インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

パリ左岸のピアノ工房

小学生の頃、ピアノを習っていました。関西地方にかつてよく見られた棟割長屋のような「文化住宅」の一室が教室で、先生はその部屋でピアノだけでなくなぜか書道(毛筆と硬筆)も教えている、かなり年配のご婦人でした。

練習の順番を待つ部屋にはマンガ雑誌がたくさん置いてあって、私はそこで中沢啓治氏の『はだしのゲン』を初めて読みました。Wikipediaに載っている作品史を参照するに、おそらく当時『週刊少年ジャンプ』に連載されていたのをリアルタイムで読んでいたのだろうと思います。

広島での被爆体験をテーマにしたその衝撃的な描写に、いつも他の生徒が弾くハノンの練習曲が交錯していました。そのおかげで、私はいまでもこの練習曲を聞くと『はだしのゲン』に出てくる悲惨なシーンの数々を連想してしまいます。

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ピアノのお稽古は、親がせっかくアップライトピアノまで買ってくれたというのに、結局続きませんでした。私自身が飽きちゃったこともありますが、小学校の同級生から揶揄されたことも大きかったと思います。

当時、小学生の男の子はほとんど全員と言っていいほど野球帽をかぶり、「野球ができなきゃ男子じゃない」的な空気が支配していた「古き悪しき時代」でした。もう亡くなってしまった母方の叔母さんが「男の子がピアノを弾けるなんて素敵よ」と励ましてくれたこともあったのですが……もったいないことをしたものです。

それでも音楽はずっと大好きで、小学校五年生の時にはトランペットを買ってもらいました。質流れ品で、西ドイツの“Huttl(ヒュッテル)”というメーカーの楽器でした。運動会のファンファーレを吹いたり、父方の叔父さんの結婚式で「余興」としてワーグナーの結婚行進曲を吹いたりした記憶があります。中学校では吹奏楽部でユーフォニウムを吹いていましたが、その後はユーフォニウムもトランペットもやめてしまいました。

後年、大学生の時に有機農法の八百屋さんでアルバイトをしていたのですが、そこの女将さんが音楽大学出身でピアノ教室も兼業しており、そのご縁でほんの少しだけピアノを習ったことがあります。バッハの『アンナ・マクダレーナ・バッハのためのクラヴィーア曲集』あたりを何曲かやったような気がしますが、結局これも続きませんでした。

音楽にしろ、美術にしろ、好きではあったけれど、そこまでの熱意はなく、かつ向いていなかった——もっとありていに言えば「才能がなかった」んですね。ただ、うちの両親、特に父親がエラかったなと思うのは、自分は理系のエンジニアで音楽も美術もたしなまないけど、子供が芸術に興味を持つことを何も言わずに応援してくれた点です。なのに、全部途中で投げ出しちゃって、ちょっと申し訳なく思います。

圧倒的な魅力をたたえた物語

その後ずいぶん経って、書店で偶然見つけて読んだのが、新潮クレスト・ブックスの一冊として刊行されたばかりのこの本、T.E.カーハート氏の『パリ左岸のピアノ工房』でした。


パリ左岸のピアノ工房 (新潮クレスト・ブックス)

一読引き込まれ、大いに感動してもう一冊買い求め、八百屋さんでピアノの先生だった女将さんに郵便で送りつけたことを覚えています。自分で買ったほうはその後どこかへ行ってしまいましたが、なんだか懐かしくなって、Amazonマーケットプレイスでもう一度買い、読んでみました。

いや、何度読んでもこの物語、その圧倒的な魅力に引き込まれます。基本的には「パリのアメリカ人」であるカーハート氏が、パリ左岸のとある地区(カルチェ)で巡り会った、不思議なピアノ修理工房をめぐるノンフィクションなのですが、ピアノという楽器に関する歴史やその造り、社会や文化との関わりなどの知識や、様々な人々の人生模様までがふんだんに織り込まれ、汲めども尽きぬ味わいを持っています。

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すてきなピアノ教師たち

特筆したいエピソードは多々ありますが、それはまあ実際にこの本を読んでいただくとして、カーハート氏が巡り会ったすてきなピアノの先生たちの記述には、今の音楽教育に、いやもっと広く教育全般にたりないものを示唆しているように読めて仕方ありません。まあこれは私が教育業界に片足を突っ込んでいるからでもあるのですが。

