インタプリタかなくぎ流

“Might come in handy one day.”

誰にでも起こりうることとして

池上正樹氏の『大人のひきこもり』を読みました。川崎市登戸駅近くで起きた大量殺傷事件と、その直後に練馬区の元農水事務次官が息子を刺殺した事件。いずれも中高年の「ひきこもり」がクローズアップされましたが、自分もこれまでの来し方行く末を考えると他人事ではないなと思い、手に取ったのです。

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大人のひきこもり 本当は「外に出る理由」を探している人たち (講談社現代新書)

この本は五年ほど前に出版されたものですが、格差と貧困が広がり、非正規雇用(特に中高年の)の増加と固定化が問題となり、今また金融庁の審議会が「老後の30年間で2000万円が不足する」という「不都合な真実」を明らかにした報告書を発表したのち「なかったことにする」ドタバタなどに接していると、現在でもこの本で鳴らされている警鐘は有効だし、むしろさらに悲惨な形で露見しつつあるのではないかという思いが募ってきます。

この本では「ひきこもり」という状態が、例えば「働いたら負け」という言葉に代表される、働けるのに働こうとしない「ニート」などとはことなり、また「やる気の問題」や「甘え」や「自己責任」などで単純に括ってしまえるものでもない一種の深刻な病態、あるいは地域社会における個人や家族の内外に起因する複雑な問題であることを説明しています(ニートニートで現代の就労環境がもたらしている側面もあるので、じゃあ「甘え」や「自己責任」と括ってよいかといえば、決してそんなことはありませんが)。

詳しくは本書にあたっていただくとして、私がこの本を読んで強く感じたのは「自分だってこれに近い状態はあったし、これからもこういう状態に陥らない保証は全くない」という点でした。私はこれまでに何度も転職をしています。企業に勤めたこともありますし、NPO法人のような団体にもいたことがあります。派遣で仕事をしていたこともありますし、フリーランスになったことも、そして何度か無職の状態になったこともあります。

それでも若い頃は特に不安も感じず、仕事もそれなりに入り、仮に貯蓄がまったくなくても、生きて行くことそのものに困難を覚えることはさほどありませんでした。ところが四十代も終わり近くになって失職したときにはさすがに辛いものがありました。それまでにも何度か転職をしてきたので、今度もまたすぐに仕事は見つかるとなぜか楽観的に思い込んでいたものの、現実には既に極めて再就職が困難な年齢に差しかかっていたからです。今から思えばなぜあんなに楽観的、というか脳天気でいられたのか不思議で仕方がありませんが、要するに日本社会における中高年のありようについて、私はほとんど理解していなかったのです。

五十歳を前に失職して、ハローワークに通い始め、同時に支出を抑えるために細君の実家で認知症の気配が見え始めていた義父と同居を始めたのですが、今になって思えばあの時期は、昨今世間で言われるところの「中高年のひきこもり」と選ぶところがなかったように思います。そう、労働環境や企業のあり方がかつてないほどの大きな変化をしてしまっている(でも多くの人はそれを認めたがらない)現在にあって、何からの理由で働けなくなって一時的に実家に身を寄せ再起を図る、あるいはモラトリアム状態に身を置くなどということは、誰にでも起こりうるのではないでしょうか。

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https://www.irasutoya.com/2015/07/blog-post_274.html

現在問題になっている「中高年のひきこもり」は若い頃からの長期間にわたるものも多いようですが、そういったパターンだけではなく、今は普通に外へ出て働いているような人でも、何かのきっかけで、それも自分自身の理由だけではなく外部からの理由でも傍目には「ひきこもり」と同じような環境になってしまうことはあり得るのです。うちの細君も、突然くも膜下出血に襲われ、幸いにも通常の暮らしに戻ってくることはできましたが、安定した正式な仕事にはいまだに就くことができずにいます。上記の本に記されるような「ひきこもり」ではないけれども、社会と繋がりたいと思いつつも身体的、年齢的、社会における位置的にそれが十全に果たされない状態。こうした大病とその予後という観点からも、誰にでも起こりうることですし、「ひきこもり」は決して特殊な家庭や個人の特殊な問題ではないと思うのです。

この本の、裏表紙側のカバー袖には、第一章のこんな言葉が引かれています。

「ひきこもり」という状態に陥る多様な背景の本質をあえて一つ言い表すとすれば、「沈黙の言語」ということが言えるかもしれない。つまり、ひきこもる人が自らの真情を心に留めて言語化しないことによって、当事者の存在そのものが地域の中に埋もれていくのである。

この「沈黙の言語」という形容には深く頷けるものがあります。「中高年のひきこもり」と大差ないような状態に陥っていた私にとって救いだったのは、ブログやSNSなどにおける発信や非常勤講師として間欠泉的に出て行った学校などでの、自らの思考の言語化だったと思うからです。

その意味では、五年前よりはるかに豊富になっているネットでの発信という選択肢は、この問題に関する処方箋の一つになり得るかもしれないと思いますが、その一方でSNSの空間も最近はかなり荒れてきているようにも思えます(すでに私はTwitterなどから距離を置きつつあります)。また練馬の事件では、父親の手で殺害されてしまった息子がSNSでかなり頻繁に発信をしていたという報道にも接しました。

この本では「ひきこもり」に対するさまざまな支援の試みも多数紹介されています。私自身、この問題に対してどんなアプローチができるのか、それも自分が今身を置いている教育現場に関連して何ができるのかを考えている最中ですが、少なくともこれは特殊な人たちの特殊な問題ではなく、誰の身にも降りかかる問題なのだという視点だけは忘れないようにしたいと思ったのでした。そしてまた、今後さらに歳を取って働けなくなった、あるいは働きにくくなったときに自ら直面せざるを得ない問題ともリンクしているのではないか、そう思っているのです。