたけど、私は若い頃、どうしてポップスも映画もみんな愛だの恋だのばかりがテーマになるのか不思議でした。ハリウッド映画なんか絶対にキスシーンを放り込んできますし。人は(主に男女の)ペアになって結婚するのがデフォルトという強い価値観は、冒頭に書いたヤジ議員がかつて雑誌に開陳した「生産性云々」の暴言とどこかでつながっているようにも思えます。だってあの人たちの理屈は、生き物はペアになって生殖して子孫を残すことだけが絶対善なんですから。

でもまあ私は二度目の結婚では何だか色々とめんどくさくなって籍を入れちゃった日和見者です。やっぱりエラそうなことは言えません。能町氏のような、こうした自由で気持ちの良い関係を、しかも胸を張ってごくごく普通に淡々とつづけておられる姿をまぶしく仰ぎ見ながらコラムを読みました。

「自制」にたよらず「福流」をめざす

昨日は中国語圏のお正月「春節」でした。でも私の職場は日本の暦で動いているので関係なしに授業があります。中国語圏の生徒さんも「元日」から学校にやってきます。正月気分もなにもあったもんじゃないですね。お疲れさまです。

午前中の仕事を終えてすぐに横浜の語学学校へ向かいました。今度は自分がフィンランド語を学んでいる教室です。いつもギリギリで教室に到着するのですが、昨日はJR東海道線が車両点検か何かで遅れていて、間に合いそうにありませんでした。私は「いらち(関西弁で、性急で落ち着きがないこと)」な人間なので、こういうときはすぐに「イヤになっちゃう」。新橋駅のホームで電車を待ちながら「もう今日は学校へ行くのをやめて帰っちゃおうかな」などという考えが脳裏をよぎりました。

それでも「いやいや」と思い直して電車に乗って、「得到」というスマホアプリの『羅胖精選』という番組を聴き始めたら、昨日のテーマは「立的Flag總是實現不了,怎麼辦?」でした。「立Flag」は日本語の「フラグが立つ」と同じで、なにかが起こる条件が整うという意味ですけど、ここでは単純に目標を立てるくらいの意味でしょう。つまり「立てた目標がいつも実現できずに終わっちゃう。どうすればいい?」ということですね。

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https://m.igetget.com/share/course/article?id=BQe6EGjvO7zRKZqqW6XnDrkMLPgAp9

いやあ、シンクロニシティだなあと思いました。だってまさにその時、私は「毎回語学学校へ行く」という目標を放棄しようとしていたんですから。

番組では心理学者の陳海賢氏がこの「お悩み」に答えています。氏はなにかの目標を実現しようとするときに大きな「自制」の力を必要とするという考え方が間違っているのではないかとおっしゃいます。私たちはよく「継続は力なり」などといって、努力し続けること、つまり途中で放棄したくなる自分を制してこそ目標を実現できるという考え方をしますよね。

でも往々にしてその努力は継続せず、いわゆる「三日坊主」に終わります。ダイエットにせよ、筋トレにせよ、語学の勉強にせよ。でも陳海賢氏は、なにかの目標を実現するコツは「自制」の力に頼るのではなく、むしろ「自制」の力を必要としない状態に自分を持っていくことだというのです。

「自制」の力に頼って努力しているうちは、そこに必ず挫折の可能性が潜んでいる。一度でも怠けてしまったら、そんな自分が許せずに全部投げ出しちゃう。本当はちょっとくらい怠けてしまったとしても、気持ちを切り替えて続けていくことこそ大切なのに。だから気持ちよく続けていける状態(陳海賢氏は「福流(flow)」と言っています)をどう作るかを考えましょうと。

これは「習慣化」や「ルーティン化」、つまり、何かが習慣化してしまうと、逆にそれをやらないことが気持ち悪くて、結果長く続けられるというのと同じですよね。私は体幹レーニングや筋トレがすでにそういう状態にありますけど、フィンランド語の学習はまだそこまで行っておらず、いまだ「自制」に頼っているのでしょう。だから電車が遅れて遅刻しそうというちょっとした「挫折」で全部を投げ出しちゃおうかという誘惑に駆られる。

