インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

「ナチュラルに見下している」差別について

先日報じられていたこのニュース、なんとも後味の悪い感覚が残りました。

www.oita-press.co.jp

別府大分マラソンでボランティア通訳者を務めた50代の女性が、担当した選手について「原始人とコミュニケーションをしている感覚でした」とか「最初はシャイだったチンパンジー達も、だんだんと心を開いてくれました」などとご自身のブログに書き込んでいたというのです。この「事件」については、ネットで情報を探すも罵詈雑言や誹謗中傷のたぐいがあふれていて、建設的な意見がほとんど見られなかったというのも「後味の悪さ」の一因でした。

Twitterまとめサイトのコメント欄などには「だからボランティア通訳者なんてろくなもんじゃない、これじゃ2020年のオリパラも心配だ」という声も多く見られましたが、私はこれにも何となく煮え切らないものを感じます。

私自身はスポーツ大会などでの通訳者をボランティアで賄うことに疑問を持っていますし、そもそも巨大な営利目的のイベントと化してしまったオリパラ自体をやめるべきだと思っています。が、ボランティア活動をひとしなみに質が低いと決めつけるのは乱暴ですし、それとこれとはちょっと別に考えるべきではないかと。

むしろこの「50代女性」の意識がどのように生まれてきたのか、ご自身は「差別的な気持ちも悪気もなかった」とおっしゃるその意識と実際の差別との甚だしい隔たりをどう考えて今後に生かしていくべきか、そちらの方が大切だと思うのです。

それに私も50代ですが、ネットに散見された「50代のオジサン・オバサンの人権意識なんて、しょせんこんなもの」といったような意見にも、年齢は関係ないんじゃないかと思いますし、逆にまた50代になって(いい年になって)も、まだこの種のプリミティブな差別意識を心に宿したままってのはどうしてなんだろうとも思いました。

何が差別にあたるのかを考えること

そんな中で一番考えさせられた意見は、評論家の荻上チキ氏による「Daily News Session」でのコメントでした。

www.tbsradio.jp

一部を書き取ってご紹介します。

差別というのは知識や知性の問題と非常に絡む問題なんですね。ただ感情的な問題というだけではないわけですよ。だから差別だっていうふうに指摘された人というのは、それを本当に意識することができなかった人だということはしばしばあるんですね。なので、この書き込みをした女性が差別的な気持ちも悪気もなかったっていうのが、言い訳ではなく本気でそう思ってる可能性というのも考えた方がいいわけです。本気で思ってるからこそ差別になるんですよ。つまり本気で差別の意図がないから差別になる、つまり差別だというのに自覚できない、あるいは差別だということを分析して思いとどまることができないから差別的発言って行われてしまうんですよね。
(中略)
その人たちは実際に差別的な気持ちで排除してやろうということで、罵倒する意図でそういったことを述べたのではなく、ナチュラルに見下しているということが差別に当たるとは考えもしなかったというようなリアリティで生きてる方というのもたくさんいるんですね。だからこそ様々な指摘を重ねていくことで、それがちゃんと差別に当たるんだというようなアンテナを育てていくということが重要になってくるわけですよ。

こうした「ナチュラルに見下していることが差別だと自覚できない」というのが、今回の「事件」で私たちが一番考えるべき部分だということですね。確かに、私の周囲にも(そして、たぶん私自身にも)そういう差別の芽はあるように思います。

中国に対する「雑駁」なイメージ

例えば、私は中国で暮らした経験から、かつては酒屋談義みたいな席で「中国は日本の十倍の人口があるから、人々のタイプも十倍幅広いんですよね」と言っていました。そして「こんなことを言っては失礼ですが」と前置きしつつ「だから日本人以上に素晴らしく高潔でまるで『神様』みたいな方もいれば、ちょっと言葉は悪いけど『動物』みたいな方もいるんですよね」と言っていたのです。

これ、中国の社会はその規模からしても日本人の想像以上に多様だということを言いたかったわけですが、よくよく考えると非常に危うい。「上手いこと言ってやった」的な自分のドヤ顔が浮かんできて、今は自分の言動を恥じています。

また私は華人の方々(広く中国語圏の人々と考えてください)が学ぶ学校現場に長く身を置いてきましたが、そういった場所で教鞭を執っている、あるいは学校事務などを行っている方々の中にも、ときどきこうした「ナチュラルに見下している」ような言動が認められることがあります。日常的に華人と接していて、そうではない方々に比べればはるかに華人に対する理解も親しみも持っている方々でさえも、なのです。

例えば、かつて中国産の加工食品にまつわる衛生上や毒性上の問題がクローズアップされたことがありました。実際に被害者も出たわけで、問題視されるのは当然だと思いますが、私が気になっているのはその後に「中国産=危ない」というイメージが流布され敷衍された結果、中国全体に対するネガティブな言動をそれこそ「ナチュラル」にのたまう方がままいるという現状です。

例えば華人留学生が帰省した際に買って来てくれたお土産のお菓子などに対して、「これ、危ないから食べられないな」とか「中国産の食品はちょっとね」などと言っちゃう(さすがにお土産をくれた本人の前では言いませんが)。正直に言って、私だって加工食品に対して「大丈夫かな、身体に悪いかな」などと思う気持ちはあります。でもそれは中国に限らず、どこの国の食品だって同じです。そして、仮に「危ないかな」と思っても公言はしません。

公言しなくても心の中で思っていれば同じだろうと思いますか? いえ、私はここは大きな違いだと思います。誰しも差別的な心性というものはあります。でもその妥当性を自問自答し、公言するかどうかを斟酌することに、つまり差別的な心性の発露にストップをかけることができるかどうかに、その人の差別に関する知識や知性が問われると思うのです。

「中国産の食品は危ない」と公言することで、「中国的なもの」をひとしなみにネガティブなイメージでくくってしまうことができる。「個別具体的な危なさ」から「中国全体の危なさ」へと一気に膨張してしまうことへの危機感がない。そんな雑駁なくくり方こそ差別の温床ではないかと思うのです。

昨年末に新聞や雑誌、ネットなどで打たれていた「おせち料理」の広告にも同様の状況がありました。私が気になったのは「中国産主原料不使用」という表記です。新聞の全面広告にもそううたったものが多く見られました。リスクがあるんだから、表記するのは当然? でも私はこうした「中国=危ない」をひとしなみに、プリミティブに押し出す表記はいささか乱暴ではないかと思います。

逆に例えば「原発事故があった日本の食品=危ない」などと海外からひとくくりに扱われたらどう感じるでしょう(実際にそうなっている例もあるようですが)。きっと「ひとしなみにネガティブなイメージでくくるな」と憤りを感じるはず。その想像がなぜ他者には向かわないのか。もう一度考えてみるべきだと思うのです。

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