インタプリタかなくぎ流

“Might come in handy one day.”

スポーツと暴力

昨日の東京新聞朝刊に「eスポーツが五輪競技になる日」という記事が掲載されていました。eスポーツ、つまりコンピューターゲームを使った競技の大会が世界各地で行われるようになり、アジア大会では正式競技となることが決まったそうで、そうした現状をどう捉えるのかについて識者三人が語っています。

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www.tokyo-np.co.jp

私自身はコンピュータゲームを一切やらない人間なので逆に興味深く読みましたが、お三方のなかではスポーツ文化評論家・玉木正之氏の意見にとても共感しました。特にスポーツと暴力との関係です。

スポーツ社会学者のノルベルト・エリアスによれば、五輪競技などのスポーツの多くは古代ギリシャと近代英国から生まれています。それはどうしてか。共通するのは民主主義ですよ。要するに非暴力。暴力的な要素をゲームにして実際に傷つけ合ったりしなくていいようにしたのがスポーツなのです。eスポーツにはその暴力性をよみがえらせる恐れはないでしょうか。

確かに、個人がそれぞれ目的でそれぞれに楽しむスポーツは別にして、「競技」と呼ばれるスポーツはそれが「競う」ものである以上、勝敗や優劣がはっきりと示されます。その勝敗や優劣をもたらすものは本来「暴力」なんですよね。それをゲームという形に昇華させて「非暴力化」させたのが人類の知恵であったというわけです。

私は自分で体を動かすことは大好きで、今も「週五」でジムに通っているような人間ですが、幼い頃から体育の授業などで行われる競技が苦手で大嫌いでした。それはたぶん、この「競技≒暴力」という本質にどうしても馴染めなかったからだと思います。競技スポーツをされている方には申し訳ないけれど、どんなに崇高な理念で説明されても結局は一方が一方を「力でねじ伏せる」ことには違いない。私はそこに、かつて古代の「戦い」が本質的に有していた暴力の匂いを嗅ぎ取ってしまうのです。

もちろん、現代のスポーツが暴力による決着とは全く異なる理念で動いていることは分かります。それでも時折起こる反則や「乱闘」、さらには熱狂的でファナティックなファンによる「場外乱闘」などを見るにつけ、多くの心ある人々によって非暴力性が保たれているスポーツの、その裏の側面が垣間見える。私はそこにどうしても馴染めないのです。オリンピックや、今日本で開催されているラグビーのワールドカップにも、同様の「匂い」を感じます。

オリンピックや各種競技のワールドカップは、もちろん個々のアスリートや大会を支える人々の、暴力からは遠く離れたところにある「健全」な思想によって行われる営みなのでしょう。それを疑うものではありません(巨額のカネが動いているという側面はありますが、それはまた別の話です)。だがしかし、そこには常に国家間の勝敗や優劣が、あるいはランキングがつきまといます。勝敗や優劣やランキングがつかなかったらなんの競技か、面白くもなんともないじゃないかと言われそうですけど、それがこと国家間の競い合いになれば、やはり私などは「引いて」しまう。どんなにアスリート個人のスキルに注目し、国家間の争いを高邁な理想と言葉で糊塗しても、暴力の匂いが抑えきれていないと感じるのです。

一昨日など、ラグビーワールドカップの開幕ということで、たまたま夕飯の支度をしながらテレビをつけていたんですね。そしたら、初戦に臨む日本代表チームのこれまでの歩みや、選手の努力、さらには家族のサポートなどが次々に紹介され、見る者の感動を煽っていました。そして私は、自分でも驚いてしまったのですが、そんな煽りに乗せられて感情がたかぶって行く自分に気がつきました。知らず知らずのうちに「アツく」なっていたのです。

私が単純すぎるだけなのかもしれません。でもおよそ暴力というものは、つい「カッとなる」その感情のたかぶりが発端になるものです。その意味でも、個人競技はまだしも、やはり国家同士の争いを楽しむことはできないと思いました。スポーツは暴力を非暴力化したものであるという本質から逸脱しかかっているからです。