結局10分遅れでフィンランド語の教室に到着したら、とある日本人の動画を視聴していました。この方はGen Takagi氏で、フィンランドに移住してコメディアンを目指しているんだそうです。とても流暢なフィンランド語を話しておられますが、先生によると毎日決まった量の単語や文法を復習すること(それもほんの数十分程度)を毎日続けてここまでに至ったのだそうです。まさに「福流(flow)」の状態を自ら作り出してこられたわけですね。

www.youtube.com

これもまたシンクロニシティでした。こいつは春からめでたい。今年も「自制」の力ではない「福流(flow)」の状態に自分を持っていけるよう心がけたいと思います。祝大家鼠年吉祥!

お腹をへこませたい?

腰痛と肩こりの解消を目指し、パーソナルトレーニングのジムに通い始めて二年あまり。腰痛は今でも時々襲ってきますが、それでも能動的に身体を動かすことで、以前のようなひどい状態に陥ることはほとんどなくなりました。身体が快調になると欲が出るもので、いまは筋トレにも取り組んでいます。

筋トレといっても、ボディビルをやっているわけではないので身体にそう大きな変化はありません。でも、意識の持ち方はずいぶん変わってきたように思います。ダンベルやバーベルやマシンを使った筋トレは、単に荷重を上げ下げしたり引っ張ったりするだけの単純な動きのように見えます。でもパーソナルトレーニングでは、身体の使い方や意識のあり方についてトレーナーさんからかなり細かな指示が出されます。しかも荷重が上がるにに従ってその指示が変わっていく(というか増えていく)。

例えばベンチプレスでは、最初はとにかく下腹、いわゆる「丹田」に力を入れるてバーベルを上げるよう指示されました。次に、固まっていた肩甲骨が動かせるようになった段階から、肩甲骨を寄せた状態から上げることという指示が加わりました。さらにその次は、肩甲骨をただ寄せるだけではなく、下に向かって斜めに寄せるよう指示されました。

さらに脇を締めて上げること、胸がそらないようにして腰から尾骨辺りまでを台にぴったりつけること、お腹の内部を胸の方向に引き上げるようにしてお腹の全面と側面を固める意識を持つこと……。どんどん指示の内容が付け加わっていくのです。最初は意識しやすいところから始め、身体の使い方をひとつ覚えるたび、さらに新しい内容が加わっていく。これは筋トレ関係の書籍などにも書かれてはいるのですが、やはりトレーナーさんに手を添えてもらったり、模範を示してもらったりしながらでないとなかなか学べるものではありません。

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https://www.irasutoya.com/2013/03/blog-post_1184.html

そうやってトレーニングしてきたおかげで、胸や背中や肩には少しずつ筋肉がついてきました。でも中高年特有のポッコリお腹はまだまだ。トレーナーさんによると、この先は「お腹の内部全体を胸の方に引き上げる意識をしてください」とのことでした。要は横隔膜を引き上げるというのです。横隔膜を引き上げる?

よく健康診断のメタボ判定で腹囲を測る時に、わざとお腹を引っ込めていたら「はい、力を抜いて」などと注意されることがあります。横隔膜を引き上げるということは、あの引っ込めている状態を、わざと力を入れなくてもそうなるように持っていくということなのでしょうか。つまりはインナーマッスルを鍛えることがポイントだと。

お腹をへこませるために必要なのは、ひとつは脂肪を燃焼させるための有酸素運動(ランニングなど)、そしてもうひとつがこの横隔膜を引き上げる意識とインナーマッスルの強化なんだそうです。う〜ん。よくお腹をへこませたい一心で腹筋運動ばかりやっている方がいますが、それもまったく効果がないわけではないものの、やや的はずれなのかも知れないですね。腹筋を鍛えればお腹がへこむ、というような単純なものではないようなのです。

