インタプリタかなくぎ流

“Might come in handy one day.”

能と「互動」

先週末の能楽堂でのお稽古会(発表会)も終わり、暮らしも仕事も通常モードに戻りました。今回は連吟で「敦盛」「紅葉狩」「枕慈童」を謡い、初の舞囃子で「賀茂」を舞いました。終わってみれば「まだまだ」とため息ばかりの結果ですが、まあ何とか間違えずに、途中で止まらずに、最後までつとめおおせることができてよかったです。

舞囃子はコーラスである「地謡」の他に、オーケストラである「囃子方」の笛、小鼓、大鼓、太鼓が加わります。地謡は大先生(おおせんせい)のところの、この道数十年というお弟子さん方、囃子方はプロの能楽師の先生方です。ハッキリ言って不釣り合いですが、仕方がありません。

完全にすり合わせない

能という演劇は(便宜的に演劇と言っちゃいますが)ちょっと特殊で、リハーサルが一回しかありません。通常、演劇なら台本の読み合わせから始まって、立ち稽古、通し稽古、本番と全く同じ照明や衣裳や音楽のもとでおこなうゲネプロまで、何度も調整を行いますよね。それが、直前に一度だけ。それもタイミングを確認する程度の簡易なもの。

要するに(とまとめてしまうのも強引かつ粗雑ですが)、俳優もコーラスもオーケストラもそれぞれ日々稽古に励んで技術を極限まで高めておいて、本番でお互いの技術を発揮しつつも相手との微妙な間合いをとってその時だけの達成を作り出すという……。それだけ古来からの型が継承されて内在化されている、だから何度も調整する必要はないということなんでしょうけど、逆に全部型どおりにすり合わせちゃったらかえって面白くない、ということなのかもしれません。

さらに驚くのは、舞台へ出る前に準備運動とかストレッチとか発声練習とかをどうやらほとんどしないようなんですよね。これも西洋的な演劇のあり方からすれば、考えられないことかもしれません。どれだけ「技」が身体と同期していて、いつでも「待ったなし」で使える状態になっているんだということですが。*1

初めての申し合わせ

で、そんなプロの能楽師の方々ならまだしも、私のような素人はそういうわけにもいかず、師匠は何度も通しの稽古につき合って下さいました。そして、本番の二日前に、実際の能舞台で、地謡とお囃子も加わった「申し合わせ」というリハーサルに生まれて初めて参加したわけですが……。

いや、もう、とにかくお囃子の音の巨大さにびっくりしました。ふだん見所(客席)から鑑賞している時とは桁違いの迫力です。あれは何だろう、舞台の上にある屋根に反響しているからなのか、音の洪水と言ってもいいほどの怒濤の音量でした。能楽師の方々は普段、こんな音の中で時にあの静かな舞を舞っているのか、と驚きました。

舞囃子「賀茂」では、自分が舞い始める前に地謡が「山河草木動揺して〜」と謡う部分があるのですが、山河草木どころか自分が大いに動揺しちゃって、そのあと立って舞い始めるも、かなりの混乱状態でした。というわけで拍子は踏み外すわ、囃子方のかけ声は聞こえないわで、さんざんな結果に終わりました。

そのあと師匠からいろいろと注意を頂いて、とにかく普段の稽古よりもずいぶんゆったりした流れになること、特に自分が謡う「シテ謡」の部分はもっとたっぷり謡うこと、その中でも緩急をつけ、メリハリを持って舞う必要があること*2……等々を肝に銘じつつ、その日の晩もアパートの屋上で練習しました。

で、本番。初めての「申し合わせ」でようやく得心がいった部分をいくつもおさえたので(太鼓が「シテ謡」に合わせてリズムを刻んでいることすら分かってませんでした)、それほど動揺せずに舞うことができました。それでもいくつかタイミングを間違えましたし、あとから録画を見てみたら、緩急があまり効いてなくて全体的にゆったりした静かな舞になっちゃってました。「山河草木動揺」するくらいの「雷(いかづち)の神」が主人公の、特に強さが必要な舞だというのに。

お互いに動く

反省することしきりですが、ひとつ腑に落ちたことがあります。それは中国語の「互動(hu4 dong4)」ってこういうことかしら、ということです。「互動」は現代の中国語でよく使われる言葉で、まあ「双方向の働きかけ」とか「インタラクティブな動き」とか、もっと平たく「コミュニケーション」といった意味ですけど、能というのはこの「互動」の世界なのかもしれないと。

能が入念なリハーサルは行わずに、ほとんどぶっつけ本番で、しかし深い達成を示すことができるのは、演者もコーラスもオーケストラもお互いがお互いの動きに神経を研ぎ澄ませ、あっちがこう出たからこっちはこう受けるとか、ここを押されたからここを引いてみるとか、そういうことをその瞬間瞬間で緻密に繰り返しているからなのかもしれません。

そして私のような素人が、まだまだ箸にも棒にもかからないのは、その「互動」が立ち上がっておらず、単に自分だけ突っ走ってしまったり、逆に地謡やお囃子の声や音に気圧されてしまったりしている段階だからなんですね。逆にプロの能楽師の舞台に気力や気迫が充満しているのは、絶えず繰り返される「互動」が最大限かつ最適な形で発揮された結果なのでしょう。

また来年の会に向けて、細々とですがお稽古を続けて行こうと思います。伝統芸能の稽古を続けていると、やりようにもよるけれどそれなりにお金がかかるし、だからといって例えば絵画や骨董品のように手元に何か形のある物が残るわけでもありません。単に身体の記憶が積み重なって行くだけ。で、死んだら「遺産」も残らず、全部無に帰しちゃう。でもそれがいいんですよね。

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*1:その証左に、たまたま急用で休まれた方の代演という形で、師匠がサプライズ舞囃子「田村」を舞われたんですけど、そのあまりの迫力に、隣にいた細君が「今まで素人さんのばっかり見てたから私にも分かる。プロの舞は全く違うねえ」と言っていました。

*2:そういえば今さらですけど「序破急」という言葉もありましたね。