インタプリタかなくぎ流

“Might come in handy one day.”

ステージがひとつ上がった感覚

年に一度の温習会は無事に終わりました。私はなぜか「トリ」を勤めることになっていて舞囃子の「枕慈童」を舞ったのですが、それまでお弟子さんたちはみなさん立派に舞っておられて、私が最後に大失敗でもしてぶち壊したらどうしよう……とかなり緊張しました。

それに会の一番最初に連吟で「賀茂」を謡ってから、最後に舞囃子を舞うまで、まるまる一日気が抜けないという貴重な(?)体験もしました。本当にうちのお師匠は、さりげなくハードルをあげてくるのがお上手です。

それでも本番直前は、自分でも不思議なほど緊張が抜けていくのが分かりました。これはひとえに、その前に何度もお稽古をして「大丈夫、絶対に失敗しないはず」と思えるまでになっていたからかもしれません。稽古の量に勝る安心材料はないですね、ホントに。直前に学校の合宿などがあって申し合わせ(リハーサル)にも参加できなかったのですが、合宿の行き帰りのバスで謡をこっそり練習したりして(仕事中なのに)何とか間に合わせました。

それにお師匠が私の代わりに申し合わせで舞ってくださった「枕慈童」のビデオを送ってくださったのですが、直前に何度も見たこのビデオでかなり「開眼」したところがありました。それはそれぞれの型の寸法だったり、地謡の詞章と型とのタイミングだったり、緩急の具合だったりするのですが、これまでお稽古でも何度も指摘されてきたいくつかのことが、ふっとパズルのピースが嵌まるように腑に落ちたのです。

中国語に“大開眼界(dàkāi yǎnjiè)”という言葉があって、辞書的には「視野を広げる」とか「見識を広げる」という意味なのですが、私の語感ではもう少し深くて「大いに目を見開かせられる」とか「新たな気づきを得る」という感じがします。目の前に新しい風景が広がったような一種の爽快感なんですね。

お能の世界は奥が深すぎるくらい深くて、単なる趣味で月に二回程度お稽古しているだけの私に見えている風景はほんの小さなものですが、それでもこうやって何年も続けてくると、それなりに気づくことも増えてくるのだなと思いました。ゲームのステージがひとつ上がったような感じといえば分かって頂けるでしょうか(私はゲームなんてほとんどやらないけど)。

舞囃子「枕慈童」に出てくる舞は「樂(がく)」といって、中国物のお能によく登場する中国風(というか室町時代の人々が空想した中国の雰囲気)の舞なのですが、お囃子の太鼓が規則的なリズムを刻む中で最初はごくごくゆっくりと、それが徐々に徐々ににテンポを上げていく、個人的にはまるで滔々とした大河の流れを見ているような雰囲気を持っています。その名の通り「楽」しんで舞うことができました。お師匠とお囃子や地謡を勤めてくださった玄人の先生方、それに地謡に参加してくださったお稽古仲間のみなさんに心から感謝申し上げます。

ささやかながら役目を果たして、なんだかもう「オレの夏は終わった」という感じです。これからどんどん暑くなるんですけどね。

追記

仕舞や舞囃子では、お師匠がその曲に合った扇を貸してくださいます。昨日の舞囃子「枕慈童」では、この美しい菊水の扇をお借りしました。

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「枕慈童(菊慈童)」の主人公は慈童という不思議な少年です。古代中国で皇帝の枕をまたいだために山中へ流刑となりましたが、お経を書いた菊の葉に溜まった露が不老不死の霊水となり、その水を飲んで山中で七百年間も生きてきたというお話。長寿を寿ぐおめでたい曲で、重陽の節句とも関係しているそうですが、反面「死ぬに死ねない」わけですからどこかに憂いというか悲しみをも湛えた、なかなか味わい深い曲です。

この扇は「枕慈童」の詞章に出てくる菊水を意匠化したものらしいのですが、菊水と聞いて本番前にもかかわらず「日本酒の『菊水』って、ひょっとしてこれが由来じゃないの?」と初めて気づきました。うちに帰ってネットで調べてみたら果たしてその通りでした。

www.kikusui-sake.com