留学生の「日本人化」

教師というお仕事を長くやっていると、いろいろな生徒さんのクラスに遭遇いたします。日本人(日本語母語話者)だけのクラス、華人(中国語母語話者)だけのクラス、日本人と華人の混成クラス、はたまたそれ以外の外国籍の方が多数参加しているクラス……。

面白いのは、それぞれのクラスによって、授業中の雰囲気がずいぶん違うという点です。もちろん、年齢や地域によってもずいぶん異なるとは思います。人生の酸いも甘いも噛み分けたご年配の方が多いクラスは、物怖じせず発言する方が多いような気がします。また例えば「ボケ&ツッコミ」に代表されるコミュニケーション能力が異様に高い(褒めてます)大阪人の方々が多いクラスでも活発なのかなあという気はします。あくまで想像ですが。

だからこれは、主に東京近辺でお若い方々を中心としたクラスでお教えすることが多かった私の観察に過ぎないのですが、総じて日本人のクラスはとても静かで、華人のクラスないしは外国籍の方のクラスはとてもにぎやかな印象があります。

もちろん華人を含めた外国籍の生徒さんにもおとなしくて「引っ込み思案」の方はいらっしゃいます。だから突き詰めて考えれば単にひとりひとりの個性ということになっちゃいます。それでも、外国籍の生徒さん、例えば留学生などのクラスを担当すると、積極的に発言する方、さらには不規則に発言する方の比率が高いと感じる。日本人だけのクラスに比べて、明らかにその割合が高いのです。

私は、こうした日本人のクラスと、外国籍の方のクラス、どちらの授業がやりやすいかといえば、これはもう断然後者に軍配が上がります。にぎやかだったり、あまつさえ不規則に発言されたりするクラスが「やりやすい」とはどういうことか。生徒さんが静かだと、静かすぎると、とっても話がしづらいんです。これは授業でもセミナーでも講習会でもレクチャーでも、何かを人前で話すという体験がおありの方にはおおむね同意していただけるのではないでしょうか。

静かすぎる日本人の生徒さんを前に授業をするのは、まるで山奥にあるさびしい湖の畔に立ってひとり小石を投げ込み続けているようなもの。何を話しても、何を問いかけてもほとんど反応がないというのは、ひどく精神を蝕まれるような気がします。反応を引き出せない自分の技術不足というご批判は甘んじて受けますが、あの一種独特の静けさ、というか反応の薄さは何なんだろうなと思います。

でも、わかっています。静かすぎるお若い日本人の生徒さんたちは、本当は色々と反応したいのです。でも「空気を読む」同調圧力がそれをさせない。ま、誰も彼もが自己主張しすぎるのも疲れますし、日本人の奥ゆかしいところ(?)も私は愛する者ですが、少なくとも「しゃべってナンボ」の語学の授業ではもうすこし心を開いてほしいなと思うのです。

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https://www.irasutoya.com/2016/08/blog-post_136.html

ところが面白いのは、来日して間もない留学生のみなさんは「わいわいがやがや」とにぎやかなのに、日本で一年、二年と学んでいるうちに、日本人っぽく空気を読んでおとなしくなって行く人がけっこういることです。とある日本語学校の先生に伺ったお話では、「日本人化」という業界用語があるよし。

もちろん例外もたくさんありますから一般化はできないのですが、留学生がそうやって「日本人化」していくのはなぜなんでしょうね。日本社会で様々な日本人と交流していくうちに「日本人らしさ」を体現していくようになるのでしょうか。

