インタプリタかなくぎ流

“Might come in handy one day.”

自分の名前で出ています

先日「note」で、とても共感できる記事を読みました。ネットの功罪を冷静に分析した上で「うまく使おう」と指南されている記事です。特にこちらで述べられている「SNS断捨離」はとても大切だと思います。そしてTwitterでは私も「気軽にたくさんミュート」を実践し、さらには思い切ってフォロワー数を減らすことで自分の時間と思考を取り戻しました。デフォルトのままSNSを使うのは危なすぎると常々思っていたので、記事を読みながら何度も膝を打ちました。

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筆者の米光一成氏が提唱されている「16歳の病弱で繊細な妹を心の中に」という基準、その比喩の感覚は正直に申し上げてちょっとついて行けないのですが(ごめんなさい)、言わんとされていることはよく分かります。私はいつも「実社会で人に面と向かって言わないようなことはネットでも言わない」というのを自分の基準にしています。

ネットのSNSでは、誰もが自らを肥大化させがちです。ついつい自分の声が社会全体に届いているような謎の全能感、あるいはタイムラインの中に社会の実相があるような錯覚を抱いてしまう。実際には、SNSが自分の目の前に作り出している世界はこの世の中のほんの一部でしかなく、それもかなり歪んだ形で現出しているのだと常に自分に言い聞かせるべきです。

また人は誰しも自分のことが一番大切で、おおむね自分のことで精一杯で、良くも悪くもアンタのことを気にしている暇などない、アンタのことを好いてもいないし嫌ってもいない、という一種の諦念みたいなものも必要ではないかと思います。

だからこそなのですが、私はすべてのSNSにおいて「自分の名前で出ています」。以前は匿名で使っていたのですが、あるとき匿名だからこそ人は自らを肥大化させてしまうのだ、気が大きくなって謎の全能感というダークサイドに堕ちてしまうのだと気づきました。私のような気の小さい、自分に自信のない人間は特にです。それですべて実名を出し、プライベートを盛ったり脚色したりしないように心がけています。

まあきょうび、いくら本名やプライベートを隠しても、例えばGoogleさんあたりにはたぶん自分の家族よりも詳細に私という人間を知られてしまっているとは思いますけど。

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https://www.irasutoya.com/2018/04/blog-post_401.html

自分の名前で出ていることで、SNSでの発言が知人や友人を傷つけたり知人や友人の権利を損ねたりする可能性についても、より注意を払うようになります。例えば当今の香港における「反送中」についても私は重大な関心を持って事態の推移を見つめていましたが、SNSでは何も意思表示をしませんでした。うちの学校には大勢の華人留学生や教員がおり、出身は中国・台湾・香港・澳門などなどさまざまです。非当事者である私の発言でそうした人たちに何らかの迷惑がかかることだけは避けたいと思ったのです。私がどこの誰であるかはすぐに分かる形でSNSに参加しているのですから。

杞憂かもしれませんし、香港の現在は日本の未来にも関わるという人もいますが、とにかく現時点で私がすべきことは肥大した自己をSNSでひけらかすことではないと思いました。問題への関わり方にはさまざまな方法があります。ある意味でSNSはそうした関わり方への複雑で面倒な思考をすっ飛ばして、あたかも手っ取り早く最大の影響力を持てる手段であるかのように錯覚させる一面があるのかもしれません。

やはりSNSの断捨離は必要です。SNSへの関わり方への断捨離も。SNSの過剰な部分は捨て、自らの分をわきまえ、実社会へ戻って来るのです。あるいはSNSを限りなく実社会に近づけて行くべきと言えるかもしれません。