インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

通訳の訓練「だけ」していれば通訳が上手になるか

今年も残すところあと数週間。年が明けても学校の授業はほぼ1月中旬から始まり、程なく卒業のシーズンを迎えるので、実質的な授業日数はもうそんなに残っていません。2年前の春に入学してきた留学生のみなさんも、就職先や進学先が徐々に決まり始め、より一層学業に身が入る……かと思いきや、必ずしもそうでないのが人の世の常。

もちろん変わらず勉強や訓練を頑張っている方もいますが、その一方でここに来て学習意欲が明らかに減退してしまう方も結構な割合で出てきます。もう進路が決まっちゃったから学校の授業はテキトーでいいや、ということなのかもしれません。逆に進路がぜんぜん決まらないのでこれ以上日本にいることはあきらめて、国に帰ろうと思い始めているのかもしれません。あるいは日本での生活に慣れきってしまって、いわゆる「中だるみ」状態になっているのかも。

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https://www.irasutoya.com/2018/09/blog-post.html

もうひとつ、これは毎年数名から必ず聞かされる「苦情」なのですが、「通訳や翻訳の訓練をもっとやりたいのに、その時間が少なすぎる」というのがあります。それが不満で、だんだん学校に来なくなっちゃう。「私は(通訳や翻訳の訓練以外の)こんなくだらないことをするために入学したんじゃない」というわけです。

確かに、うちの学校は通訳や翻訳の訓練のほかに、ビジネス日本語やプレゼンテーション、歴史や地理や時事問題、さらには法令の基礎知識みたいな「教養系」の授業もたくさんあります。通訳や翻訳の訓練だけやりたいという方にとっては、そういう授業が無駄に思えるんですね。とは言っても、こうしたカリキュラムは入学案内にも載っていて、入試の面接でも説明し、それを理解した上で入学してきているのですから、何をいまさら、という感じではあるのですが。

しかし私はこの「通訳や翻訳が上達するためには、通訳や翻訳の訓練だけやればいい」という考え方に、興味をそそられます。確かに「量は力なり」で、訓練を積めば積むほど技術が上達するはずだという考えは私も否定しません。やらないよりはやったほうがいいし、それもたくさんやったほうがいいに決まっています。でも通訳や翻訳の「訳出(やくしゅつ)」だけ訓練していて、本当に上達するのでしょうか。あるいは、訳出だけを行う(他は一切行わない)などという通訳や翻訳の訓練があり得るのでしょうか。

何をバカなことを、と思われるでしょうか。民間の通訳学校だって、授業時間のほとんどは訳出の訓練を行っています。訳出の数をこなすことなくして何の通訳翻訳訓練ぞ、と言われるかもしれません。しかし私はこれ、どこか短絡的な思考のように思えるのです。

現場で通訳や翻訳をなさっている方、あるいは通訳や翻訳の教育に携わったことがある方なら、たぶん同意してくださるのではないかと思うのですが、通訳や翻訳という作業に必要なのは、おそらく通訳や翻訳そのものの技術や語学力だけではありません。もちろんそれらは充分に備わっている必要がありますが、それ以外に広く浅い(広く深ければより良いですが、それはなかなか難しいので)雑学知識や世間知のようなもの、社会の中で様々な人と出会いコミュニケーションしてきた人生経験、文学や芸術や科学などの知識や教養……そういったものが訳出を大いに後押しし、豊かで分厚いものにしてくれる。私はここを軽視すべきではないと思っています。

だからこそ大学などにはリベラルアーツのカリキュラムが設定されているのであり(最近はけっこう疎んじられているとも聞きますが)、うちの学校でも訳出以外の様々な科目を設けて、社会に出た時に少しでも役立つようにとカリキュラムを組んでいるのです。

これは通訳や翻訳に限らず、語学(母語以外の外語を学ぶこと)に話を広げても同じような気がします。現在の日本は幼少時からの「早期英語教育」に傾倒しつつあり、一部には「役に立たなさそう」な文学や哲学なんかよりプログラミングや情報処理能力を高める「論理国語」など実用的な科目を強化すべきだという意見もあるようですが、語学の深い学びを下支えするのは実は豊かな母語であり、その豊かな母語によって醸成される教養なのではないかと私は思います。