インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

義父と暮らせば14:なぜ落ち着かないのか

今日はお義父さん、グランドゴルフで朝からお出かけでした。一緒に行っている弟さんの話によると、以前に比べてかなり動きが緩慢になっちゃったそうですが、それでも身体を動かしに行くのはいいことですね。

お義父さんが出かけている間、家の中は静かです。いや、いつもだって別ににぎやかなわけじゃないけれど、何だろう、この「落ち着く感」は。お年寄りが家の中に居ることを気にしないでいいというのがどれほど気の休まることか、私は同居をして初めて知りました。居れば些細な物音でも、頭のどこかに大丈夫かなという意識がよぎって、仕事や勉強に集中できないからです。

これで例えば同じ敷地内の離れに住んでいるとかだと、また違うのでしょう。家族が一息つくための「レスパイトケア」、本当に大切です。とはいえ昔は、年老いた親と同居なんてどこにでも見られた光景のはず。してみると、やはり慣れの問題なのか、誰かが理不尽に我慢させらせていた(たいていは「嫁」。うちの母親は後々まで苦労を語っていました)のか、単に私が人非人なのか。

かくいう私は学生時代や、その後就職してからも、今で言う「シェアハウス」のようなところに住んでいたことがあって、共同生活に離れているというか自信があったはずなのですが、なぜお義父さんとの同居は落ち着かないのでしょう。実の娘である細君も日々、「じいさんが家に居ると思うだけで落ち着かない」と言っています。なぜか。

いろいろと考えたのですが、これはたぶん我々夫婦が、お義父さんから信頼と尊敬を得ていないからだと思いいたりました。私は娘婿で、もともと他人ですから仕方がありませんが、実の娘である細君に対しても、根底の部分で信頼と尊敬がないからではないかと。

最近のお義父さん

高血圧のお義父さん、降圧剤の副作用かもしれませんが、味が分かりにくくなってきているようです。というわけでいきおい濃い味が好みに。私と細君がどちらも仕事で夜遅くなるときに配食サービスを利用してみたのですが、お年寄り向けだから薄味に作られているらしく、どのお店のをとっても「まずい」「二度と食べない」などと言います。

一方で、医者から言われていることもあって私が薄味にした料理にはあまり箸をつけないか、醤油やポン酢をどばっとかけて食べます。食べつけない料理だった場合にもあまり箸をつけず、でも物足りないんでしょうね、食べ慣れた乾き物やたくあんをおかずにご飯を食べるという感じ。細君は「作ってくれた人に失礼だろう」と激怒していますが。

デイサービスにはやはり行きたがりません。ケアマネさんがいくら勧めてもだめです。細君が「お父さんのためでもあるけど、私たちのためでもあるんだよ」と「レスパイト」の必要性を訴えますが、聞く耳を持ちません。やはり、高齢のお年寄りにとって、自分の生活パターンを変えることは容易ではないのだなと思います。

我々が外に出かけるときは、何時頃帰宅するかを言わなくてはなりません。帰宅が遅れると機嫌が悪くなります。以前細君が家を出て私と暮らしていたときは朝晩電話をしていたのですが、一度でも電話が途切れると職場にまで確認の電話をかけてきたそうです。夜の戸締まりは自分でやらないと気が済みません。休日の朝にゆっくりしていると「早く起きろ」と階下から声がかかります。これらは我々のことを心配してくれているようでもありますが、細君によると「自分が気持ちよく安心したいだけなのね。人の都合は考えていないの。昔からそう」。

それから、私の前ではめったに見せませんが、細君にはときどき「きーっ!」と「キレる」ことがあります。介護の仕事をしている私の妹によると、自分の思い通りに行かなくて「キレる」お年寄りは、圧倒的に男性に多いとのこと。どうしてでしょうね、自分の中で生き方が完結していて、周囲への対応を臨機応変に調整したり、相手の立場を想像してみたりということができないのかもしれません。

自立と子離れ

以上は、総じて他者に対する信頼と尊敬があればそれぞれ違うありようになるんじゃないかなと思うんです。やはりお義父さんは「自分のことしか考えてない」のでしょうか。我々との同居にしても、持ちつ持たれつという気持ちはないのでしょうか。実際には衣食住のほとんどを我々が回しているとしても、お義父さんにとってそれは、家に住まわせてやり光熱費も出してやっているのだから当然、ということになるのでしょうか。

だとすれば、ある意味、お義父さんは自立(自律)あるいは子離れができていないとも言えます。家族は自分の従属物ではなく、同居はしていてもそれぞれにさまざまな人生があり、それをひとりひとりが律して生きているのだという点に想像が働いていないのだとしたら。そして認知症も始まった現在、お義父さんがそこから脱して新たなありように進むことは……難しいのだろうと想像せざるを得ません。

でも、ここまで書いて「信頼と尊敬がない」のは実は我々も同じではないかと思いました。我々はお義父さんに対して、「もう理性的に何かを判断できるような状態ではなくなっているから」と半ばあきらめ、半ば突き放したような気持ちで接することがありますが、それを実はお義父さんも感じているからこその今の態度・スタンスなのかもしれない、そんなことを考えたのです。

追記

……と、朝日新聞のウェブサイトで高橋源一郎氏のこんな時評を見つけました。

たとえば、いま「認知症ケア」は、無能者を施設で管理する、という考えから、「認知症の人の行動には人間らしい理由が必ず潜んでいる。人格や人間性が失われる病気ではない」という考えへ移りつつある。家族だけではなく、医者が、介護士が、あるいは近隣の人たちが、見つめ、触れ、語りかけることで、「同じ人間の仲間である」と感じさせることで、「認知症」の進行を遅らせることも可能なのだ。それは、「高齢化」の中で、社会が見つけた、新しい形の「つながり」なのかもしれない。
(論壇時評)ひとりで生きる 新しい幸福の形はあるか 作家・高橋源一郎:朝日新聞デジタル

う〜ん。「認知症の人の行動には人間らしい理由が必ず潜んでいる。人格や人間性が失われる病気ではない」。まさに、そういう尊敬と信頼を持てるかどうかが課題なのですね。私はまだ自信が持てませんが……。