インタプリタかなくぎ流

“Might come in handy one day.”

「自己責任」をはき違えてはいけない

私は日常的に外国籍の方や留学生と話をする機会がありますが、そこでよく話題にあがる「日本の不思議なところ」のひとつに「公共交通機関における情報の過剰」があります。

街中に看板や張り紙や注意書きがあふれている。
電車やバスなどの車内アナウンスが細かく、多い。

いやまったく、その通りですよね。私もアレはなんとかしてほしいと常々思っているのですが、外国人から「アレはなんでなの?」とあらためて問われると、「なんでだろうねえ」と返答に窮せざるを得ないのです。

私たちはもうすっかり「慣れっこ」になっているのでそれほど注意を払わないかもしれません。街中にあふれる電柱や電線が風景の一部として全く目に入っていないのと同じ*1で、看板や張り紙やアナウンスなどは目や耳を素通りしてしまう、そういう身体作法を我々は身につけてしまっているようです。

ところが、初来日の外国人はこれで逆に戸惑い、混乱するのだそうです。

とにかく看板やサインが多くて、文字が街中にあふれかえっていて、どれを読むべきか苦労した。
次々に車内放送が流れてくるんだけど、何か重大な出来事でも起こっているんじゃないかと心配になった。

なるほど。私は日常的に東京の京王線東急線を利用していますが、あらためて車内放送に耳を澄ませてみると、けっこうな「過剰っぷり」に気づかされます。次の駅名を知らせるくらいは必要かと思います(目の不自由な方もいますし)が、ほかにも「発車ベルが鳴りますとドアが閉まりますのでご注意ください」とか「発車しますと揺れますのでご注意ください」など、当たり前すぎることまで繰り返し放送されています。

中でも外国人が一番奇異に感じるのは、たった数分遅れただけで「お急ぎの所ご迷惑をおかけして誠に申し訳ありません」といった「謝罪」が放送されることだそうです。う~ん。これだけ過密なダイヤで動いている首都圏の各路線、数分程度の遅れは仕方ないですし、むしろ当たり前(実際、日常的に発生しています)だと思うんですけど、なぜ謝るんですかね。

私はここで、諸外国に旅行したり暮らしたりした経験から「パリの地下鉄は一切アナウンスがなかった」とか「中国や台湾だって機械音声のアナウンスだけだぞ」などと「出羽守」になるつもりはありません。国の事情も人々のメンタリティも様々ですし、東京の公共交通機関がとりわけ集積度が高くトラブルも起こりやすい状況であることも分かるからです。ただ外国人にあらためて「なぜなの?」と問われて「なぜなんだろう」と考えてみることはそれなりに意味があるかもしれません。

実はこの件に関しては諸賢がすでに様々な理由を推察されています。「日本のおもてなし文化である」とか「日本人は大人としての自立・自律が欠けている」とか「過剰かもしれないがそれで世界一の治安の良さが確保されている」とか……。私は「責任を取りたくないから先行予防的にサインや放送が過剰になっている」という説を支持したいと思います。

サインや放送を提供する側の企業は、利用者や消費者からのクレームが一番怖い。そしてたまさか満員電車でドアに挟まれたとか、電車が数分遅れて仕事に遅刻したとか、そういう一部の方々が厳しいクレームをつきつけ、その対応に辟易した各社が「だって、先にご注意申し上げたではないですか」と責任を回避できるように「先手を打って」様々なサインや放送が止めどなく増えていくと。

もちろんホームへの転落防止など、実際の安全面の考慮を持ってサインや放送に反映される場合もあるでしょうけど、確かにそう考えてみると、過剰なサインや放送のほとんどすべてはこうした先手を打った責任回避策に見えてきます。つまり「何かあったら、それはあなたの自己責任」というわけです。

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https://www.irasutoya.com/2017/10/blog-post_966.html

今朝の東京新聞によりますと、シリアで武装勢力に拘束されていたフリージャーナリストの安田純平氏が解放され帰国した件で、ネットの一部には「自己責任論」が相次いでいるとのことです。

www.tokyo-np.co.jp

この記事では外国人記者が「自己責任という言葉のニュアンスがよく分からない。どう英訳したらいいのか」「日本に特有の言葉なのか?」と困惑されたエピソードが紹介されています。そして、「自己責任」が社会の隅々で使われるようになっている現状について、「いろんな人の責任を回避して、特定の個人に責任を背負わせられる都合のいい言葉」という識者の見解が紹介されていました。

また、ビデオニュース・ドットコム代表の神保哲生氏が「こうした人々が帰国後に批判されたケースを聞いたことがない」と語るこの部分には共感しました。

西欧などの主要国では、ジャーナリストが国民の代わりに紛争を取材して報じているとの理解が広まっているからではないか。
自己責任を唱える人は、情報を得るのに手間や危険が伴うことを忘れている。情報が天から降ってくるかのように思ってはいないか。

Twitterなどにあふれる「自己責任論」は、ネットの、それも無料のメディアで入手できる情報の多さに感覚が麻痺して、根拠のない全能感に浸りきったしまったがゆえの、それこそ無責任な「病態」なのかもしれません。

ただし、この国では責任の所在がはっきりしない、誰も責任を取らないでうやむやのうちに終わるというのが常であり、私のそのことに日々憤懣やるかたない思いを抱いている一人ですが、そこから生まれる「誰が責任を取るんだ!」「誰かに責任を取らせろ!」という情念はこうした「自己責任論」と通じるものがあるかもしれないと思います。

公共交通機関などの過剰なサインや放送の向こうに透けて見える「表面的にはとても配慮しているふうを装いながら、その実、予防的に責任を回避し続け、個人に責任を追わせる」という姿勢も、また。

日本の人々というのは、実は“人情世故*2”がまだあまり身に備わっておらず「いじめ」に加担してしまう子供のように、とっても酷薄で冷淡なのかもしれません。

自分が間違えたと思ったらきちんと謝罪してしかるべき責めを受ける、あるいは過剰なおもてなしなどなくても自立的・自律的に動ける……そんな「大人の態度」が私たちに最も欠けているものなのではないかと思いました。そしてそれこそが本当の意味での「自己責任」ではないでしょうか。

*1:ちなみに日本のこの風景も、初来日の外国人(の一部)には非常な驚きを持って迎えられます。

*2:中国語で「義理と人情」みたいな意味ですけど、もっと広く世間のありよう、清も濁も併せ持ったリアリスティックな世の中の有様を指しています。