インタプリタかなくぎ流

“Might come in handy one day.”

差異を認めて知ろうとすること

見逃していた正月時代劇の『風雲児たち蘭学革命篇(らんがくれぼりゅうしへん)~』、NHKオンデマンドに早くも上がっていたのでさっそく視聴しました。
http://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2017084181SC000/index.html?capid=sns002

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みなもと太郎氏の同名マンガを三谷幸喜氏が脚本化したものです。冒頭で「時代考証は大ざっぱである」と断っているから、あとはもう三谷ワールド全開。時代劇だけれど現代風の台詞回しで、出てくる俳優さんがどなたも芸達者で、所々に遊び心がちりばめられていて、まるで三谷氏の舞台劇を見ているような一種の凝縮感があるドラマでした。

『ターヘルアナトミア』を和訳するにあたって、一字一句もゆるがせにはすまいと訳語の同定に執念を燃やす前野良沢。それに対して分からない部分はいったん保留にしてとにかく先に進みましょうという杉田玄白。これ、翻訳作業における典型的な葛藤で、どちらも疎かにできないと揺れる振り子のようなものですね。個人的には、経験則として、とにかく先に進んで全体を俯瞰するほうが初手から細部に拘泥するよりはいいんじゃないかという考えですが、医学書などテクニカルなものの場合は訳語がぶれては意味がないので前野良沢のこだわりもよくわかります。

それにしても、辞書やインターネットがなく、ましてやオランダ語そのものを僅かな語彙を除いてほとんど知らないという状態で行う翻訳作業の困難さは想像を絶するほどです。ドラマではその辺りは一部のエピソード(例えば「スポンジ」を「水吸い・海綿」と同定する場面など)のみで描いていますが、実際には気の遠くなるような作業の繰り返しがあったはず。またこれもドラマではあまり重点を置いて描かれていませんが、オランダ語の文章を解したあとに達意の日本語で再執筆する作業、ここにも相当の艱難辛苦があったはずです。

語彙を同定する場面では、翻訳作業を担当した四人がああでもないこうでもないと議論を繰り返します。例えば“verhevene”という語彙から「うずたかし」「隆起している」に至る場面。そのいかようにも言い分けられそうな語彙を実際の文章ではどのように落とし込んだのか、和語の「うずたかし」にするのか漢語の「隆起」を選ぶのかの間で揺れる振り子の糸をどちらで切って落としたのか。その辺りもきっと侃々諤々の議論があったんじゃないかと想像します。ちなみにいま“verhevene”をGoogle翻訳にかけてみたら「上昇した」だって。ああ!

外語に関する情報がほとんど手元にない状態から、何とかしてそれを分かろうとする知識欲には圧倒されます。前野良沢杉田玄白らは異なる言語や異なる文化を知りたいと思い、母語をベースにその壁を乗り越えようとし、その壁の先で見えた風景をまた母語にフィードバックすることで知を前に進めたのですね。まさに、言語の差異があったからこそ、それを乗り越える営為の中で人類の知は進化してきたわけです。差異を認めること、自分と違う世界観を理解したいと願うことは教養の第一歩ですよね。

知は差異に宿る。それはGoogle翻訳が普及しつつある今とこれからにおいても変わらないと思います。