インタプリタかなくぎ流

“Might come in handy one day.”

語学における「威張り系」や「昔取った杵柄系」について

昨日は都内のとある通訳学校で、一日限りの短期講座を担当してきました。私みたいに細々と通訳業務や通訳教育を続けているだけの人間が講師というのも申し訳ないのですが、幸いにも毎回満席で、こちらも身が引き締まる思いです。一日限りなので、ふだんこの学校に在籍されている方の他に、外部からも多くの生徒さんが参加されます。しかも今回は日本語だけを使った訓練だったので、中国語だけでなく英語など他の言語で通訳や翻訳を学んでいる生徒さんも多くいらっしゃいました。

その中におひとり、年配の男性が参加されていました。この方は最初から大幅に遅刻して来られた上に、よく大声で質問なさる。もちろん質問は大歓迎なのですが、その質問がやや的外れなのと、ご自身の語学力アピールに偏っているのが少々気になりました。例えば、今回はノートテイキング(通訳のメモ取り)についての講座だったのですが、「同時通訳ではメモ取らないよな*1」とおっしゃる一方で「今日は同時通訳に関する授業かと思った」と発言がやや矛盾しているのです。つまりノートテイキングは主に逐次通訳の技術であるとご自身も理解されているのに、同時通訳についての講座だと思っていた……とは?

それはさておき、この年配の男性は授業中、間欠泉的に「同時通訳を長年やってきた」とか「私は中国語が話せる」とか「スペイン語はネイティブ並み」のようなことをおっしゃる。ちょっと困った方だなあと思いましたが、実はこういう感じの方は語学学校や通訳学校には「よく」でもないけど「ときおり」いらっしゃいます。何というのかな、語学に、ご自分のアイデンティティを過剰に仮託されている方、とでもいいましょうか。平たくいえば、自分は語学が堪能であるということを常にアピールされている方です。

それで、質問にお答えする形で誤解や極端な思い込みの部分はやんわりと訂正して差し上げていたのですが、二人一組でサマライズ(要約)の訓練を行う段になってこの男性、大声で怒鳴りだしてしまいました。

サマライズでは、というか通訳訓練では、基本的に元の発言を可能な限り尊重して、元の発言にないことは足さないというのが原則なのですが、この男性はご自身の考えや思い込みを語ろうとされるのです。それで私がその点を指摘すると「いやそんなことはない」「それは通訳ではありません」……というようなやり取りを経て「黙って俺の言うことを聞け!」のように激昂されたのです。あ、私が激昂したんじゃないですよ。コワモテなのでよく誤解されるんですけど。

私は授業を中断して、教務(事務方)のスタッフを呼び、この男性に退去していただきました。生徒さんはお客様でもあるけれど、他の生徒さんの訓練を邪魔する権利はありませんから。授業後に教務のスタッフから聞いた話では、くだんの男性は控室で打って変わってしょんぼりしていて「よく他の場所でもこうやって怒鳴って、そのたびに『出入り禁止』になっている」とおっしゃっていたそうです。う〜ん、ちょっと悲哀を感じてしまいました。

数年前に亡くなった義父と同居していた頃、介護の現場などでも感じたことですが、こうした中高年(とりわけ男性)の、周囲との不適合というか、「威張る」ことでしか自己を保持できないタイプの方は存外多いように思います。また過去の成功体験から抜け出せず、新たな学びを素直に自分のものとすることができない「昔取った杵柄系」の方も。いやこれ、自分が常に自戒としていることでもあるんですけど。

語学は、そういった「威張り系」や「昔取った杵柄系」を生み出しやすい領域のような気がします。ほぼモノリンガルで社会を回すことができ、だからこそ語学に対して人一倍憧れやコンプレックス、さらには逆に優越感や全能感を抱きやすい日本では特に。だから語学学校のような場所では、そういうタイプの方に「ときおり」遭遇することになるんじゃないかなと。

でも、当たり前のことですが、語学ができるからといってもそれ自体では何ということもありません。大切なのはその語学を使って何をするかなのですから。そしてまた、語学に堪能な方ほど、そして語学の面白さも奥深さもある意味での怖さも弁えてらっしゃる方ほど「○○語ができる」と言ったり、「ペラペラ」とか「ネイティブ並み」などという形容を使ったりはしないものです。

このブログでも何度も引用してきましたが、今回も自戒を込めて書き留めておきたいと思います。戦後間もない昭和二十三年二月に書かれた、中野好夫氏の『英語を学ぶ人々のために』の一節です。

語学が少しできると、なにかそれだけ他人より偉いと思うような錯覚がある。くだらない知的虚栄心である。(中略)よしんば私がイギリス人やアメリカ人なみにできたところで、それは私という人間にとってなんでもない。日本のためにも、世界のためにもなんでもない。要は私がその語学の力をどう使うかで決まってくる。
(中略)
外国語の学習は、なにも日本人全体を上手な通訳者にするためにあるのではない。それではなんだ。それは諸君の物を見る眼を弘め、物の考え方を日本という小さな部屋だけに閉じ込めないで、世界の立場からするようになる助けになるから重要なのだ。諸君が、上手な通訳になるのもよい。本国人と区別のつかないほどの英語の書き手になるのもよい。万巻の知識をためこむもよい。それぞれ実際上の利益はむろんである。しかし結局の目標は、世界的な物の見方、つまり世界人をつくることにあるのである。
(中略)
英語を話すのに上手なほどよい。書くのも上手なら上手ほどよい。読むのも確かなら確かなほどよい。だが、忘れてはならないのは、それらのもう一つ背後にあって、そうした才能を生かす一つの精神だ。だからどうかこれからの諸君は、英語を勉強して、流石に英語をやった人の考えは違う、視野が広くて、人間に芯があって、どこか頼もしいと、そのあるところ、あるところで、小さいながらも、日本の進む、世界の進む正しい道で、それぞれ生きた人になっているような人になってもらいたい。
(中略)
語学の勉強というものは、どうしたものかよくよく人間の胆を抜いてしまうようにできている妙な魔力があるらしい。よくよく警戒してもらいたい。


※原文は旧漢字。


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中野好夫氏。写真は光文社古典新訳文庫さんから。
http://www.kotensinyaku.jp/archives/2015/02/006472.html

我々にとって、特に日本の我々にとって、語学には「胆を抜いてしまうよう」な「妙な魔力」がある……今回もこの言葉をしみじみと噛み締めたのでした。あの激昂オジサンも、語学ではない別のところで自分の「胆」を回復できる何かを持てるといいですね。

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qianchong.hatenablog.com

*1:ちなみに、同時通訳でもメモをとることはあります。前後の文脈に左右されない独立した情報である数字や単位や固有名詞などは、パートナーの通訳者がメモしてサポートすることがよく行われています。