インタプリタかなくぎ流

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先生と呼ばないで

若い頃、松下竜一氏の著作を片っ端から読んでいた時期がありました。アルバイトをしていた八百屋さんのオヤジさんが松下氏の熱烈なファンで、大分県中津市の松下氏宅まで訪ねていっちゃうくらいの方だったのですが、私もその影響を受けて『豆腐屋の四季』をはじめ、『ルイズ 父に貰いし名は』『砦に拠る』『狼煙を見よ』などを読み漁っていたのでした。

中津の町で家業の豆腐屋さんを継いだ松下氏は、豊前火力発電所の建設反対運動をきっかけに社会運動・市民運動に関わるようになり、その後反公害・反開発・反原発などの運動の旗手として注目されるようになります。一方で作家・歌人としても活躍していた松下氏は、周囲から「先生」と呼ばれるのに違和感を覚えてそれを逆手に取り、エッセイなどでは自らを「センセ」と称するようになります。「先生」じゃなくて「センセ」という「ちゃっちゃい感」がどこか自虐的で、権威を嗤っているスタンスがあって、私は大いに共感したものでした。

当時は、後年まさか自分が人さまに何かを教える立場に就くなどとは夢にも思っていなかったのですが、最初に教室で「先生」と呼ばれた時に、その大いなる違和感とともに松下氏のエッセイを思い出したのでした。以来「先生と呼ばれるほどの〇〇でなし」という警句とともに、この「センセ」的などこか自分で自分を突き放すような、あるいは常に自分を戒めているような気持ちを大切にしてきました。

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https://www.irasutoya.com/2013/08/blog-post_4906.html

あれから断続的ながら、もう20年以上も「センセ」を続けてきたのですが、いまだに「先生」と呼ばれることに慣れません。いや、慣れないというのはちょっとカッコつけすぎで、実際には慣れちゃっているのですが、ときおり「先生」という呼称とともにまるで腫れ物にでも触るがごとき丁寧すぎる対応を受けることがあって、そういうときは本当に困惑してしまいます。というか、ハッキリ言って不愉快な気分になります。

下にも置かないもてなしを受けて何が不満かと思われるでしょうか。しかし、あまりにも相手が謙遜しまくってビクビクしていたり、こちらが何かひとこと言っただけで「ええ、ええ、ええ、それはもう!」とか「いえ、いえ、いえ、とんでもございません!」とか「もう本当にありがとうございます〜」みたいな対応を受けたり、ちょっと入り口で鉢合わせになっただけで「あああ、先生、もう、本当に失礼いたしました!」などと平謝りされたりすると、逆にムッとしません? 丁寧ではあるんだけど、何だかまともに向き合ってくれていないような気がするんですよね。あるいは「ほんとにこっちの話を聞いてくれているのかしら」と思っちゃう。

中国語に“過於謙虛等於驕傲(過ぎたる謙虚は驕りに同じ)”ということわざがあるんですけど、本当にそうだなあと思います。もっとも、周りの方がそうやって「過ぎたる謙虚」な態度に出るのは、そうさせるような威圧感みたいなものが私に備わっているからなのかもしれません。いかんいかん。なるべく「先生」と呼ばれないような自分になりたいです。そして同僚にもなるべく「先生」ではなく「さん付け」で呼ぶようにしたい。それでも先生と呼ばれちゃうことは避けられないでしょうけど、だからこそなおのこと松下氏流の「センセ」的な自虐を大切にしていきたいと思います。