インタプリタかなくぎ流

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「能楽研修生ゼロ」の衝撃

先日、能楽はきわめて「現場性」を重んじる芸術形式なのではないか、だからその制約もあって観客動員が難しく、ひいては「ファン」の獲得も容易ではない……といった話を書いたのですが、昨日の東京新聞にはこんな記事が載っていました。国立能楽堂が行っている能楽師養成のための研修生制度の応募者がゼロだというショッキングな内容です。

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能楽師の伝統は古来から能楽師の家に生まれた方が「一子相伝」で受け継いできたもの(実子とは限らないにせよ)というイメージが強いと思います。実際、各能楽師の家では、子供がまだ幼いうちから稽古になじませ、子方などを演じる中で徐々に育てていくといったことが行われているそうです。でも現代では、それ以外にこうして成人してから能楽師を目指す方のための研修生制度もあるんですね。またこの制度以外のルートでプロの能楽師の道へ進む方も若干はいらっしゃるようです。

それにしても応募者がゼロとは驚きました。しかも記事によればその背景にあるのはやはり「食べていけるかどうか」という問題だそうです。まあこれは現代演劇の俳優さんだって、音楽を志すバンドの方々だって、スポーツ選手だって、さらには私たちのような語学で食べている者だって同種のジレンマがありますから、何も伝統芸能の世界に限った話ではないのですが、そもそも志してくれる若い方がいないというのは……私があと30歳若ければ応募していたんだけどなどと、とりとめのないことを考えました。

記事には「現在の学校教育では自国の伝統文化に慣れ親しむ機会が少ないようだ」という声も紹介されていました。確かに、国立劇場国立能楽堂などでは学生さんのための伝統芸能教室を毎年開催しています(うちの学校の留学生も毎年参加しています)が、これだって東京だからまだそういう機会があるんであって、全国規模で見ればそんな機会は寥々たるものでしょう。

「海外の国立劇場では、役者や音楽家などを抱えて生活を保証しているのが一般的」という指摘も記事にありましたが、本邦は「能狂言を観るような人間は変質者」と公言し文楽を「つまらない。二度と見に行かない」と評した某市長が、地元発祥の伝統芸能である文楽への補助金を見直すといったような顛末も記憶に新しいお国柄です。

明治維新の折に、武家の扶持を失って存亡の危機に立たされていた能楽を救ったのは、「外国の芸術保護政策の影響を受けて、国家の伝統芸術の必要性を痛感した政府や皇室、華族、新興財閥の後援など」(能楽協会のウェブサイトより)だったそうです。ここには若干国粋主義的な香りも漂っていますが、その一方で明治以前から、ときに鑑賞者として、ときに稽古者として能楽に慣れ親しんできた広範な人々の教養が社会的な素地として存在していたことも大きかったのではないかと思います。

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古典芸能のような「無形文化財」は、人が失われてしまったらそこで伝統が途絶えてしまいます。演じる側の人はもちろんですが、受け手の側の人だって欠くことはできません。昨今はやたら「日本スゴイ」が流行っており、「和ブーム」など伝統回帰の動きもないわけじゃないのに、それがごくごく表層的なものにとどまっていて、こうした伝統芸能のありようとちっともリンクしていないように感じます。本当に難しい課題だと思いますが、とりあえず私にできるのは……せっせと能楽を観に行くことぐらいなんでしょうか。