インタプリタかなくぎ流

“Might come in handy one day.”

お能の稽古における一見相反するような指示

昨日は能の温習会の「申し合わせ」でした。「申し合わせ」については、the能.comの「能楽用語辞典」に簡にして要を得た解説が載っています。

能・狂言の「リハーサル」のこと。通常、上演当日の数日前に諸役が集まり、当日と同様の流れで行われる。面や装束は着けないことが多く、大鼓も楽器を用いず拍子をとるための扇(張扇)で代用する。よほどの大曲か、上演が稀な曲でなければ、申し合わせは一回だけである。略式には、当日の楽屋でシテとワキ、ワキとアイなどが関係する部分だけを申し合わせることもある。
申し合わせ (もうしあわせ)とは:the能ドットコム:能楽用語事典

能のお稽古を始めてから知って驚いたのですが、能の上演に際して、プロの能楽師の方々は出演者全員が集まって稽古したり、リハーサルしたり、公演直前の「ゲネプロ(本番同様に行う通し稽古)」をしたり……はほとんどないんですね。リハーサルやゲネプロにあたる「申し合わせ」は、上記の解説にもあるように衣装はつけませんし、みなさんほとんど稽古着か、ときには私服のまま参加されています。

それも最初から最後まできっちり行うというよりは、「じゃ、始めましょうか」という感じで始まり、時に部分を割愛して重要なところだけとか、いくつかのポイントについて確認して「こうこう、こういう感じで……」と軽く調整するだけとか、そんな「ノリ」です。

さらに言えば、本番当日も特にストレッチとか柔軟体操とか発声練習とか、演劇なら当然行いそうな数々の準備を、プロの能楽師の方々はどうやらほとんど行わないらしいんですね。私は大学で演劇研究部に属していましたが、劇場や舞台にやってきて、着替えてはい本番、という「ノリ」はあり得ませんでした。

これはつまり、プロの能楽師の方々が日頃からそれぞれ稽古を積み重ねていて、本番の際にはいつでも「待ったなし」で技芸を発揮できる状態に持って行っている、常に他の能楽師との「同期」が可能な状態に鍛錬ができているということなのでしょう。能楽は流儀によって細かい型や所作や詞章が細かく定められており、一見ジャズのセッションのようにも見え・聞こえるお囃子の音楽にも、実は精緻とも言えるほどの細かい決まりがあり、それに従って演奏されています。

とはいえ、では能が決まり事でがんじがらめの硬直した芸能かというとまったくそうではないのが至妙なところでありまして、そうした決まり事の大伽藍のような完成された体系の中で、それぞれの能楽師が稽古や鍛錬の末にたどり着いたその人にしかない個性が強烈に発揮されるのです。

いま私は「されるのです」などとしたり顔で書いていますが、正直、私はその「個性」あるいは強烈な何かに接した! と感じることができた体験はこれまでにそんなに多くはありません。ただ、何名かの能楽師の舞や所作に、確かにこちらが揺さぶられるようなある種の感動……というと何だか薄っぺらいですが、なんとも名状しがたい美や強さを感じたことはあります。お能が奥深く味わい深いゆえんでありまして、それをまた感じてみたいがために能楽堂へ足を運ぶのです。

……えー、一方で私たち「素人」の温習会ですが。

地謡がつくだけの「仕舞」は普段のお稽古と同じですから直前の特別なリハーサルは基本的にないのですが、「舞囃子」や「能」に挑む素人さん(私は今回「舞囃子」です)は、会の直前にプロの能楽の方々にもご足労いただいて「申し合わせ」が行われます。ここで師匠から最後の「ダメだし」やアドバイスがあることも多いです。

このアドバイス、常日頃のお稽古でも感じるのですが、一見それまでの指導とは真逆のことを言われることも多いです。例えば、お囃子の音をよく聞いてそこを外さないようにと言われたかと思えば、音を待って歌うのではなくその先で合わせるようにしなさいと言われるとか……。舞にしても、前に出る強さをと求められる一方で前につんのめりすぎることなく後ろに引く余裕をとか、雄大で大きなイメージを持ちつつも大雑把になりすぎず細部をきっちり抑えなさいとか……。

いま私は師匠の言葉を忠実に再現できておらず、一見真逆のことを言われるという一つの例示を行っただけなので実際にはこの通りのことを言われたわけではないのですが、とにかくお稽古をしていると、こうした相反する指示が同時に行われることがとても多いのです。能の舞とは演者が舞台上に単に佇んでいるように見えても、実は前に行く力と後ろに引く力が拮抗してギリギリ止まっていて内部には巨大な力が潜んでいる、それが存在の強さとなってこちらに伝わってくる、というようなものなのかもしれません。

私のような素人はとてもそこまでの身体技法を発揮できませんが、明日の温習会ではとにもかくにもまずはお囃子に乗ってきちんと舞い、拍子が踏めること、すべての型を基本通りに再現できることを目指したいと思います。「個性」? そんなの百年早いという感じです。

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