インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

最先端の知見が日本語で読める幸せ

吉川浩満氏の『理不尽な進化』と『人間の解剖はサルの解剖のための鍵である』を続けて読みました。日経ビジネスオンラインの、小田嶋隆氏のコラムで取り上げられていたのに興味を持ってすぐに購入したのですが、どちらも超絶的な面白さ。私などが言うのも僭越ですが、とにかく文章がうまい!

business.nikkeibp.co.jp


理不尽な進化: 遺伝子と運のあいだ

『理不尽な進化』はダーウィンの進化論を主軸に据えた本ですが、科学系というよりは哲学系の読み物で、それなりに歯応えがあります。それでも、歴史や社会から個人の人生まですべては発展・進歩していくのだという価値観が、実は信憑性に乏しい、というより「発展・進歩」と進化論で述べられている「進化」とは全く異なる概念なのだと気づかされて、驚きました。

世の中には進化論になぞらえた様々な物言いがあふれています。

「変化に適応しなければ、淘汰されるだけだ」
「日本の技術がガラパゴス化するのは問題だ」
「グローバル社会に適応して、さらなる進化を遂げなければならない」

……などなど。そして私たちは、とにかく進化というのは絶対的に肯定的な善であり、政治も経済も社会も芸術も教育も、進化・発展するはずだ、いや、しなければならないという考えを幼い頃から焚きつけられ、自らも人を焚きつけているわけですが、吉川氏によれば、そも「進化」と「発展」をごっちゃに論じることそのものがダーウィニズムとは全く異なるスタンスだというのです。

進化は、劣ったものから優れたものへと一直線に上昇していくようなものではなく、「適者生存」は優れたものが生き残るという意味でもない。進化の結果は優れていたという「能力」に依るものではなく、単なる「運」であり、「適者生存」の意味は「いま生存しているものを適者と呼ぶ」というだけのことである……この本では、なんだか身も蓋もないような事実を知らされることになります。これだけでも、私たちが何となく生きるための拠り所としている価値観が大きく揺さぶられるような気がしませんか。

刺激的なブックレビュー

『人間の解剖はサルの解剖のための鍵である』は吉川氏の論考や、対談、鼎談、さらには人物の列伝やブックレビューなどが詰まったアンソロジーのような本です。認知革命や進化と絶滅に関する章も大変刺激的なのですが、ブックレビューが秀逸だと思いました。これほど「片っ端からすべて読みたい!」と思わせられるブックレビューを読んだことがありません。


人間の解剖はサルの解剖のための鍵である

すでに注文したり図書館で借りたりして、現在私の目の前に大きな「積ん読」の山ができていますが、例えばジョナサン・ハイト氏の『社会はなぜ左と右に分かれるのか』の書評。「右と左」、「保守とリベラル」など様々な対立や分断は今のこの国でも顕著ですし、私はその対立や分断がちょっと看過できないほどに大きくなってきていることに漠然とした不安を抱いている者ですが、ここにはその処方箋のひとつになるであろう姿勢が提示されます。

少なくともいえるのは、それぞれの陣営が反対陣営にたいして抱く印象とは異なり、分断は善き人びとと悪しき人びととの間にあるのではないということだ。分断はむしろ善き人びとどうしの間にある。お互いに相手を悪しき人びとであると即断しないで、粘り強く議論する姿勢が必要となるだろう。

これは大切な指摘です。様々なムーブメントでは必ずと言っていいほど内部での対立や党派性の主張が昂進し、それがムーブメントの退潮や自壊にまでつながっていくことがよくあります。また完全に住む世界が違う、まるで異星人のように思える相手の主張でさえ、それを腑分けして見る必要はあるかもしれません。これは今の私たちにとって大きな課題ではないでしょうか。


社会はなぜ左と右にわかれるのか――対立を超えるための道徳心理学

また、ラファエル・A・カルヴォ氏他の『ウェルビーイングの設計論』についての書評。ウェルビーイングとは心理学の一分野で、人間が公私ともに活き活きと健やかに生きていける状態を実現するための方策です。個人的には「小確幸」とか「マインドフルネス」、あるいは最近ジム通いをするようになってとみに意識するようになった「QOL(生活や人生の質)」と強い結びつきを持って捉えているキーワードです。

世界中のスマートフォンユーザーが日々感じている小さなストレス——ボタンの押し間違いやテキスト選択の失敗、アプリの強制終了など——をぜんぶ足し合わせてみたら、人間のQOL(生活の質)や経済活動へのかなりの規模の損失が確認できるのではないだろうか。ポジティヴ・コンピューティングの任務は重い。

同感です。スマホのみならず、あらゆるデジタルデバイスで同じようなことが言えますよね。個人的にはWindowsパソコンの「非ウェルビーイング性」はそろそろ何とかしてほしいです。Windowsが世界標準になったことで、人びとの心身にもたらされたストレスを考える時、その不幸の大きさに天を仰いでしまいます。もっとも、他のシステムが世界を席巻していたとしても、また別のストレスが発生した可能性は大きいですが。

ここに出てきた「ポジティヴ・コンピューティング」とは、テクノロジー、それも今や私たちの生活に必要不可欠な存在となったデジタルテクノロジーを、いかに人間に寄り添い、人間を幸福にする方向で活用するかという意味合いです。いままでは効率性一辺倒だったテクノロジーを再検討するための方策としてもウェルビーイングの考え方が有用ではないかというわけです。


ウェルビーイングの設計論-人がよりよく生きるための情報技術

翻訳者のお仕事に感謝

このように、吉川氏のブックレビューは知的好奇心を刺激されること半端ないのですが、それと同時に、こうした海外の数々の知見、それも最先端の知見が日本語で読めることの幸福を今さらながらに噛みしめています。

それもこれもひとえに優れた翻訳者の方々の営為があってこそ。昨今は機械翻訳の登場などで価格破壊がひどく(英語の業界は詳しくありませんが、中国語の業界に関しては目も当てられない状況です)、「まあ、ざっと意味が分かりゃいい」的な大量の機械翻訳と、“信・達・雅*1”を兼ね備えたハイエンドな翻訳に「二極化」している業界ですが、こんな時代だからこそ、私たちはもっと翻訳者を大事にしないと、近い将来、最新の知見は英語でなければ摂取できない国になってしまうかもしれません。

そうなれば人びとの知的コンテンツに関する格差はさらに大きくなってしまうでしょう。すでにそういう国は世界中にたくさんあるのです。先般旅行した北欧のフィンランドでさえ、大きな書店の半分かそれ以上の棚は英語の本で占められていました。言語自体の規模も関係していますが、母語であるフィンランド語だけでは様々な知見に充分にアクセスできないのです。

f:id:QianChong:20180323142143j:plain:w300

私たちは母語である日本語で森羅万象を切り取ることができるというこの幸福にもう一度思いをはせ、それを見据えた外語教育を構築していくべきだと思います。そしてなによりいま現役の翻訳者を大切にしてほしい、翻訳という仕事で食べていけるようにしてほしいと思います。

……あら? 最後はなんだか身内びいきの「ポジショントーク」になってしまいました。

*1:近代中国における啓蒙思想化で翻訳者でもあった厳復(げんぷく)による翻訳が備えているべき原則です。信:原文に忠実であること、達:原文に引きずられず分かりやすい表現であること、雅:さらに文章全体が美しいこと(ほかにも様々な解釈があります)。ところでいま気づいたんですけど、「適者生存」も厳復の訳語だったんですよね。