インタプリタかなくぎ流

“Might come in handy one day.”

華人留学生の「鬼門」単語攻略のために

新学期が始まったばかりのこの時期、華人留学生の通訳入門クラスではまず人名や地名の「クイックレスポンス」から始めます。クイックレスポンスは、二人ひと組になって、出題側が日本語か中国語の単語を言い、回答側が即座にその訳語を言う訓練です。もし回答側が「う〜んと……」と答えに窮したら、出題側がすかさず答えを言い、次の単語に移ります。こうして、出題側に答えを言われちゃう前にその単語の訳語を言う、というプレッシャーを感じながらゲームのように行う訓練です。

クイックレスポンスは、通訳業務の前に専門用語や技術用語(テクニカルターム)、業界用語などを身体に馴染ませるために行います。なぜこんなことをするかというと、それらの用語は日常生活ではほとんど馴染みのない言葉のため、現場で「う〜んと……」となって訳出に窮することがあるからです。いわば「にわか仕込み」というか「一夜漬け」というか、そんな感じで身体に叩き込んでおいて現場で通訳し、業務が終わったら即座に忘れて(忘れなくてもいいけど)次の業務の単語を覚えるのです。

特に人名や地名は、前後の文脈に関係なく出現する「独立した固有の情報」です。「私は明日『北京』に行きます」という文章と「私は明日『台北』に行きます」という文章を比べても、「北京」か「台北」かは前後の文脈からは判断できないですよね。つまりそこを聞き落としたら、もしくは訳せなかったら、文章全体の訳出が「アウト!」ということになってしまいます。人名もしかり(あとこれはクイックレスポンスの対象ではないけれど、数字も「前後の文脈から独立した固有の情報」です。ですから通訳の際には必ずメモすべし、と教えられます)。

というわけで、一般常識的に知っていなければならない人名や地名を、日本語と中国語の両方で身体に叩き込んでおき、訳出の際には「う〜んと……」と考えることなく、ほとんど「脊髄反射」のように対応できるよう、こうしたクイックレスポンスの訓練を行うわけです。まあほんとはこんなに大仰にいわなくても常識として知っているべきなんですけど、ここ十年くらい華人や留学生(加えて日本人)の通訳訓練を行ってきて感じるのは、この人名や地名が意外に「鬼門」というかウィークポイントだということです。

例えば“毛澤東”を「もうたくとう」、“蔣介石”を「しょうかいせき」あたりでも、人によってはかなりあやしい感じです。また日本と中国や台湾、あるいは日本と韓国は、こうした名前の読み方に「相互主義」を取っていて、中国語・日本語はそれぞれの国の漢字の読み方で、韓国語・日本語はお互いの国の読み方で、というのが一般的です。つまり……

中国・台湾側は「安倍晋三」を“Anbei Jinsan(アンベイジンサン)”と読み、日本側は“習近平”や“蔡英文”を「しゅうきんぺい」「さいえいぶん」と読みます。そして韓国側は「安倍晋三」を“아베 신조(アベシンゾウ)”と読み、日本側は“문재인”を「ムンジェイン」と読むのです。

まあこれは一般常識の範囲で、個人的にはあらためて学校で教えるほどのものでもないような気はしていますが、そこはそれ、よく分かっている方がいる一方で、驚くほどこの辺りの知識が入っていない方もいるので、いちおう確認という意味で授業に取り入れています。まあ今のところ“毛澤東? 這是什麼東東?(もうたくとう? なにそれ?)”とのたまような方にはまだお目にかかっていませんが。

それから地名もけっこうな「ウィークポイント」です。北京や台北などはともかく、地方の都市や省名などになると、日本語で正確に発音できない方がほとんどだと言ってもいいくらいです。中国語の人名や地名が日本語になると、基本的には「日本語の漢字の音読み」が適用されますが、音読みが複数ある漢字も多いですし、また音読みの知識自体があやしい方もいますし、さらには例えば“広東省”は「こうとうしょう」ではなく「かんとんしょう」、“西蔵”は「せいぞう」ではなく「チベット」など、習慣的に音読みではない読み方をする地名も多く、こうしたところまできちんと押さえている方は、通訳訓練を始めた段階の方では皆無です。でも仕事の現場でこういう部分を間違えると、かなり恥ずかしい&能力を疑われる結果になるので、ひとつひとつ確認しながら、知識を補強していくのです。

昨年まではこの「クイックレスポンス」、Excelでグロッサリー(単語帳)を作って、それをみんなでシェアして、PowerPointのスライドショーを使って次々に投影しつつ訳してもらったり、二人ひと組の練習を重ねたりしてきたのですが、今年はQuizletのサービスを使って、スマホで練習してもらうかなと思っています。ご多分に漏れず、華人留学生のみなさんもスマホは“愛不釋手(片時も手放せない)”ですから、いっそのことそのスマホを使えば、少しは訓練にも身が入るのではないかと。

quizlet.com

地名・人名もさることながら、日本語の外来語(カタカナ用語)も華人の皆さんにとっては「鬼門中の鬼門」です。これは留学生のみならず、来日何十年という日本通で日本語の達人ような華人の方であっても、例えば“里約熱內盧”を「リオデジャネイロ」とか“共識”を「コンセンサス」など、きちんと発音できたり、書けたり(あるいはパソコンで打ったり)という部分が意外なほど弱い方が時折おられます。「リーユエルーネイル—」などと中国語の干渉受けまくりな発音になったりするので、私が「そうジャナイロ!」などとウケを狙ったりしています。

閑話休題

というわけで、いくつか試験的に作ってみたQuizletの「学習セット」を公開しておきますので、ご興味のある方は遊んでみてください。Quizletの利用自体は無料、スマホアプリもiPhoneAndroidともに無料で使えます。

quizlet.com

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……それにしても。本来ならこういう部分の補強は、学習者自らが黙々と営々と積み重ねるべきものなんです。諸先輩方もそうしてこられたはず。私は仕事の一環ですからこういう教材も作りますけど、作りながら“You can lead a horse to water, but you can't make him drink(馬を水辺に連れて行くことはできても、水を飲ませることはできない)”ということわざが脳裏をかすめます。留学生のみなさんが、楽しんで練習してくれたら本望なんですけど。