インタプリタかなくぎ流

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「邯鄲」の楽におけるドラマツルギー

中国の河北省に邯鄲(かんたん)という都市があります。秦の始皇帝の生まれた場所としても有名ですが、日本ではなんと言っても「邯鄲の夢(邯鄲の枕)」の故事でよく知られている街です。私は昔一度だけ「ほとんど通過」したことがありますが、それほど際立った特徴のない地方都市でした(ごめんなさい)。でも今では大都市に変貌しているでしょうね。

中国語でも“黃粱一夢”という成語で人口に膾炙していて、どんなに富み栄えていてもそれは束の間の幻だと心得よというような戒め(平家物語の「盛者必衰の理」に似ています)や、そこから派生して現実的ではない空想の比喩としても使われ、チャイニーズの方々とも「おお、あの話ね!」と一瞬で深い理解に至って盛り上がることができます。

「邯鄲の夢」の故事はよほど日本人の人生観からしても「ぐっ」と胸に迫るものがあったのか、能にも『邯鄲』という曲(演目)があります。私は能楽が好きで、かつ自分が中国語関係の仕事をしていることもあって、特に能の「中国物(唐事)」と呼ばれる曲に興味があり、『邯鄲』も何度か見に行きました(比較的人気の曲で、よく上演されています)。

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▲いつもお世話になっている「the能.com」さんの解説ページから。

能は日本の伝統芸能ですから、曲目も日本のお話が多いと思いきや(実際、平家物語源氏物語などの古典に材を採ったものが多いんですけど)、中国物も数多く残されています。この「邯鄲」をはじめ、「天鼓(てんこ)」「猩々(しょうじょう)」「枕慈童(まくらじどう)」「楊貴妃(ようきひ)」「項羽(こうう)」「西王母(せいおうぼ)」「昭君(しょうくん)」「鍾馗(しょうき)」「白楽天(はくらくてん)」「皇帝(こうてい)」「咸陽宮(かんようきゅう)」……まだまだあります。能楽が成立した約600年前の日本人が、古典だけで知っているもののまだ見ぬ「かの国」にどれだけ憧れとリスペクトを持っていたかが分かろうというものです。

私は、細々と続けている能のお稽古でも、師匠にお願いして中国物の仕舞をいろいろと練習してきました。中国物といっても、そこはそれ、古典の文字面だけから想像した「かの国」の風情ですから、舞の型や囃子の音楽などにはっきりと「いかにも中国」的な要素が表れているわけではありません。能の装束では、普段よく使われる日本風の扇の代わりに、相撲の行司さんが持っている軍配みたいな形の「唐団扇(とううちわ)」が使われていますが、我々素人は、ましてや仕舞では装束もつけませんから、傍目には「中国感ほぼゼロ」ではあります。

それでも現在お稽古している舞囃子「枕慈童」に出てくる「楽(がく)」という舞の音楽には、どことなく中国大陸の広々とした感じや滔々と流れる大河のような雰囲気を感じます。

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「枕慈童」は祝祭的な要素の強い、明るくてハッピーな曲。亡霊やら怨霊やらが登場することの多い能の中ではかなり異彩を放っていて、大好きな曲のひとつです。来年の温習会でこの舞囃子を舞う予定なので今から楽しみなのですが、いつかは、というか死ぬまでには「邯鄲」を舞ってみたいです。でもこの「邯鄲」、喜多流ではとても重い扱いになっていて、プロの能楽師でもそれなりの経験を積んだ方でないとお許しが出ないのだそうです(流儀によっては全く違う扱いだそうですが)。

能「邯鄲」では舞台の向かって右側手前に、たたみ一畳ほどの大きさの台が据えられ、その上に宮殿を模した簡素な屋根がついています。能の主役である「シテ」がこの中に入っているときは、夢の中で皇帝にまで上り詰めて栄耀栄華にふけっている様を表しており、なおかつ「楽」の舞をこの一畳ほどのスペースの中だけで舞うのです。

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▲「舞台芸術研究会」さんの「『舞の能楽解説』第五話 能の作り物について」から。

普段の「楽」はたいがい能舞台全体を使って舞われるのに、「邯鄲」ではいわばその舞をぎゅっと一畳ほどのスペースに圧縮した設えになっているわけです。その圧縮された小宇宙のような空間が夢の比喩でもあるわけですね。だって夢は、実際には寝ていてほどんど動かない自分の脳内で展開される極小世界なわけですから。なんというドラマツルギー(作劇法)の巧みさでしょうか。

しかもお師匠にうかがったところでは、面(おもて:仮面)をつけて視界が効かず、かさばる装束をつけて着ぶくれており、なおかつ普通の扇よりも大きい唐団扇を手にしながら、四隅に柱のある一畳ほどのスペースで、その柱にぶつからないようにして「楽」を舞う……しかも、うっかりぶつかってしまったら「夢が覚める」から御法度、という習いがあるのだそうです。いやその「ヒヤヒヤ感」もまた、はかない夢ならではの絶妙の設えではありませんか。

こちらのページで、喜多流能楽師の友枝真也師が「そういうフレームに収まってる感のない楽をのびのびと舞いたい」とおっしゃっています。

tomoeda-kai.com

「離見の見」みたいな、いっけん二律背反のような教えが多い能ですが、この邯鄲の楽でもその二律背反性が「これでもか」とばかりに発揮されているような気がします。ほかにも邯鄲の楽には「空下り」という特殊な型があるなど見所いっぱい(流儀によって演じられ方は多少違います)。能「邯鄲」の作者は不詳ですが、この作者は天才ですね、ハッキリ言って。