インタプリタかなくぎ流

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静寂とは

アーリング・カッゲ氏の『静寂とは』を読みました。社会に、とりわけネット繋がった社会の隅々に様々な情報があふれ、「常にノイズにさらされ、ストレスを抱える(帯の惹句より)」今にあって、静寂、静けさとは何かを思索した本です。

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静寂とは

カッゲ氏は世界で初めて三極点(南極点・北極点・エベレスト山頂)のすべてに到達したノルウェーの冒険家だそうです。そうした冒険での、普段の日常とは隔絶した極限状況での体験から、静寂というものが人間にとってどんな意味を持つのかを考えた本。さまざまな気づきに満ちていますが、私は特に「静けさは何かを捨てて手に入れる贅沢」であり「静けさにも社会的格差」があるとした一節が心に残りました。

中学生の頃、筒井康隆氏のショートショートが好きで、今でも印象深く覚えているのは『にぎやかな未来』という作品です。手元に本がないのでストーリーはうろ覚えですが、社会のありとあらゆるところに広告が出され、音声でも絶えずコマーシャルが流れている騒々しい未来社会のお話。市販のレコード(当時はまだLPレコードで音楽を聴く時代だったのです)にも数分に一度コマーシャルが入るほどの広告社会を描かれています(このあたり、現在の動画サイトなどを予見していますよね)。

そんな社会でもっとも贅沢な高級品は、とあるレコード。そのレコードにはどんな曲が入っているのかと問う客に、店の主人はこう答えます。「何も入っていません。現代でもっとも高価なものは静寂です」。もちろんよく考えれば、無音のレコードをかけたって周囲の音が消えるわけではないのですが、それくらいなにかが破綻した騒々しい未来を戯画的に描き出していて、とても興奮したことを覚えています。

翻って現在。私は(歳を取ったせいなのかもしれませんが)最近とみに静けさを欲していることに気づきました。静けさとは単に音の多寡だけではなく、心身に働きかけてくる様々なノイズやストレスの少なさによってももたらされるものだという実感がどんどん強くなってくるのです。都会で多くの人が集まっている場所や満員の通勤電車では、以前なら全く感じなかったような種類の息苦しさを感じますし、テレビの音声がうるさくてスイッチを消すことも多くなりました。

旅行に行っても、都市の雑踏が以前ほど楽しめなくなり、より人のいないところ、静かなところばかり探して行くようになりました。あんなに「ごった煮」的な賑わいが魅力の台湾だって、最近は離島のそのまた離島まで行って、周囲ぐるりと人影がなく、ただ風や波の音がしているだけ……といった場所が一番楽しいと思えるようになったのです(そう留学生諸君に言ったら、珍しい動物を見るような目をされました)。

カッゲ氏がおっしゃるように、現代は裕福であればこそ静寂・静けさがより多く手に入れられるという一面が確かに存在します。あの『にぎやかな未来』で描かれていたように。でも静けさを追い求めることは他の贅沢とは違って、常に貪欲に手に入れ続けなければならないというものではない。つまりは他の贅沢のように「束の間の悦びしか与えてくれない」ものではありません。それは手に入れようと思えばいつでもそこにある、と。

とはいえ、カッゲ氏の娘さんはかつてこうおっしゃったそうです。「静けさっていうのは、次から次へと贅沢を追い求めている人には、決して手に入れられない唯一のものじゃないかしら」。なるほど、あれもしなきゃ、これもしなきゃとなにかに追い立てられているうちは、静けさを手に入れることは難しいと。う〜ん、私などスマホやパソコンを片時も離さず、仕事も本業に副業に、趣味もあれこれ……と忙しくしていますが、これは確かに静けさとは縁遠いです。

都会の人混みで、以前は感じなかった種類の息苦しさを感じるようになったというのは、身体が静けさを欲しているのかもしれません。この本の解説で、曹洞宗の僧侶・藤田一照氏は文章をこう結ばれています。「静けさはもはや『贅沢品』ではなく、人間が正気であるための『必需品』になっているのかもしれない」と。少なくとも私にとってはそうだ、と深く頷きました。

追記

この本の装丁はとてもシンプルで、霧の中を思わせるような半透明の紙が使われるなど「静けさ」をビジュアル化したような面白い作りになっています。ただ惜しむらくは本文の紙が分厚くてかたく、それが並装本として綴じられているので「のど(本を綴じている側)」がとても開きにくい。これは読んでいてかなりストレスがかかり、「静寂」をテーマにした本としてはかなり「ノイジー」な読書感になってしまいます。ちょっともったいないなと思います。