インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

フィンランド語のしくみ

お正月休みに読んだうちの一冊です。白水社から出ている「言葉のしくみ」というシリーズのひとつですが、とても感銘を受けました。

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フィンランド語のしくみ《新版》 (言葉のしくみ)

「言葉のしくみ」とは、要するに「文法」のことなのですが、この本はできる限り文法用語を使わず説明することに徹しています。最低限の「主語」や「名詞」や「動詞」といった言葉は出てきますが、フィンランド語なら「不定詞」とか「格語尾」とか「母音調和」といった言葉はもちろん、「文法」という言葉さえほとんど出てきません。

そのかわりに「しくみ」として、「文字と発音のしくみ」から始まり、「分のしくみ」や「区別のしくみ」「『てにをは』のしくみ」……などなどが平易な表現で説明されています。とくに「区別のしくみ」というのは、語学の本質を突いていますよね。つまるところ言語とは、森羅万象をどうやって切り取って表現するか、つまりこれとあれとをどう区別するかという、そのやり方の体系であるからです。

この本の帯の惹句には「新書みたいにスラスラ読める!」「まずは寝ころんで、コレ読んで」とあります。もちろん、薄い本ですからフィンランド語のしくみ——文法をすべて網羅しているわけではありません。でもその一方で、この言語の核になる考え方、つまりフィンランド語を使う人々がどうやって森羅万象を切り取っているのかが、とても分かりやすく書かれています。

分かりやすく、かつ「王道」

著者の吉田欣吾氏は『フィンランド語文法ハンドブック』や『フィンランド語トレーニングブック』といった本格的な学習書も著されている大学の先生で、私もこの二冊には日々お世話になっています。でもこの本では、学者さんであればこそ無謬性にこだわってつい網羅的にあれこれ書きたくなるであろうところを、かなり抑えて書いていらっしゃいます。

とはいえ、入門書にありがちな「とにかく文法なんかあとまわしで、コミュニケーションできればいいんだ」という、一見実用的でありながら、結局はその言語に対するリスペクトを欠いたスタンスではありません。そうした、いわばその言語を「舐めた」態度は極力排しつつ、フィンランド語の魅力を繰り返し伝えています。

このように、初学者に分かりやすく、かつ語学の王道的なアプローチをする……自分も中国語を教える立場にあるので日々痛感していることですが、これはなかなかできるものではないと思います。

学習者に考えさせる

もうひとつ、この本の優れたところは、先に「しくみ」を説明してしまうのではなく(その方が手っ取り早いんですけど)、例文をいくつか挙げて、読者に「ここにはどういう『しくみ』が潜んでいるのか」を考えさせる、という形になっているところです。私は、語学にはこうした自ら文法を発見していく、そしてそれが母語とどのように違うのかを体感していくというプロセスがとても大切だと思っているのですが、まさにこの本ではそれを繰り返し行っているのです。

また基本的に見開き単位、または1ページでひとつのトピックスが語られ、完結する体裁になっているのも読みやすく、次々に新たな考え方が(それも母語とは全く異なる世界観による)登場して挫折しがちな初学者にとって、とても優しい設計だと思います。

俯瞰的なアドバイス

そして、ところどころに、その言語を学んできた方だからこそ言える、ある種の「奥義」あるいは「気づき」みたいなもの(というと大袈裟ですけど)が披露されているのがすてきです。例えば語順によるわずかなニュアンスの違い、前置詞や後置詞と格変化が協力してゆたかな「てにをは」の世界を作り出しているというフィンランド語のメカニズム、そして「フィンランド語の勉強は最初のうちは少し面倒だけど、しばらく勉強を続けるとどんどん楽になる」といった、達人ならではの「箴言」。

中国語も、特に日本語母語話者にとっての中国語は、多くの漢字を共有しているがゆえに最初は発音で苦労する*1けれども、しばらく勉強を続けると、膨大な古典からの遺産を共有していることが体感できてがぜん面白くなる(漢字文化を共有していない他の言語話者には体感することがかなり困難な世界)という側面を持っています。最初からそんな深遠なことを言っても始まらないかもしれませんが、語学というひとつの山を登ろうとする際に、こうした俯瞰的なアドバイスは大きな励みになるのではないでしょうか。

この「言葉のしくみ」シリーズは、Amazonの「なか見! 検索」で見るかぎり他の言語もおおむね同じような構成で書かれているようです。編集者の巧みな意図というか、語学に対する強い思いが出ているような気がします。収録音源が無料でダウンロードできるのも親切。新しい語学に興味があるとき、まずはこのシリーズで全体を俯瞰してみるの、おすすめです。

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https://www.hakusuisha.co.jp/search/s6994.html

*1:往々にして逆に考えている初学者が多い(私もそうでした)のですが、実は同じ漢字で双方の発音が違っているので、母語が発音に干渉するという点で却って学びにくいのです。