読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

インタプリタかなくぎ流

“Might come in handy one day.”

電子書籍版・夢野久作『能とは何か』

 KindleのPaperWhiteが欲しいな〜と思っていたんですが、よく考えたらiPodiPhoneiPadに加えてさらにポータブルデバイスを持ち歩くのも何だし、できるだけシンプルにひとつだけ持ち歩くとしたらやっぱりiPhoneだし、幸い視力はまだよくて老眼にもなっていないのでiPhoneKindleアプリを入れて読むことにしました。
 AmazonのKindleというひとつの「システム」、使ってみるととても快適です。読みたい本がクリックひとつで瞬時に手元に届いてしまうというのはちょっと「ヤバい」。こうなると、実物の本を手に入れるまでの労力(というほどのものでもないのに)と時間がとてもまどろっこしく感じられてしまいます。かつてはAmazonのお急ぎ配達で、朝注文したものがその日のうちに届いたことでものすごく感動していたのに、人間の欲望には“止境”というものがありませんね。
 ただ、電子書籍って何だか読了感、のみならず「読中感」*1が希薄で、でもこれは単に慣れの問題かしらとも思ってたんですが、『街場の文体論』で内田樹氏が人は本の厚みを感じながら読書をしているというようなことを書かれていて、思わず膝を打ちました。うんうん、読みながらよく小口を見て「あと1/3かな」とか思ってる。
 のみならず内田氏は、読書というのは「いま読みつつある私」と「もう読み終えてしまった私」の共同作業だと言います。特に、単に情報を仕入れるだけの読書ではなくて、わくわくどきどきしたくてする読書の場合、最後に読了するときの、何かがかちっと音を立てて合わさる時みたいな爽快感、達成感を念頭に置いて読み進むからわくわくどきどきするのだと。

 電子書籍で困るのは、「もう読み終えた私」の居場所がないということです。どこで待っていていいのか、わからない。だって残り頁数がわからないんですから。極端に言えば、自分が二頁で終わるショートストーリーを読んでいるか、二〇〇〇頁ある『戦争と平和』みたいな長いものを読んでいるのか分からない。もちろん、デジタル表示で「残り何頁です」ということは見れば分かります。でも、頁数をチェックしながら、あと残り何頁だからそろそろ読み方を変えないといけないなとか、そういう面倒なことは僕たちはできないんです。実際には、手に持った本の頁をめくりながら、手触りや重み、掌の上の本のバランスの変化、そういう主題的には意識されないシグナルに反応しながら、無意識的に自分の読み方を微調整しているんですから。その作業は微細すぎて、読んでいる本人の自分が何をしているのか、気がつかない。
街場の文体論』p.58

 たしかに電子書籍を読んでいると、この「終わりが見えない感じ」というのがたびたび意識に上がってきます。そして、例えばもうすぐ夕飯を作らなきゃいけないけどあと少しだから読んでしまおうとか、まだ後半がこれだけ残ってるから週末読むために取っておこうとか、そういう楽しみ方がしにくいですね。まあこれも慣れの問題かもしれませんが。
 ……などと思いつつもAmazonのKindleストアを渉猟しているときに見つけたのが、夢野久作の『能とは何か』です。もともと青空文庫に入っているもののようですが、Kindle版も¥0で、クリックすると瞬時にiPhoneなどのデバイスに転送されます。いやこの、瞬時に欲望が満たされちゃう感覚、やっぱり「ヤバい」。
 夢野久作というと、学生時代になんだか訳も分からず競うようにして『ドグラ・マグラ』なんかを読んだ記憶があります。そしてほんとに訳が分からなかった……内容は全く覚えていません。だから幻想作家というくらいの認識しかなかったんですが、実は能にも造詣が深く、AmazonのKindleストアにある解説によると……

 夢野は大正4年に喜多流十四世宗家・喜多六平太のもとに入門し、のちに十五世宗家・喜多実と親しくなったことから、宗家が発行する月刊誌「喜多」に能楽にまつわるエッセイを寄稿していた。

……んだそうです。知らなかった〜。
 早速読んでみましたが、1930年に書かれたものとは思えないほど新鮮で、特に前半は良質の能楽入門書になっています。これまで読んだどの能楽関係の入門書よりおもしろいと思いました*2。たぶんこれ、筆者である夢野久作自身が能楽師に入門し、仕舞や謡の稽古をしていたというのがポイントだと思います。なぜだか分からないけど能楽に惹かれ、ついに自分でも手足を動かすようになってしまった初心者・愛好者の気持ちがよく伝わってくるんです。だから能の稽古を始めた方が読むとより一層共感できるんじゃないでしょうか。

 畢竟「能」は吾人の日常生活のエッセンスである。すべての生きた芸術、技術、修養の行き止まりである。洗練された生命の表現そのものである。そうして、その洗練された生命の表現によって、仮面と装束とを舞わせる舞台芸術を吾人は「能」と名付けて、鑑賞しているのである。
 右に就いて私の師匠である喜多六平太氏は、筆者にコンナ話をした事がある。
 「熊(漢音ゆう)の一種で能(のう)という獣が居るそうです。この獣はソックリ熊の形でありながら、四ツの手足が無い。だから能の字の下に列火が無いのであるが、その癖に物の真似がトテモ上手で世界中に有とあらゆるものの真似をするというのです。『能』というものは人間が形にあらわしてする物真似の無調法さや見っともなさを出来るだけ避けて、その心のキレイさと品よさで、すべてを現わそうとするもので、その能という獣の行き方と、おんなじ行き方だというので能と名付けたと云います。成る程、考えてみると手や足で動作の真似をしたり、眼や口の表情で感情をあらわしたり、背景で場面を見せたりするのは、技巧としては末の末ですからね」
 「能」という名前の由来、もしくは「能」の神髄に関する説明で、これ位穿った要領を得た話はない。東洋哲学式に徹底していると思う。
能とは何か』能という名前

 全編こんな感じで、夢野久作の能への憧憬がちょっと暑苦しいほどなんですけど、でも能楽に対する見方がずいぶん変わる好著だと思います。現代の喜多流の方々がこの本をどう評価されているのか気になる……というか伺ってみたいところです。

*1:そんな言葉はないけど、読んでいるときの「いま本を読んでいるなあ」という手応え。

*2:例えば能の公演を観ると、舞台の後ろに一人か二人、ときに三人、ほとんど何もせずに座っている方がいて「後見」と呼ばれているんですが、この方々がこんなに大切な役割だったんだ!……と恥ずかしながら初めて知りました。