インタプリタかなくぎ流

“Might come in handy one day.”

肩の力の抜けぐあい

長塚京三氏へのインタビュー記事、ほかにもいくつか心に残った部分があるので追記します。

www.chunichi.co.jp
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台本は、ぱらっと、大体前日にファクスでいただきます。それをそんなにあっためるということはなくてね。現場のスタジオにさらりと行って、ぼつぼつ始めましょうか、と。以心伝心のタイミングで始まります。皆さんの前で稽古もしない。大して打ち合わせがなくても、ライターさんが僕に感情移入して書いてくれてますから。映像は、くださいとお願いしていないので、スタジオ入りして初めて見ます。

この部分を読んで、玄人の能楽師さんたちと同じだなと思いました。

能楽の公演というものは、ほかの伝統芸能や演劇などと異なり、基本的に一度だけの上演で、同じ演目をマチネとソワレとか、何日も連続で興行とかいう形が取られません。しかも事前に一度だけ簡単な打ち合わせ的リハーサル(申し合わせ)を行うだけで、何度も通し稽古やゲネプロを行うということもないそう。さらには上演当日も柔軟体操とか発声練習みたいなことをほとんど行わないみたいなんですね。

これはもう、普段の稽古が積み重ねられていて、いつ何時であっても最高のパフォーマンスができ、ほかの演者と同期できるようにしてあるかということではないかと。私など、例えば中国語で話す仕事がある日は、仕事に向かう前に「暖機運転」的に中国語のシャドーイングなどをやらないと「朝イチ」でわーっと喋ることができません。同じ声を使う仕事でも、この違い。長塚京三氏や能楽師のみなさんのすごさが分かります。

僕は、芸に関しては「自分が気持ち良くなりすぎてはいけない」と思うんです。自分を戒める意味でね。程の良さというか、寸止めというかが、良いものをつくるには必要なんで。

これもよく分かるなあ。先日も書きましたけど、例えばうちの留学生が取り組んだお芝居にしても、だんだん完成に近づいてくると欲が出て「小手先のウケ狙い」に走りがちなんですよね。それはまさしく「自分が気持ちよくなりすぎる」だけで、観客は逆に白けたり引いたりしてしまう。そこをいかに抑えて、本来の「正攻法」に戻せるかが肝要で。

qianchong.hatenablog.com

(ナレーションを)録音して自分で聞き比べて確かめるということはしません。そうすると、また「よりお上手にやってみようか」と下心が出ちゃう。まあ、緊張感を持った上で、えいっ、と一瞬の勝負でやるということなんだな。

これも上記の内容と似ていますが、色気や欲が出るとかえってつまらなくなるということですかね。もちろん一瞬の勝負に「えいっ」と出てもそこそこのクオリティになるほど基礎がしっかりしていなければお話にならないでしょうけど。

人前で話をするとき(授業やらセミナーやら講演やら)に、あまり言いたいことばかり盛り込んで原稿や教案やプロットを作り込みすぎると、かえって聞き手にとどかないということがあります。もちろん「行き当たりばったり」ではかなりの確率で失敗しますが、自分の中だけで話の内容を比較検討して詰めるだけではなくて、当日の聞き手の反応に合わせて勝負する、聞き手とのインタラクションに身を委ねるみたいなところを残しておくことが意外に大切だったりするのです。

イラストの仕事をしていたときも同じようなことを感じました。「お上手に描こう」としてあれこれ盛り込む意識がはたらくと大抵つまらない絵になる一方で、何気なくえいっと描いたものが意外によかったりする。私はその差が激しくてプロになりきれませんでしたけど、本物のプロはその「えいっ」でも当たる頻度がとても高いのかな、と思います。

その道を究めた方だからこそできる、こうした「肩の力の抜けた」仕事の仕方。いつになったらそんな境地に至ることができるのかなと思うと同時に、いつになったらと待ち焦がれているうちは至らないのだろうなとも思いました。