インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

黒歴史はあまり聞いたことがないって

華人留学生の通訳クラスで、無国籍の問題に取り組まれている陳天璽氏の講演を教材に使いました。


【一席】陳天璽:無國籍生存

とても分かりやすい中国語ですし、無国籍者としてのご自身の体験も語られており、国民国家とは、国籍とは、難民とは……と、考えさせられる内容です。留学生のみなさんは中国や台湾が対峙している現状から見れば「第三国」である日本に留学しているわけで、この貴重な機会に様々な角度から自らの国や地域や国籍や国際問題などを考えてもらう小さなきっかけになればいいなと思ってこの映像を選んでみました。

この映像の中に、タイの国境地帯で暮らすベトナム難民の話が出てきます。そこで陳天璽氏が出会ったあるお年寄りの息子は日本で不法滞在状態になっているのですが、そのくだりで “他到日本就黑下來了(彼は日本で不法滞在状態になってしまった)” と言っています。この “黑下來了” 、一般的には “天黑下來了(日が暮れた/空が暗くなってきた)” のように使うのですが、ここでは “黑” が「ブラックな」とか「闇の」といった比喩的な用法で使われています。

この “黑下來了” について華人留学生のみなさんが何となくピンときていなかった様子だったので、私が「だって “黑戶” とか “黑孩子” という言葉もあるじゃないですか」と言うと、ますます狐につままれたような表情。特に “黑孩子” については多くの華人留学生がご存じないようでした。

“黑孩子” とは、一人っ子政策の中国で、二人目を産んでしまった場合、正式に出生届を出せないために戸籍上存在しない状態になってしまった子供を指します。

黒孩子 - Wikipedia

そこで試みに「 “黑五類” は?」と聞いてみたところ、全員が「初耳」といっていました。対概念の “紅五類” も知らないそうです。なるほど、“80後(パーリンホウ・1980年代以降に生まれた若者)” や “90後” 、あるいは “95後” と先行世代とのジェネレーションギャップが報じられて久しい中国ですが、ついにこういう時代になりましたか……と、ある意味感慨深いものがありました。

“黑五類” とは、中国の文化大革命期に人民・労働者階級の敵として分類された五つの出身階層である「地主、富農、反革命分子、破壊分子、右派」を指します。現在では使われなくなった「死語」に等しい言葉ではありますが、中国の近現代史においてはとても重要かつ象徴的な意味合いを持つ言葉です*1

黒五類 (文化大革命) - Wikipedia

とはいえ、まあ仕方がないですよね。当の中国政府が反右派闘争や文化大革命など自らの「黒歴史」を封印して、あまり若い世代に伝えないよう、知らしめないようにしているのですから。「六四」、つまり1989年の天安門事件(第二次)すら知らない華人留学生もすでに登場しています*2。まあ近現代の歴史教育については、日本だってあまり人様のことを言えた義理じゃないんですけど。

www.nikkei.com

それでも、冒頭にも書きましたが、せっかく日本という「第三国」にいて、自国にいたときとはまた異なる情報にアクセスできるのですから、歴史を客観的に見据えるためにもぜひ色々と知り、これまで教わってきたことと引き合わせながら考えてもらえたらうれしいなと思います。「寝た子を起こすな」と言われるかもしれませんけど。

また留学生のみなさんの親御さんの世代は現在40歳代から60歳代くらいで、このあたりの体験は深く身体に刻み込まれているはずですし、現在中国語圏の政財官界で中心的な役割を担っている方々もこの世代が中心。ということは、背景知識としてこうした歴史をきちんと理解していることが仕事の現場でもきっと活きてくると思うのです。

普段華人留学生、なかんずく中国人留学生に接していると、中国の近現代史、特に中華人民共和国における改革開放以前の「微妙」な時期の歴史については、若い方々の知識からは急速に抜け落ちて行っている(抜け落とさせられて行っている)印象を持ちます。“文革” 自体はまだしも “插隊” も “批鬥” も “老三屆” も “樣板戲” も “忠字舞” も、ほとんどの方が「あまりよく知りません」という感じ。今日は “老三篇” について聞いてみましたが、これも「初耳」だそうです。もちろん “為人民服務*3も “紀念白求恩” も “愚公移山” も。

老三篇” は毛沢東の短い演説の中でも一番有名なもので、文革当時はほとんど「神格化」されていました。そして今ではちょっと信じられないようなハナシですが、日本でも当時の中国にシンパシーを感じていた人々や一部の中国語学習者の間では、全文を暗記するなんてことも行われていました。

私が中国語を学び始めたのはそういう頃からはるかに時代が下ってからですが、それでも先生方の中には暗誦できる方がいたように記憶しています。何だかすごい時代ですが、でも改めて読んでみるとこれ、なかなか読ませる文章なんですよね。さすが一世を風靡しただけのことはあります。また中国語の文法的には(当然ですけど)完璧ですし、教材として用いられたのもうなずけます。

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老三篇 - 维基百科,自由的百科全书

ともあれ、こうした近現代史の記憶が、現代中国の若者から急速に忘れられているというのはなかなか興味深いです。私が担当しているクラスの留学生は比較的裕福な家庭の子弟が多いようですから、もちろんこれだけで中国の若者全体が……などとは決して言えませんが。そのうち“毛澤東”や“周恩來”も「誰ですか?」という方が出現するのかな。いや、もっと若い世代にはすでに出現しているかも知れませんね。“毛澤東? 這是什麼東東?*4”……って。

ちなみに冒頭でご紹介した陳天璽氏の取り組みについては、こちらの動画とご自身の著書も大変に見応え・読み応えがあります。合わせておすすめです。

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無国籍 (新潮文庫)

*1:胡麻や黒米などを原料にした健康食品の商品名にも一種の諧謔的に用いられています。

*2:同僚の中国人講師にそう言ったら「そりゃそうですよ。文革はまだ概略程度は教えますけど、六四に関してはタブーだから絶対教えないですもん」と言われました。

*3:このスローガン自身はもちろん知ってるって。

*4:毛沢東? それってナニ?」という感じ。中国語の“東西”は「もの(グッズ)」という意味なのですが、それをもじって“東東”というと、ちょっと冗談めかした感じになります。それが“毛澤東”と脚韻を踏むと、さらにファニーな感じになるんですね。