そういえば私は、中国に留学して長く過ごすうちに、ずいぶん中国人的なメンタリティに染まっていったような気がします。もちろん基本はほとんど変わらないけれど、立居振舞いがなんとなく「中国人化」していたようで、日本から遊びに来た知人と久しぶりに会って、驚かれたことを思い出しました。まあそうやって自分が変容していくのも、留学の面白いところではあるんですけど。

qianchong.hatenablog.com

武漢の新型肺炎とネット翻訳

中国の武漢で拡大が続いているとされている新型ウイルス肺炎、日本での報道が加熱してきました。報道に接する私たちは「正しく知り、正しく怖がる」ことが大切だと思うのですが、こうなってくると物事を冷静に判断できない人が増えてくるのは世の常。かつてのSARSの際にも、まるで中国全土が汚染されているかのような報道や周囲の人々の会話に憤ったことを思い出しました。

私が勤めている職場でも、中国人講師が風邪気味でマスクをしていて、申し訳なさそうに、かつ少々冗談めかして「私は大丈夫ですよ、今のところ具合の悪い人とは接触していませんし」と言っていました。みんなで「そんなふうに気を遣われなくていいんですよ」と申し上げましたが、この時期、中国人というだけで色眼鏡で見てくる輩が増える、そういう気配を感じてらっしゃるんだろうなと、ちょっと気の毒に思いました。

一部にいる、事を針小棒大に語り過ぎる人々の発想には心底がっかりします。SARSの頃に比べてネットがさらに進化し、様々な情報を取捨選択しながら物事の本質を見極めるすべが増えているというのに、当の人間のほうはあまり進化していないんだなと。

私自身、ここ数日周囲の方から「武漢のこともありますから、おからだお気をつけになって」と声をかけられます。でもよくよく考えてみれば、私が中国語関係の仕事をしているからといって、いますぐにどうこうという局面にいたるはずはないですよね。

もちろん善意でおっしゃってくださってるのは分かりますし、中国に関係したお仕事だから、来日されている中国人と会うかもしれない、中国に出張するかもしれない、だから「お気をつけて」ということも分かります。なので、人にそう言われても特に気にもしないし、もちろん問題だともまったく思いません。でもふと、ああ、こういうところに色眼鏡の小さな小さな芽はあるのかもしれない、と考えたのでした。

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https://www.irasutoya.com/2019/02/blog-post_11.html

折しも昨日、こんな報道に接しました。箱根のある駄菓子店が店頭に「中国人入店禁止」なる張り紙を出し、差別的だと問題になっているという報道です。

asahichinese-j.com

報道によれば、店主は「感染を避けるため」に翻訳アプリで中国語の張り紙を作成したそうです。張り紙の中国語を読んでみると、多少の違和感はあるもののいちおう文意は伝わります。まあ文章全体は今回の新型ウイルス肺炎にかこつけて中国人への差別意識を露わにしているだけの幼稚で腹立たしい内容ですが、逆に私は、昨今の翻訳アプリがこうした差別的言辞の拡散にも一役買える(?)時代になったのかという感慨も残りました。以前だったら到底実用に堪えないレベルだった機械翻訳が、こうして実用(悪用ですか)に資するレベルになったのだなと。

かつて都内の中国語学校に勤めていたころ、年に数回「黒い街宣車」の襲来にあいました。中国の要人が来日するなどのイベントがあると決まって出没する彼らは、中国語学校に対してもシュプレヒコール(というかヘイトスピーチ)を浴びせていたのです。いわく「中国人は出ていけー」。私たちは「ガン無視」でしたが、学校に在籍している中国人留学生を守ることだけには神経を使っていました。ところがあるときからこのシュプレヒコールに変化があらわれました。「中国人出ていけ―」を中国語で発するようになったのです。

私は憤慨しながらもひそかに感動(?)していました。彼らは考えたのです。「中国人出ていけー」を当の中国人に伝えるためには、中国語で言ったほうが効果があるんじゃないかと。偉い偉い。気づくのがちょっと遅すぎますが。もっとも彼らの中国語は「ちょんこれん、ふいちー(中國人,回去)」みたいな稚拙すぎる発音だったので、果たして伝わったかどうかは怪しく、私は「ウチの学校で発音をやり直しませんか」と、危うくパンフ持って出ていくところでした。

