インタプリタかなくぎ流

“Might come in handy one day.”

小確幸につながる炊事の「ころあい」

若者の「袋麺離れ」が顕著……という記事を読みました。

blogos.com

インスタント麺のうち、カップ麺は売り上げを伸ばしているのに対し、袋麺は「麺を茹でたり鍋や器を用意したりと調理に時間と手間がかか」ることに「特に若い人たちは不便さを感じて」おり、各社とも「既存品のブラッシュアップや新フレーバーの開発、新たな食べ方提案など」通じて需要喚起に努めているとのこと。記事の見出しだけ見ると若者だけの現象みたいですが、本文によれば「袋麺離れ」は老若男女に及んでいるようです。

そうか……袋麺を茹でるくらいの「調理」でさえ面倒だと感じる方がいるんですね。まあ確かに調理をすると後片付けが発生しますから、それも含めて面倒だと感じる気持ちは分かる気がします。私も昔は台所のシンクについつい洗い物を溜めてしまうような性格でしたから。ただ、いまでは毎日の炊事が(後片付けも含めて)楽しくて仕方ありません。それはひとえに「習慣化」してしまったからではないかと思います。勉強でも運動でも何でもそうですけど、いったん習慣化してしまうと苦もなくできるようになり、むしろやらないと気持ち悪く感じるものなんですよね。

特に食事作りは、その前段階の買い出しを含めて、とてもエキサイティングな行為です。ハッキリ言って私はこんなにアドレナリンが上昇して楽しい営みを家族の誰かに渡したくありません(細君はあまり炊事関係に食指が動かない人なのでラッキーでした)。よしながふみ氏の『きのう何食べた?』に出てくる筧史郎氏が買い出し時の興奮や炊事の偉大さをたびたび語っていますが、ホントこれ、共感される方は多いんじゃないでしょうか。

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『きのう何食べた?』第3巻 #22

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『きのう何食べた?』第1巻 #1

私が男性だからか、炊事をしているというとよく「偉いね」とか「奥さん幸せね」とか、「何料理を作るの? やっぱり中華?」などと言われたり聞かれたりします。そうおっしゃるご本人に悪気がないことは十分に承知をしているんですけど、やはりこういう反応自体にどうもしっくりこない、というのが正直なところです。この国ではまだまだ炊事、ひいては家事全般が女性の担当で、たまさか男性が家事をすると褒められ、しかし作る料理はいわゆる「男の料理」的に手間暇と材料費をかけたもの、いわば「ホビー」みたいなカテゴリーに入れられてしまうのです。

けれど日々の暮らしの中の炊事って、そんなに手間暇と材料費をかけてられないですよね。ありあわせのもの、あるいはその日スーパーで見つけたお安いものを使って「やりくり」しているのが実情です。そしてそういう「やりくり」こそが筧史郎氏も日々感じているであろう「偉大」な楽しみなんです。その意味で、以前拝見したこちらのツイートには共感することしきりでした。私も日々こういう「名もなき料理」を何十年も作り続けてきたものですから。

同じよしながふみ氏の『愛がなくても喰っていけます。』にはこういうシーンも出てきます。これも本当によくわかります。どんなに疲れて帰ってきても、毎日の炊事はそれなりに「ひと手間」かけたい、手を抜きすぎたくない。炊事は「男の料理」でも「ホビー」でもなく、そんなに手間暇をかけてらんないんですけど、かといって手を抜きすぎてカップラーメン一個とか、出来合いのお惣菜などで済ませたくもない。

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『愛がなくても喰ってゆけます。』 #1

矛盾しているように思われますか。いえ、これは言語化するのがとても難しいのですが、こういうふうにできる限り手をかけ、だけど必要以上には手をかけすぎない炊事(ひいては家事全般)の「ころあい」が日々の暮らしの中にうまく収まっていると、無理なく心身ともに健康的な暮らしを営んでいけるし、それは人生の「小確幸」にもつながっていることを実感できるのです。

こうした炊事の「ころあい」については、土井善晴氏の『一汁一菜でよいという提案』に深い哲理が示されています。私は袋麺も好きでそれなりに食べますが、袋麺を作るのとほとんど変わらないくらいの手間でもっと健康的な食事を組み立てることができる。味噌汁は出汁を取るのが面倒で……などと思っておられる方はぜひ読んでみてください。炊事は日々の暮らしを整え、頭の体操になり、ストレス解消にもなる素敵な営みです。袋麺さえ面倒などと言ってカップ麺に「引きこもって」いる場合ではないのです。


一汁一菜でよいという提案