インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

「リベラル」ゆえの偏狭さ?

昨日cakes(ケイクス)で拝見した、渡辺由佳里氏のこちらの記事には色々と考えさせられるところがありました。

cakes.mu

「こんまり」こと近藤麻理恵氏の「片付け本」は私もずいぶん前に読んでハマったくちで、以来洋服のたたみ方やしまい方はずっと「こんまり」方式になっています。その氏がアメリカで大人気になっている反面、英語があまり話せないことを揶揄する論調があり、さらに「通常は多様性や人権を重視しているとみられている」リベラル活動家が言語ナショナリズムとも言える偏狭さを露呈……というのがなんとも興味深いと思ったのです。

記事の最後のほうに、筆者である渡辺由佳里氏のご友人のこんな言葉が紹介されています。「でも、私たちも気づかず別の失礼なことをしているかもね。体験していないことを想像するのは難しいから」。うんうん、その可能性は私たちの周囲にも常にありますよね。例えば「ここはアメリカだ、英語を話せ」という心性は、日本のコンビニ外国人店員に対する一部の日本人の「ここは日本だ、(きちんとした)日本語を話せ」といった冷淡な対応と通底している気がします。

以前Twitterでこんなツイートをしたことがあります。

このツイートにはずいぶん多くのリプライが寄せられ、その多くは不寛容な日本人に対する異議申し立てでしたが、一方で少なからずいわゆる「クソリプ」に類する反応があり、その多くは「日本で働く以上、甘えるな」というスタンスでした。私はこれ、「プロ意識」や「自己責任」などの言葉でうまく糊塗した明らかなレイシズムだと思います。

この件については以前にブログの記事をまとめたことがありますが、「ここはアメリカだ、英語を話せ」あるいは「ここは日本だ、(きちんとした)日本語を話せ」などとおっしゃる方は一度外語を真剣に学んでみればよいと思います。母語と外語の往来がどんなに難しく深く、そしてエキサイティングであるかが分かります。その先に異なる言語や文化をその身に宿す人々への寛容も敬意も生まれてくることでしょう。

qianchong.hatenablog.com

f:id:QianChong:20190208151034p:plain
https://www.irasutoya.com/2015/10/blog-post_820.html

「正しいことをしている」の罠

ところで、上掲記事にある「通常は多様性や人権を重視しているとみられている」リベラル活動家が意外な偏狭さを露呈というの、日本でも同じ「リベラル界隈」によく見られる現象だと思います。党派性や主張の純粋性、無謬性にこだわるあまり、非寛容に陥る方がいるんですよね。いや、党派性や確固たる主張があるならまだ良いほうかもしれません。なかには単に短慮軽率なだけじゃないかという幼稚な非寛容もあり、私も身をもって体験してきました。

例えば私は若い頃、環境保護や公害告発に関わる団体で仕事をしていたことがあります。その職場は喫煙が自由にできる環境だったので禁煙や分煙を提案したら、ものすごいバッシングを受けたのです。「禁煙」の「禁」の字が民主的じゃないなどと言って感情的に反対する方、「お前、タバコを吸う権利を侵害してるんだってな」と恫喝する方、果ては「じゃあアンタの趣味の編み物の、編み棒の擦れる音はどうなんだ」とおっしゃった方……。

当時は新幹線をはじめJRの長距離列車内でも喫煙ができた時代ですから、まあその当時の民意の限界と言えなくもありませんが、曲がりなりにも公害による健康被害や人権侵害を告発し、反原発運動なども展開していた団体の職員や活動家にして、多くがこの認識だったのです(もちろん応援してくださる方もいました)。

その団体で私は、支援者や協力者向けニュースレターの編集をしていたのですが、あるとき文章の筆者名を「text by…」などとこじゃれてみたら(若気の至りですね)すぐに「外国崇拝」「アメリカ帝国主義の手先」等のびっくりするようなクレームが、それもたくさん届きました。これはすでに言語ナショナリズムですらなく単なる思考停止じゃないかと思い、それが「この界隈」を一歩引いて見るようになった契機でした。ほどなく私はその団体を辞めました。

その後私は中国語を学び、「日中友好」を掲げる団体関係のお仕事をしていました(お仕事の傾向が似てますね)。あるとき、その団体が企画したツアーに添乗して訪中した際、ハルビン市内でお年寄りの何名かが急に姿が見えなくなったことがありました。慌てて探していたら、そのお年寄りたちが路地(というか一般の住宅の裏庭)から出てきて安堵するも「そこらで用を足してきた」と言うので驚きました。人さまの敷地に勝手に立ち入ってのこの狼藉、日頃この人たちが中国の人々をどのように見ているかは一目瞭然ではありませんか。若かったとはいえその場で叱責しなかったことはいまでも悔恨の極みです。

一部の極端な例でしょうか。いえ、ほかにも私は労働組合フェミニストの団体などでもパターンこそ違え偏狭な方々に接して、そのたびにがっかりし、うんざりしてきました。これらは「自分は正しいことをしているのだ」という意識から生まれる根拠のない増上慢のなせる技ではないかと思います。そして日頃「リベラル」なイメージを振りまいているだけによけいたちが悪いとも。

リベラルの退潮が叫ばれて久しいですが、その理由の一つにはこうした思考停止や非寛容や偏狭さがあるのかもしれません。では……自分はそうではないのか。冒頭でご紹介した渡辺由佳里氏の記事はこのように結ばれています。

無意識の偏見や差別をなくすのは誰にとっても無理だと思うが、ときどき「自分にも気づいていない偏見があるだろう」と思い出すのは悪いことではない。

本当にその通りですね。そして、そうした自分でも気づいていない自分の偏見を指摘してくれるような人との関係を積極的に築いていくこともまた大切だと思ったのでした。