インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

違う人々に対する耐性のようなもの

先日、同僚から「中国人職員と内線電話で話した後に、いきなりガチャッと切られるから、ちょっと傷つく」みたいなことを言われました。なるほど、そうですか……まあ確かに、日本の多くの方がやるみたいに、そおっと、間を置いて、できれば先方より遅く受話器を置く(私もやってる)、みたいな「お作法」はないですかねえ。

でもご本人はきっと無意識のうちにガチャッとやっていて、悪意などまったくないはずです。電話は単なる連絡のための道具ですし、それほど高価な精密機器というわけでもないから、受話器の置き方に凝ったりはしない、と。

道具としてのお金にはあまり価値を置かないから、おつりを投げてよこすとか(諸外国で、これに少なからずショックを受ける日本人は多いみたいです)、どんどんキャッシュレスに向かうとかと同じで、これはチャイニーズによく見られる透徹したリアリズムなんですよね。いや、チャイニーズに限らず、紙幣や硬貨そのものの扱いはドライなのって、けっこうどこの国や地域の人も似たようなものじゃないですか。アメリカでもチップなんか「ぽーい」と放っちゃっている方が多かったような気がします。

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https://www.irasutoya.com/2013/04/blog-post_6846.html

まあ私も日本人の端くれですから、私たちのある意味過剰なほどの気遣いの文化も愛おしいというか、これはこれで全部消し去っちゃうのは悲しいし、もとよりとうぶんは消し去ることなどできないだろうと思いますが、「そうではない人々」への耐性も少しはつけてもいいんじゃないでしょうか。

いつも申し上げていることですが、私たちのこの異文化や異民族に対するある種のナイーブさというか「うぶ」なところ、あるいは異文化リテラシーのなさは、もう少し前景化されてもいいんじゃないかと思います。これだけ「グローバル化」だ、「外国人へのおもてなし」だ、「幼少時から英語教育」だと躍起になっている割には、なんかこう「異質な方々」に対する想像力の涵養や、そうした存在との交流で生まれるメリットやデメリットに対する覚悟みたいなものが、ほとんど意識されていないように感じるんですよね。

例えばこちらの、来日15年というバイエ・マクニール氏が語る「空席問題」の記事と、この記事についたコメントは、「明治150年」などと言って舞い上がっている私たちはひょっとしたらその150年間根っこの所では変わってなかったんじゃない? と思えるほどのインパクトを持っています。

toyokeizai.net

入管法の改定で、日本では今後ますます異文化の人々と接触する場面が増えるのかもしれません。全体の状況としてそうなっていけば、今よりはもう少し(否応なしに?)異文化や異民族にたいする「ナイーブさ」が影を潜めていくのでしょうか。その前に不幸な出来事が起こらないようにと願いますし、私は私で異文化や異民族との接触における良い所も気をつけるべき所も発信していきたいと思います。