閑話休題

ともあれ、その当時から比べても、精度が上がりつつある現代の機械翻訳は、こうしたヘイトスピーチさえ効率化・有効化する手段になるのだなと思ったのです。精度の上がったヘイト訳文を、読み上げアプリみたいなもので音声化し、拡声器から出力すれば、くだんの「ちょんこれん、ふいちー」より数段まともなシュプレヒコールも可能になるでしょう。

実際、上述の張り紙はネットでまたたく間に拡散され、けさ私が授業で中国人留学生に「こんなの、知ってますか?」と聞いたら、全員が知っていました。それほどの浸透性・拡散性を持つ訳文を機械翻訳で作ることができる時代になった。そしてこの動きはますます進化・深化していくのだろう。私たちはより冷静に物事の判断ができるチャンネルを増やしておかなければ……。箱根の駄菓子店のヘイト張り紙から、そんなことを考えました。

追記

ところで上掲の「朝日新聞」中国語版の記事、見出しが「箱根粗点心店以新型肺炎为由张贴“中国人禁止入店” 遭批判」となっていて、この“粗点心店”という翻訳に台湾の友人が疑問符をつけていました。確かに“粗点心店”というのは私も初耳です。「駄菓子店・駄菓子屋」を訳したみたいですが、朝日新聞はどこから引っ張ってきたのかな。普通は“小零食店”とでもするでしょうか。台湾の方なら、最近ヒットしたドラマ“用九柑仔店”の“柑仔店”と訳すかもしれません。“柑仔店”は、まさしく私が子供の頃入り浸ったあの懐かしい駄菓子屋さん(+日用雑貨店)そのものの風情です。

shows.cts.com.tw

“粗点心店”というのをゲームで知ったという香港人留学生がいたので調べてみたら、確かに「シェンムー3(shenmue3)」というゲームの中で使われているようです。なるほど、朝日新聞はここから引っ張ってきたのかな。“粗点心店”があるなら、どこかに“細点心店”もあるのかしら……冗談です。

h1g.jp

貧むす

深谷かほる氏のマンガ『夜廻り猫』に出てくるたべものには、無性に作りたくなる(それも夜遅くに)ものがいくつもあります。そのうちのひとつ「貧むす」。海老天じゃなくて、天かすが入ったおむすびなので「天むす」ならぬ「貧むす」なんですけど、三つ葉のみじん切りを入れるのが絶妙のバランスで「たいへん。いくつでも食べられる」(細君談)。

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最近「悪魔のおにぎり」というのが流行ってますけど、これは貧むすにヒントを得て作られたのかしら。もうひとつ、主人公の遠藤平蔵と夜廻りを分担しているワカルが作る、ツナマヨのおにぎり。青じそでくるむ、というより下に敷いているだけですが、これもおいしいです。ちょっと食べにくいですが。

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このおにぎりは名前がついていなかったのですが、検索してみたら作者ご自身がこんなツイートをされていました。

「貧むす」と「わかっぺ・ツナ」はいずれも第2巻に出てきます。

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夜廻り猫(2) (ワイドKC)

私、『夜廻り猫』に出てくるキャラクターの中では、このワカルが一番好きです。人の悩みを聞きに勝手に上がりこんで、「そおですよね〜」「わかります〜」と常に肯定して励まし、勝手にご飯を炊き始めるワカル。辛いことがあっても、ご飯を炊いて発泡酒を「プシュ」っと開けたら、なんだか明日も頑張れるような気がするじゃないですか。ああ、こういう存在になれたらいいなあといつも思います。自分自身も、人に対しても。

中国のプラ規制に背中を押されて

昨日の朝、テレビを見ていたら「中国政府が使い捨てプラスチックの規制を強化」というニュースに接しました。

www.newsweekjapan.jp

つい最近まで、資源ごみとしての使用済みプラスチックを各国から輸入していた中国ですけど、それをほぼ停止し、さらには自国内での使用も制限へ……さすが、やると決めたら、かの国は行動が速いです。その実効性まだ分かりませんが、例えばレジ袋の有料化や缶・瓶のデポジット化など、その対策が何十年も前から叫ばれながらほとんど改善できてこなかった日本とは大違い。私たちは深く恥じねばなりません。