まずはカーハート氏が子供の頃、母親と一緒に学校へ姉を迎えに行った際に音楽室でふと弾いてみたグランドピアノと、その演奏をいつの間にか後ろで見ていたミス・キリアンのくだり。

 彼女は部屋を横切って近づいてくると、笑みを浮かべながら、ちょっとしゃがれた低い声でわたしを安心させようとした。「邪魔をしてしまってごめんなさい。とてもすてきだったわ。あなたはもう少しここにいるつもり?」
 分厚い眼鏡をかけた年配の女性だった。レンズがひどく分厚いせいで、その奥の目が歪んで見えた。彼女は楽譜を抱えていたが――そこで練習するつもりだったのだろうか?――ピアノの前に来ても、ずっと笑みを絶やさなかった。わたしは母と姉が先生と話をしているあいだ待っているのだと説明した。
「セーラからピアノを弾く弟さんがいるとは聞いていなかったわ。ところで、あなたも私と同じなら、演奏するときはひとりのほうがいいんでしょう? 邪魔が入らないように、ドアを両方とも閉めておきますからね」
 まるでわたしの心を読み取ったかのようだった。わたしの心の中をのぞいて、〈この少年が望んでいること〉という欄に記されている指示を読んだかのようだった。彼女は後ろを向いて出ていこうとしたが、途中で振り返って、「すばらしいピアノでしょう?」と言った。
「ええ、先生。すばらしいです」
 わたしは黙ってピアノの前に座った。見ず知らずの他人が自分の家族さえよくわかっていないことを即座に理解したのは驚きだった。

また、カーハート氏がパリ左岸のピアノ工房で、職人のリュックから“Stingl(シュティングル)”のピアノを購入した後、個人レッスンを受けたピアノ教師・アンナの演奏に対する考え方。

まずバルトークからはじめて、わたしたちはいっしょに一曲ずつさらっていった。なかにはがっかりするほど簡単な曲もあったが、アンナはもっと複雑な曲に進む前に、その和声構造をしっかり理解することを要求した。たとえ単純な作品でも、その和声構造を理解するというのはわたしにとってはまったく新しいことであり、なかなか理解できずに落胆していると、彼女はわたしのノートに「自分自身と忍耐強くつきあってやること!」と書いた。そうやって彼女は、曲の中で何が起こっているか理解せずに全部の音符が弾けるようになっても、それは空疎な演奏に過ぎないことをわたしに理解させたのである。テクニックそのものを自己目的化するのは彼女がもっとも嫌うことだった。

そして、アンナが冗談半分に「導師(グル)」と呼んで敬愛するロンドン在住の有名なピアノ教師、ペーター・フォイヒトヴァンガーによるワークショップでのレッスン。

 ペーターは思春期に独学の天才として見いだされ、その後現代最高のピアニスト――フィッシャー、ギーゼキングハスキル――に師事した。そして短期間コンサート・ピアニストとして華々しい活躍をしたが、やがてピアノ教育に専念するようになり、多くのコンサート・ピアニストを育てた独創的な教師として高く評価されている。「物事のやり方にはいろいろあるが、自然なやり方はひとつしかない」と彼は書いているが、それこそアンナがわたしに教えこもうとしていた考え方をみごとに要約した言葉だった。
(中略)
 ときには、拍子抜けするほど無邪気な質問もあったけれど、彼は生徒をばかにしたり、観客の受けをねらったりはしなかった。「どうすればそんな跳ねるようなタッチで弾けるようになるんですか?」と、ブラームスソナタを演奏した日本人ピアニストが訊いた。
「それはむずかしい質問だ。いいかね、レオナルド・ダ・ヴィンチは何年もかけて体のあらゆる部分のデッサン帳を作った。彼は耳を描き、肘を描き、手を描いた。体のすべての部分をできるかぎり多くの視点からデッサンした。それから、それをすっかり忘れて、目に見えたとおり描いたんだ。それと似たようなことをする必要があるということだろうね」

村松潔氏の翻訳が、これがまた本当にすばらしいんですよね……。この本を読むと、無性にまたピアノを習いたくなります。現在のバタバタした生活のどこにピアノレッスンの時間をねじ込めばいいのか見当もつきませんが、人生は一度きり。やりたいことをいますぐやるべきなのです。

死ぬまでにゴルトベルク変奏曲のアリアを弾けるようになったらいいな。どこかにミス・キリアンのような、アンナのような、ペーターのようなピアノの先生はいらっしゃらないかな。