インタプリタかなくぎ流

“Might come in handy one day.”

能「邯鄲」の謡に見るカタストロフ性

先日は目黒の喜多能楽堂で、塩津圭介師がシテを勤めた能『邯鄲』を観てきました。中国の伝奇小説『枕中記』が元になっていると伝えられるこの「邯鄲の夢」のお話、何度観ても面白いです。当日配られたパンフレットの解説を村上湛氏が書いておられますが、そこには「ワキと間狂言による二度の扇の音によって夢と現実を区切る絶妙の工夫でこれを巧みに舞台化した〈邯鄲〉は見て面白く、思うに奥深い最高の名曲といえる」とありました。

本当に、この『邯鄲』は扇の音の他にも、畳一枚分ほどの台の上で「楽(がく)」の舞を舞うことで夢を見る脳内の極小世界を表現したところ(と勝手に思っています)とか、その「夢に亀裂を入れるかのよう(村上湛氏)」に足を踏み外す「空下り」の型など面白い場面が多いです。

さらに、主人公・盧生が夢から覚めたあとの呆然とした様子から、このあとの人生に対してどこか以前より確りとしたように感じられる出立(しゅったつ)の幕切れは、一種のカタルシスを感じさせます。能『邯鄲』は、折に触れて見返したくなる「人生の友」ともいうべき、汲めども尽きぬ魅力を持った作品なのです。

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ところで現在、秋の温習会に向けて仕舞や謡のお稽古を続けているところですが、私は連吟で『邯鄲』のシテ謡を仰せつかりました(と書いていても緊張してきます)。連吟で謡うのは、楽が終わったあとから夢が覚めるその瞬間までの部分ですが、この謡がまた非常に面白いです。夢が覚める瞬間に向かって謡の速度がどんどん速くなっていく作りになっているのですが……

かくて時過ぎ/頃去れば
五十年の栄華も尽きて/真(まこと)は夢の中なれば
女御更衣/百官卿相千戸万戸
従類眷属宮殿楼閣皆消え消えと失せ果てて
ありつる邯鄲の枕の上に/睡(ねむり)の夢は覚めにけり

この「従類眷属宮殿楼閣(じうるいけんぞく、くでんろうかく)」のあたりからギアが切り替わるように謡の速度が増していき、実際の能舞台では盧生の前に控えていた舞人やら大臣やらが次々に舞台右奥の「切戸口(きりとぐち)」へ吸い込まれるように消えていきます。通常の能で登場人物が舞台から去る場合はおおむね左側の「橋掛り(はしがかり)」を通って「揚幕(あげまく)」から消えていくのですが、この「邯鄲」では普通地謡や後見などいわば「裏方」的に能を支えている人々が出入りする切戸口から消えていく。この一種の「異様さ」がまた夢からの覚醒に独特のテイストをもたらしているように思えます。

そして、そうした異様な光景を目の前にしながら、ぐんぐん速度を増していく謡を聞いていると、それまで目の前にあった豪華で綺羅びやかな世界がガラガラガラガラ……と崩れていくようなカタストロフを感じるのです。まるでマンガ『AKIRA』に出てくる、崩壊していくビル群を描いた大迫力の見開きのような場面です。

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カタストロフは大災害でもあるのですが、マンガや映画やお芝居に出てくるそれは、一種のカタルシス、それもなにか物事のチャネルやステージが切り替わったような、まるで新しく生まれ変わっていくような爽快感をもたらしてくれます。それもまた能『邯鄲』の大きな魅力ではないかと思うのでした。