インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

もう少し怖れてもいいかもしれない

むかしむかし、通訳学校で学んでいた頃、ノートテイキング(メモ取り)の授業で講師の先生からこんな指導がありました。

何はなくとも数字、それに固有名詞だけはメモしてください。

そりゃそうですよね、数字や固有名詞(人名や地名、団体名などさまざま)は、基本的に発言の中では前後の文脈や脈絡に関係なく現れる独立した情報だからです。例えば……

2017年における中国の実質GDP成長率は6.7%でした」という発言と、
2016年におけるベトナムの実質GDP成長率は6.2%でした」という発言では、

「2017」「2016」「中国」「ベトナム」「6.7」「6.2」などという情報は入れ替わっても文章が成立するので、メモをしなければ間違える可能性が大きい(実際には中国とベトナムを間違えることなどまずないでしょうけど)。このような独立した情報は、メモし損ねたり忘れたりしたらもう逃げ場がありません。いわばその発言の中で「唯一無二」の情報で、聴き取りに一番緊張するところでもあります。

というわけで、二人以上のパートナーと組んで通訳業務を行う場合には、待機しているほうの通訳者が訳している通訳者のために数字や単位や固有名詞などをメモしてサポートすることがよく行われています(時々「私の番じゃないから」と全然サポートしてくださらない方もいますけど)。それくらい数字や固有名詞は「鬼門」なわけですね。

最大の鬼門:カタカナ語

鬼門といえば、華人のみなさんにとっての鬼門のひとつは、日本語における「カタカナ語」であるようです。来日何十年という日本語の達人のような方でも、カタカナの外来語だけは苦手とされていることがあり、とくにパソコンなどで書く場合には表記がかなり不正確だったりして、普段あんなに流暢なのに……とそのギャップに驚きます。

というわけで、私が日頃向き合っている、通訳や翻訳を学んでいる華人留学生や在日華人のみなさんにとっても、例えばカタカナの人名や地名といった固有名詞は、かなりな「鬼門」になっていると感じます。しかも、受け手である日本語母語話者のクライアントは「日本語の発音に関して設定ハードルがかなり高い」ことが多いので、少しでも奇妙なカタカナの人名・地名を口にしてしまうと、ご本人の実力に比べてかなり低い評価を受けてしまう結果に。鬼門と称するゆえんです。

私は、通訳訓練をしているときに上記のような「逃げ場のない固有名詞問題」の怖さに気づいて、それから必死でカタカナの国名・地名に対応する中国語を覚えました。日本語・英語間であれば、日本語のカタカナ国名・地名をそれらしく発音すればなんとかなることもあるかもしれませんが(ならないことも多いでしょうけど)、中国語の場合は音がかなり違うために、きちんと発音しなければまず理解してもらえないと思います。

イスラエル↔以色列(カタカナでは書けないですが近似の音を無理矢理書けば、イースーリエ)
ジャカルタ↔雅加達(ヤージャーダー)
ミュンヘン↔慕尼黑(ムーニーヘイ)
ジュネーブ↔日內瓦(リーネイワー)
リオデジャネイロ↔里約熱內盧(リーユエルーネイルー)
サウジアラビア↔沙特阿拉伯(シャートーアラボー)
アラブ首長国連邦↔阿聯酋(アーリェンチウ)

……きりがないのでこれくらいにしておきますが、こうした国名や地名は訳出の善し悪し以前に、最低限の常識としてすぐに使えるようにしておかなければなりません。

意外な鬼門:地名・人名

カタカナの国名や地名だけでなく、中国や台湾の地名もかなり危ういです。ご案内の通り、中国や台湾と日本では漢字を共有しているがゆえに、基本的にはそれぞれの漢字の発音で地名を扱います。左が日本語、右が中国語(これも近似のカタカナで示します。以下同様)。

ぶかん←武漢→ウーハン
てんしん←天津→ティエンジン
こうしゅう←広州→グァンジョウ
こうしゅう←杭州→ハンジョウ
こくりゅうこうしょう←黒竜江省→ヘイロンジャンシェン

さらには日本語の習慣的に変則的なものもあって、これも華人のみなさんには鬼門らしい。

(ほくきょう、ではなく)ぺきん←北京→ベイジン(まあ、これを間違える方は皆無ですが)
(かもん、ではなく)あもい←廈門→シャーメン
(せいぞうじちく、ではなく)チベットじちく←西蔵自治区→シーザンズージーチュイ

……などなど。でもこうした語彙もおぼつかない方が多く、日本語のかなり達者な華人留学生でも“広東省(かんとんしょう)”を「こうとうしょう」などと発音して驚くこともままあります。

さらにさらに、カタカナの人名もけっこう苦労されています。

トランプ大統領↔特朗普/川普總統(トゥランプー/チュアンプー)
メルケル首相↔梅克爾首相(メイクーアル)
ムン・ジェイン大統領↔文在寅總統(ウェンザイイン)

カタカナだけではありません。漢字の人名であっても、きちんと日本語で訳出できる方はかなり少ない。まあ“毛澤東”くらい有名だと、さすがに“毛澤東? 這是什麼東東?(もうたくとう? 何それおいしいの*1?)”とおっしゃる方は(まだ)いませんが。

これもいわば「唯一無二の情報」。知らなければ即アウトの鬼門です。「アメリカのなんとか大統領」などと逃げることもできるかもしれません(じっさいにそう言う生徒もいます)が、常にそれをやっていたら通訳者の資質を問われますよね。というわけで、通訳学校ではこうした情報を常にリファインしておく(例えば政権交代などがあったらそのつど)よう注意喚起されました。もとより小心者で、現場で青ざめたくない私は、こうした単語を必死で覚えたものです。いや、いまでも覚え続けています。逃げ場のないこうした単語で立ち往生するのが心底怖くて。

……でも、昨今の生徒さんはそういう怖れのようなものがとても薄いようにお見受けします。ロシア語通訳者だった故・米原万里氏の著書に、通訳、特に時間的な制約の大きな同時通訳を例に挙げ、細かい意味の差異が気になって仕方がないというタイプの人はこの仕事に向かないとして、「通訳者の心臓が剛毛に覆われていると言われるのは、そのせいだろう」と締めくくった文章がありますが、みなさん別の意味で心臓に剛毛が生えているんだなあ、もう少し怖がってもいいんじゃないかなあと思います。


心臓に毛が生えている理由 (角川文庫)

*1:冗談です。