私が中国に留学していた時代の流行語に“白色汚染”というのがあって、これは当時爆発的に使用が広がり始めていた白いビニール袋や使い捨て弁当箱などが無秩序に捨てられている問題を表現したものでした。当時天津から北京までの普通列車に乗っていたら、車窓から見える広大な農地に点々と白いビニールやプラスチックが見えて、心が傷んだことを思い出します。

中国の取り組みはまだその緒についたばかりですけど、やるとなったら速い上に、まだけっこう自由市場的な食材の売り買いも残っているお国柄ですから、大きな変化が起こる方向へ進んでいくかもしれません。というか、ぜひ進んでほしいです。台湾も、タピオカミルクティのストローを紙製にするなど、いろいろな変化が起き始めているそうですし、私たちも見習わなければ。

先日YouTubeで教材のネタを探していたら、「一週間使い捨てプラスチックを使わないで暮らしてみた」的な動画を見つけました。


90后挑战一周不用一次性塑料,不用真的有那么难吗?| 二更

とても興味深い内容ですが、「使い捨てプラスチックを避けていたら健康になっちゃう」というのに笑いました。つい頼んじゃう食べ物や飲み物の出前(ウーバーイーツみたいなサービスが日本とは比べ物にならないくらい発達しているのです)、それに自動販売機などのお菓子に手が出ることが減るからだそうです。なるほど。

私もこれまで使っていたマイバッグやマイ箸などに加えて、最近流行りのスープジャーを買ったので、ランチはしばらく下の本を参考にスープジャー持参で行ってみようと思っています。お弁当は買うたびに大量のゴミが出て、その心苦しさにちょっと耐えられなくなってきたところでしたので。まずはひとりひとりが、できるところから、ですよね。

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朝10分でできる スープ弁当

フィンランド語 54 …所有接尾辞

一年半以上かけて学んできた教科書も最後の課までたどりつき、教科書を離れて新しい内容を学びました。「所有接尾辞」です。

これは例えば「minun nimi(私の名前)」のように、名詞に人称代名詞の属格がつく場合に、その名詞にも所有を表す接尾辞がつくというものだそうです(人称代名詞がつかなくても所有接尾辞は使えるそうですが、それはまたいずれ)。「私の」という所有を表す接尾辞は「ni」で、「nimeni」だけで「私の名前」という意味になります。しかもそれに人称代名詞の属格がついてもつかなくてもよいらしく、つまり……

minun nimi
nimeni
minun nimeni

……の三つがいずれも「私の名前」という同じ意味になるわけですね。そして三番目の言い方、つまり「私の、名前私の」みたいになっちゃってるこれが基本なんだそうです。しかもこの所有接尾辞は文脈に応じて全ての格にくっつけることができるそうで、例えば……

Pöydälläni on kirjasi.
私の机の上にあなたの本がある。

……などということができちゃうと。一つの名詞に、物の名前と状態と所有の意味が込められているわけですね(「si」は「あなたの」を表す所有接尾辞)。便利だけれど、なんだかとても複雑になってきました。そういえば以前会話練習したときに「mielelläni(私は喜んで)」とか「itsellesi(あなた自身は)」というような言い方が出てきましたけど、これらも所有接尾辞だったんですね。

所有接尾辞の基本は、人称ごとに違うこの六つです。

私の ni 私たちの mme
あなたの si あなたたちの nne
彼・彼女の nsA 彼ら・彼女らの nsA

ただ、格によっていくつか違いがあるので、授業ではそれを学びました。

●単数主格・複数主格・単数属格・単数対格・複数対格
辞書形から活用語幹を求めて所有接尾辞をつけます。

単数主格:Minun ystävä on suomalainen.→ Minun ystäväni on suomalainen.
複数主格:Minun ystävät ovat suomalaisia.→ Minun ystäväni on suomalaisia.
単数属格:Minun ystävän nimi on Pekka.→ Minun ystäväni nimi on Pekka.
単数対格:Minä tapaan minun suomalaisen ystävän.→ Minä tapaan minun suomalaisen ystäväni.
複数対格:Minä tapaan minun suomalaiset ystävät.→ Minä tapaan minun suomalaiset ystäväni.

