インタプリタかなくぎ流

“Might come in handy one day.”

変わったタイプ

むかしむかし、タイプライターを持っていました。イタリアのオリベッティというメーカーの「Lettera32(レッテラ32)」という緑色の一台です。正確にいうと、かつて仕事で使っていた叔母に借りたものでした。「もう使わなくなっちゃったから」というわけで借り受け、そのデザインとメカニズムに憧れてブラインドタッチを必死で練習したものです。
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http://www.noax.co.jp/products/Lettera32.html
Olivetti Lettera 32 - Wikipedia

まだパソコンなど全く普及していなかった頃の話です。でもそのときに練習したブラインドタッチは、パソコンの時代になっても多少は役に立ってくれました。よく知られているように、今でもパソコンのキーボードが基本的にQWERTY配列なのは、英語でよく使われるキーが特定の指に集中してアームが絡むのを避けるため、わざとランダムに配列したからです*1

タイプライターは金属の部品がみっしりと詰まっていて、とても重かったことを覚えています。打鍵するたびに大きな音を立てて「キャリッジ(紙を巻き付けてあるローラー)」が動き、改行のところで「チン」という音がしていたのも懐かしい。ブラインドタッチ同様、改行してキャリッジを戻すときのレバー操作も、そのレバーを見ないで行えるようになるのがとてもクールに思えたものでした。

ルロイ・アンダーソンという人が作曲した、とても有名な曲にその名もズバリ「タイプライター」というのがあって、これはタイプライターを楽器として扱い、上記のような打鍵やキャリッジリターンの音を楽曲に取り入れています。実際に「チン」と鳴るところにタイミングよくもっていくのは難しいので、このベル音だけは脇に用意されるのが普通のようですが(YouTube映像をご参照ください)。
youtu.be

前置きが長くなりましたが、むかしむかしのタイプライター体験を思い出したのは、トム・ハンクス氏の短編小説集『変わったタイプ』を読んで感銘を受けたからです。トム・ハンクス? そう、あのトム・ハンクスです。『フォレスト・ガンプ』の、『アポロ13』の、『グリーンマイル』の、『ターミナル』の、『ダ・ヴィンチ・コード』の、そして『ブリッジ・オブ・スパイ』の。


変わったタイプ (新潮クレスト・ブックス)

2014年、雑誌『ニューヨーカー』に掲載された最初の短編がきっかけとなって、その後次々に書き継がれ、2017年に短編小説集として出版された同書。収められた17編の小説はさまざまな趣向あり時代ありプロットありでバラエティに富んでいますが、書名の『変わったタイプ』が示すとおり、どの作品にも何らかの形でタイプライターが登場します。

今となってはある意味レトロでノスタルジーをかき立てられる、この「すでにその役目を終えた機械」の存在というか、テイストが、どの作品にも一種独特の味わいを与えているように感じます。それは例えばこんな描写となって現れます。

「たとえば、これ──」老人が棚に寄っていって、そこから取り下ろした一台は、黒い〈レミントン7〉のノイズレスと称するモデルだった。「白い紙を取ってくれませんか、そこにあるやつ」と言われて、彼女はカウンターの用箋を渡した。老人は紙を二枚まとめて切り離し、そのまま黒光りするマシンに巻き入れると、「聞いてなさい」と言いつつタイプした。

デトロイト通り ビジネス マシン

その文字が一つずつ、ささやくように紙の上に落ちていった。

現代の私たちがパソコンとプリンタを用いて行う印字との、この径庭といったら! 何気ないごく普通の事務作業なのに、なにかここには愛惜や郷愁にも似た胸を締め付けられるような感覚と、それに加えて一種のおかしみやユーモアさえ感じられます(翻訳者は小川高義氏)。これを読んで現代の「デジタルネイティブ」の方々は、どんな感覚を受け取るのでしょうか。タイプライターに触れたことがある人にしか分からない感覚なのでしょうか。非常に興味があります。

正直に申し上げて、中には物語のプロットがわかりにくい作品もありました。それでも、対照的な男女の怒濤のような日々をつづる「へとへとの三週間」、戦争の傷跡がまだ生々しい時代に小さな幸せを温めるような「クリスマス・イヴ、一九五三年」、訳の分からないうちに月旅行をしちゃう「アラン・ビーン、ほか四名」、冷たい雨の日の感覚が身にしみる「配役は誰だ」、トム・ハンクス氏のタイプライター愛(氏は蒐集家だそう)があふれる「心の中で思うこと」、SF仕立ての「過去は大事なもの」などなど、繰り返し読みたい掌編が盛りだくさん。

とまれ、多くは語りますまい。さまざまな境遇のさまざまな人生がタイプライターという一点で交錯する、すてきな短編集。にわかに外気温が下がり始めた今の季節にぴったりじゃないかと思います。

*1:ただしこちらによると、これには諸説あるようです。