インタプリタかなくぎ流

“Might come in handy one day.”

語学は確かに役には立つけれど

現在、複数の仕事を掛け持ちしていますが、メインで働いている職場は東京都心のターミナル駅から歩いて10分ほどのところにあります。その道の途中にとあるオフィスビルがあって、その前を通るときはいつもビルの8階か9階あたりを見上げてしまいます。以前はそこに某語学学校の看板がありましたが、今は見あたりません。大手の語学学校チェーンではなく、マンツーマン指導を売りにした新進気鋭のベンチャー系(?)語学学校だったのですが、おそらく業界から撤退してしまったのだと思われます。

もうそこにあの学校はないと分かっているのに、つい見上げてしまうのは、かつて就職のための面接に行ったことがあるからです。7年ほど前に突然前の職場を辞めることになり、フリーランス(とはいえ実態はほぼ無職)の仕事と、認知症の兆しが見えていた義父と同居しての家事を両立させながら、ハローワークに通っていた頃でした。その学校は、ハローワークの職員が紹介してくれた数少ない求人情報のひとつだったのです。

ハローワークの紹介状と、履歴書や職務経歴書を持ってその学校を訪れると、マンツーマン指導用に細かく仕切られた小さな部屋の奥に創業者と思しき40絡みの男性がいて、面接を受けました。この方は、詳細は忘れましたが確かアメリカに留学されて英語とビジネスを学び、その経験をもとにこの学校を起業したとのことで、ベンチャー企業の創業者らしくカジュアルかつラフな格好で、日によく焼けており、とても明るく大きな声で、アグレッシブな印象の方でした。

この学校が求人を出していたのは、多分今後英語だけでなく中国語のマンツーマン指導にも進出しようとしていたからだと思いますが、面接の最初から私は「これは多分芽がないだろうな」という印象を受けていました。私がハローワークで希望していたのは、きちんと家計を支えるだけの収入が得られる固定の業務で、例えば学校の運営とかカリキュラムの管理とか、あるいは教材や教案の開発などを担当できる部門だったのですが、こちらの学校が求めていたのは、できるだけ低い時給で働いてくれる、マンツーマンの非常勤講師要員だったからです。

それでも創業者の男性は、すぐに追い返すのも申し訳ないと思ったのか、しばらく私との雑談につきあってくれました。その中で言われたことは今でもとてもよく覚えています。いわく「ずっと中国語の業界で、教師や通訳者や翻訳者をされてきたんですね。その年令(私のような40代、50代)まで単一のスキルでしかキャリアを積み重ねてこなかったとしたら、他に『つぶし』が効かなくてキツいですよね」。

えらくまた率直な物言いだと思いましたが、その通りかもしれないなとも思いました。語学って、特に英語や中国語などは、話せるようになりさえすればなんだかグローバルでワンダホーな未来が待っているような「信仰」がこの国にははびこっていますけど、実際には語学「だけ」ができてもあまり使える場所はないんです。その語学を使って何ができるかが大切なわけで、その「何」かができるためには、語学以外の知識や教養やスキルが大きくものを言うんですよね。

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https://www.irasutoya.com/2018/06/blog-post_45.html

私にしたって、今の職場に呼んでもらえたのは、語学の力というよりも(だって中国語だけに着目したら、ネイティブスピーカーのほうが数千倍上手だもの)カリキュラムの設計や教材の開発、様々な部署との連携みたいなところでこれまでの職務経歴が活かせたからです。このブログでもたびたび引用させていただいている松田青子氏の小説『英子の森』には、こんなくだりがあります。

グローバルって本当にあるんですかね? もし本当にグローバル化する社会なんだったら、どうして英語を使う仕事が日本にはこんなに少ないんですか? なんでわたしみたいに、どうにもならない状況の人がふきだまりみたいにいっぱいいるんですか? 英語学校も留学を斡旋する旅行会社もいい部分だけ見せて、後は責任取りませんって感じで、勝手すぎますよ。グローバルなんて都市伝説と一緒。信じた方がバカみたいっていうか。


英子の森 (河出文庫)

ここに言う「英語を使う仕事」は、要するに英語というスキルが純粋に活かせる仕事という意味ですけど(そして多くの語学学習者が、語学のスキルを純粋に活かせると思って学んでいるんですけど)、そんな仕事はないんですよね。ないと言い切って悪ければ、本当に本当に少ない。『英子の森』にはこんな描写もあります。

ネットの求人サイトを開いた。「職種」をクリックし、出てきた選択肢から「専門職/その他すべて」をクリックし、「美容師」「エステ・ネイル」「技術者」などの様々な専門職の中から、「通訳、翻訳」をクリックした。「専門職/その他すべて」3326件の中で、「通訳、翻訳」はたった8件だった。(中略)これ以外で、英語を使える仕事となると、今度は「教育」をクリックするしかない。

ハローワークに通っていた頃、英語ですらこういう感じのありさまですから(ハローワークにも同じような検索端末があるのです)、中国語はもっと悲惨な状況でした。就業相談のカウンターで対応してくださったハローワークの職員さんの顔には、例外なく「あなたの年齡や条件に合う仕事はないです」と書いてありましたもの。

語学は楽しいし、役に立つ。それはもちろんそうなんですけど、そして私は、我々はもっと真剣に語学を学ぶべきだとも思っているんですけども、でもそれだけじゃ人生なかなか辛いです。渡る世間は鬼ばかり。あらためて幼少時から英語教育に狂奔するこの国のありように疑問を覚えています。