インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

「ひとさまの通訳を聞いて」のその後

先日、北海道日本ファイターズの台湾人選手・王柏融氏へのヒーローインタビューで、通訳者さんの訳がテキトーすぎるんじゃないか、ファンは怒った方がいいんじゃないかという記事を書きました。

qianchong.hatenablog.com

これについて、Twitterで野球やスポーツにお詳しい方数名から、そこまで批判するようなものでもないのではというご意見をいただきました。ヒーローインタビューはもともと試合後の熱狂の中で行われる一種のイベントで、そこまで厳密な訳出をファンも求めていないのではないかというご意見です。

なるほど、私はスポーツ全般にあまり詳しくないのでよく知らなかったのですが、そういうものなんですね。確かに、私もかつてプロのアイスホッケーチームに帯同して日本や中国の各地を「転戦」したことがあるのですが、インタビュー(ヒーローインタビューではなく囲み取材みたいなの)はかなりラフというか、くだけた雰囲気でした。

そしてまた、一般的にプロスポーツ選手の通訳者の「本務」は、練習や試合時に監督やコーチや選手などとのコミュニケーションを円滑に行う手助けをすることであって、そういった場面や、あるいは選手や監督がメディアの正式な取材に応じる時などにはもちろん精確な訳出が求められるだろうけれど、ヒーローインタビューはそれらいずれにも属さないいわば「おまけ」みたいなもので、それはファンも了解済みなのではないかと。

私自身はこれまで、聞き手はどうあれ最善を尽くすのが通訳者の義務であり矜持であり、また「楽しみ」でもあると思ってきました。また日本の運動選手の、語彙や表現の少なさにはいつも少々幻滅していますし、インタビュアーも「今日の試合、どうですか」みたいな丸投げ質問が多くてこれまたどうだかな……と思っているのですが、この感覚がまさに門外漢なんでしょうね。

王柏融選手の通訳をされている方も台湾出身の元選手だそうですから、そこまで求めるのは「お門違い」なのかもしれません。専門の訓練を受けた通訳者というよりは、同郷出身で、異国で活躍する王柏融選手を公私にわたってサポートするが「本務」でいらっしゃるのでしょうから。この辺りの感覚の違いは、まさに自分にはない感覚だったこともあって、とても新鮮に感じました。

ただ、王柏融選手の出身地である台湾の(そしておそらく日本語にも通じてらっしゃる)ファンの中には、私と同じように「この訳出でいいの?」と感じてらっしゃる方もいるようです。これはもう個人の価値観ですし、こう言っては何ですが別に外交交渉のような「鼎の軽重を問われる」場面でもないのでこれ以上ツッコミを入れるの無粋かもしれません。ただ、一人の日本人としては台湾のファンの皆さんに何となく申し訳ないような気持ちになりますけどね。

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ただこの話題、そも訳すとはどういうことか、通訳者の稼働する場面の多様性、言葉の発し手と受け手のあり方、通訳者のホスピタリティなど、様々なテーマを含んでいる意外に深い話題だな……と思いました。

私は中国語圏の芸能人の通訳をけっこうやってきましたが、例えばファンミなどで行き届かない訳出をして、SNSで叩かれたことが何度かあります。厳しいファンの皆さんの眼は怖いです……。でも一方で、とあるテレビの生放送番組で台湾アイドルの通訳をしたときは、事前にプロデューサーさんから「全部きっちり訳さなくていいので(生放送だから時間も押しているし)、かいつまんで訳して下さい」と言われて困惑したこともあります。この例からも、クライアントが求める訳出のあり方は様々だなと思うのです。

またアイスホッケーの通訳者をしていたときは、試合中に例えばペナルティなどで退場処分になる際など、審判も選手もお互い自分の母語で怒鳴り合っているだけで、誰も私の訳出など聞いちゃいませんでした。もとより「表情の格闘技」とも呼ばれるアイスホッケーのこと、試合中はみんなエキサイトしていて殺気立っていて、ハッキリ言って通訳者なんか要らないじゃん、と自分で思ってしまったくらいでした。

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https://www.irasutoya.com/2013/12/blog-post_3413.html

私はこれまで通訳学校で、主にビジネスの現場で通用するような正確で精確な訳出をすべしと訓練されてきたし、いま自らもそのように教えているわけですが、それとは全く違った場面での違ったニーズもあるのだなと自分の「通訳観」を見つめ直した次第です(もちろんハイエンドの通訳現場では、基本的に正確さ・精確さが「いの一番」に問われるでしょうけど)。

上述した野球選手の通訳者にしても、理想的には、練習や試合中にプロとして的確な指示をおこなう通訳者と、ヒーローインタビューのような一種祝祭的な場面での通訳者……のように場面に応じてそこにふさわしい通訳者がつくというのがいいんでしょうね。予算的には無理なのでしょうけど。