インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

しゃっくりとげっぷ

尾籠な話で恐縮ですが「しゃっくり」と「げっぷ」というものがありまして、いずれも日常的によくある生理現象ですけど、このふたつは明確に違いますよね。「しゃっくり」は主に横隔膜や筋肉の痙攣(けいれん)に伴って声帯から「ヒック」といった音が出る現象で、一方の「げっぷ」は主に飲食時に胃に取り込まれた空気が排出されるときに「ぐっふ」などと音が出る現象です。

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https://www.irasutoya.com/2015/11/blog-post_807.html

ところが、華人(チャイニーズ、中国語圏の人々)とお話ししていると、このいずれもを「打嗝(dǎgé)」とおっしゃる方がほとんどなのです。もちろん辞書を引いてみれば、それぞれに違う訳語を当てているものもあるのですが、医療などの現場ではどうだか分かりませんが、日常生活ではこの「しゃっくり」と「げっぷ」を区別していない方が多い。面白いですけど、どうしてなんでしょうね。

中国語の「打嗝」は、「打」が「~をする」にあたる守備範囲の極めて広い動詞で、口偏のついている「嗝」は「ガー」と「グー」と「ゲー」の中間くらいの音。これ、個人的にはいかにも「げっぷ」の音を表していると思われます。つまり「打嗝」は「ゲーする」ということで、これは「しゃっくり」よりも「げっぷ」にふさわしい言い方じゃないかな……と思っていたんですけど、ネットで調べてみると、「打嗝」は「呃逆(ènì)」とも言って、痙攣性の収縮、つまりもともと「しゃっくり」の意味なんだそうです。で、「げっぷ」は本来「嗝氣(géqì)」と言うんだけれども、よく混同されると。へええ、そうなんですね。

打嗝 - 維基百科,自由的百科全書

類義語には「飽嗝(bǎogé)」というのもあって、これは「飽(満腹になる)」と結びついた言葉です。これも個人的には「しゃっくり」よりも「げっぷ」にふさわしい形容に思えますけど、まあ「しゃっくり」だって飲食後に起こることが多いですから、これはこれでいいのかもしれません。

いずれにしても「ヒック」という「しゃっくり」の音と「ゲー」という「げっぷ」の音、この私には全く異なるように聞こえる音が、華人の皆さんには同じようなものに聞こえるのかしら、という点が面白いなと思うのです。

人体の進化における保守性

ところで、この「しゃっくり」について、ジョセフ・ヒース氏の『啓蒙思想2.0』に面白い記述が載っていました。自然は一度それでうまくゆくという仕組みをみつけたら、なかなかその仕組みやデザインを捨てようとはしないというくだりで、人間の身体、とりわけ脳に示されている保守性の一例として「しゃっくり」が取り上げられているのです。

(「しゃっくり」とは)鋭い吸気が生じ、「そのあと声門が閉じる」不随意運動である。下位脳幹で生じる独特のパターンの電気的刺激によって引き起こされる。さらに、全く無益なことでもある。少なくとも人間にとっては無益である。しかし特筆すべきことには、ほとんど同一の呼吸パターンが両生類にも見られ、有益な目的を果たしている。オタマジャクシはこの運動で、肺呼吸と鰓呼吸を切り替えることができる。
(中略)
バカげて聞こえるかもしれないが、これが意味するところは、人がしゃっくりするときに何が起こっているのかというと、脳の(進化的に)古い部分が肺呼吸から鰓呼吸に切り替えようとしているのだ。身体機構がこの指示を実行しなくてもよくなって何億年も経ったが、この電気刺激による制御システムを排除するには及ばなかった。だから進化の前段階の輝かしき遺物として、なおもここにとどまり、たまに思い出したように発動しているのである。


啓蒙思想2.0―政治・経済・生活を正気に戻すために

えええ、ホントですか! ということは、飲食とともに体内へ取り込んでしまった空気を排出するという「有益な目的」がある「げっぷ」とは違い、「しゃっくり」は人間にとってはさしたる意味を持たないものになっている……だから華人は「しゃっくり」を「げっぷ」に包摂してしまい、二つあわせて単に「打嗝」とだけ言うのでありましたか!

……というのはもちろん牽強付会ですが、日頃「げっぷ」と「しゃっくり」を区別しない華人を前にして「だって、溜まった空気の排出と筋肉の痙攣だから明らかに違うじゃん、なんで中国語は区別しないの? 日本語はハッキリ区別するよ」などと得意げに語っていた自分がなんだかバカに思えてきた一件でありました。