所有接尾辞をつけると、格は違うのに全部同じ「ystäväni」という形になっちゃうんですね(それでも文の前後でなんの格かはわかります)。またこの場合、kpt変化はしません(逆転はします)。

Minä löysin sinun lompakon kadulta.→ Minä löysin sinun lompakkosi kadulta.
私はあなたの財布を通りで見つけました。

●単数入格・複数入格・複数属格
「n」を取ってから所有接尾辞をつけます。例えば「私の(ni)」なら…

単数入格:taloon → talooni
複数入格:taloihin → taloihini
複数属格:talojen → talojeni

Minä menen elokuviin suomalaisten ystävien kanssa.
→ Minä menen elokuviin minun suomalaisten ystävieni kanssa.
私は私のフィンランド人の友人たちと一緒に映画に行きます。

●単数変格・複数変格
「i」を「e」にしてから以下の所有接尾辞をつけます。

私の ni 私たちの mme
あなたの si あなたたちの nne
彼・彼女の en 彼ら・彼女らの en

単数変格:taloksi → talokseni
複数変格:taloiksi → taloikseni

●単数分格
そのままつけますが、三人称だけは「①長母音で終わっているときは nsA、②それ以外は An」をつけます。

私の ni 私たちの mme
あなたの si あなたたちの nne
彼・彼女の nsA・② An 彼ら・彼女らの nsA・② An

kissaa → kissaansa
taloa → taloaan
kirjettä → kirjettään

●その他
そのままつけますが、三人称だけは母音を伸ばして「n」です。

私の ni 私たちの mme
あなたの si あなたたちの nne
彼・彼女の An・en 彼ら・彼女らの An・en

Minä tykkään kissasta.
→ Minä tykkään minun kissastani.
私は私の猫が好きです。

ただし、文の主語と所有者が同一人物のときは、所有接尾辞のみが使われる、というのがポイントだそう。

Hän tykkää kissasta.
彼は猫が好きです。
Hän tykkää hänen kissastaan.
彼は彼女の猫が好きです。
Hän tykkää kissastaan.
彼は彼の猫が好きです。

三番目の文は「hän(彼)」と「kissastaan(彼の猫)」で「彼」が同一人物なので、「hänen(彼の)」という属格の人称代名詞は入れちゃいけないんですね。う〜ん、複雑です。所有接尾辞は今後もおいおい学んでいくとして、授業ではいくつか作文をしました。

Mikä sinun osoite on?→ Mikä sinun osoitteesi on?
あなたの住所はなんですか?
Minun osoitteeni on 〜.
私の住所は〜です。
Hän on huoneessa.→ Hän on huoneessaan.
彼女は彼女の部屋にいます。
Minun pöydällä ei ole sanakirjaa.
私の机の上に辞書はありません。
Minun pöydälläni ei ole sinun sanakirjaasi.
私の机の上にあなたの辞書はありません。

フィンランド語はこうやって後ろにどんどん要素がくっついていく言語ですが、こうしたくっつき方には順序があるそうです。例えば「私の部屋の中にだって」という場合は……

huoneessanikin
huonee(語幹)+ ssa(格語尾)+ ni(所有接尾辞)+ kin(強調の接尾辞)

……というように、①格語尾、②所有接尾辞、③強調の接尾辞という順番になると。それにしても「私の部屋の中にだって」をたった一つの単語で表せてしまうというのは、すごいですね。

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Montako huonetta sinun asunnossasi on?