読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

インタプリタかなくぎ流

“Might come in handy one day.”

「型」を身につける

 シノドス・ジャーナルに興味深い記事が載っていました。『思考の「型」を身につけよう 人生の最適解を導くヒント』という本の序文を転載したものだそうですが、学校(特に高等学校以降の教育)で何を教えるかについて、以下のように書かれています。

 私は経済学者として大学や官庁などで経済理論と統計を教えています。「大学で教えています」と言うと、「大学教育はあまりにも現実離れしすぎている。もっと社会に出たときに直接役立つことを教えるべきだ」との批判をいただくことが少なくありません。
 このような実業界からの注文を受けてか、各大学では、専門分野よりも社会に出たときに役に立つ(かもしれない)「実践的な知識」を優先して提供する授業が増えてきています。近年では実業家やビジネスパーソンの講演や職場体験を組み込んだカリキュラムも珍しくはなくなりました。中には資格試験に特化した授業も散見されるようになっています。
 これらの実学化・資格試験特化路線は誤りです。いつもの講義の「箸(はし)休め」にはなっても、結局のところたいした役には立たないでしょう。20歳のときに聞いた「最新業界情報」は社会人になって実際に意思決定を行う十数年後には中途半端に古い業界昔話になります。そして、現場での直接的な経験ではない「経験談」「体験談」が役に立つほど、ビジネスの世界は甘くはない。専門職大学院ならばいざ知らず、文系の学部レベルでの実学指向は意味が薄いというのが私の意見です。むしろ、
 大学は浮世離れしたことを教えるべきであり、それが現実的にもっとも役に立つ
 というのが本書のメッセージの一つです。
http://synodos.livedoor.biz/archives/2006669.html

 同感です。この時期、電車など公共交通機関で各大学の入試やオープンキャンパスの広告を多く目にしますが、資格や仕事に直結した教育内容を謳い文句にしている学校がたくさんあって、どこか違和感を禁じ得ませんでした。もちろん「全入時代」にあって、どこの学校も志願者獲得に必死なので勢いそういう流れになるのかなというのは分からなくもないんですけど。
 うちは専門学校で、特に私が担当してきた研究課程はそのものズバリ仕事に直結した中国語力を養うという看板を掲げていますから何をかいわんやですけど、それでも私は「実践的な知識」重視だけではない教学がベースにあるべきだと思ってきました。
 例えば通訳クラスには、国土交通省が所管する「通訳案内士試験」を受験するために編まれた『中国語通訳案内士試験対策単語集』という分厚い単語集を、一年間かけて丸ごと暗記するというカリキュラムが組まれています。さまざまな分野の専門用語やテクニカルタームやことわざ・慣用句・成語に到るまで6000近くの語彙を毎週約250ずつ覚えていき、毎週テストを行って60点以下は再試験、再試験の半分は同じ問題半分は新しい問題……で、60点取れるまで何度でも追試を行うという、毎年生徒から決まって「鬼」とか「サド」とか「先生キライ」などという怨みつらみを聞かされるカリキュラムです。
 これ、一見、学校を出て仕事で中国語を使うときのための「実践的な知識」重視に見えるんですけど、よく考えてみれば化学用語とかマスコミ用語とか演劇用語とか、実際にその道に進む人以外、覚えてもたぶん一生使うことはない単語ですよね。それに悲しいかな人間の記憶力ははかないので、毎週250個もの単語を覚えて、それを全部忘れずにいられるということはありません。というか、ほとんど忘れる。
 じゃあなんでそんな徒労にも見えるようなことをやっているのかというと……
 1.単語を覚える過程で、日本語と中国語の発想法の違いが肌に染み込むように分かってくる。
 2.中国語の漢字独特の造語法が肌に染み込むように分かってくる。
 ……からです。
 長い歴史の中でその言語を使う人々が生み出し、使われる中で定着してきた言葉には、その言語を使う人々の発想法が凝縮されています。しかも漢字は造語力が強いので、一つ一つの漢字が持つ原義みたいなものを皮膚感覚で身につけることができれば、その漢字を用いた他の新しい言葉に出くわしたときにも、理屈抜きに深い意味が取れるようになります。こうしたベースを持つことで、チャイニーズと話すときにも、中国語の文章を読むときにも、素早く深い理解ができるようになると思うんです……たぶん。
 それから、この序文にはこんな文章も載っていました。

 突然ですが、武道や芸事には型(かた)稽古という練習があることをご存じでしょうか。これは、繰り返し何度も同じ動きの練習を行い、基本的な動作を体で覚えるものです。武道や芸事を始めたての人はもちろん、どんなベテランもこの型稽古を必ず経験しています。
 しかし、実際の武道の試合が型どおりに進むことはなく、芸事で型どおりの作品が人々の感動と賞賛を得ることもありません。型自体はたいていおもしろいものではないため、退屈に感じられる人も多いでしょう。
 それでも型稽古は多くの道場や稽古場において、基本中の基本として、ほぼ確実に行われています。
 退屈で直接役立つようには思われないものが、かくまでに重視されるのはなぜなのでしょうか。
 武道を例に考えてみましょう。何度も同じことを繰り返すことで、体が基本の動きを覚えるようになります。動きを覚えて初めて応用が利くようになり、試合で相手の動きに対応できるようになります。型を身につけていないと、自分がどのように動いていいのかもわからないでしょうし、当然相手の動きを見極めることもできません。

 これは語学も同じだと思います。語学は第一義的には音を聴いて音を発するという身体的な営みで、その基礎段階の訓練はスポーツなどのトレーニングに極めて似ています。特に日本語と中国語のような、語順がかなり異なる言語の場合、簡単で正確な語順の文章を繰り返し聞き、繰り返す発声する……ということを大量に、えんえんと行う必要があります。
 でもそれだと学習者は飽きてしまうので、手を変え品を変え、具体的にはいろんなシチュエーションを設定して、そのシチュエーション用の発言を練習するというカリキュラムが一般的です。例えばその国に旅行をするという設定にして、空港での会話・交通機関での会話・ホテルでの会話・買い物をするときの会話・レストランでの会話・トラブルに遭ったときの会話……というように。
 もちろんそれも必要だし、楽しいんですけど、本当は、語彙を徐々に増やしながら基本文型=型を繰り返し繰り返し練習することに専念した方がいいんじゃないかなとも思っています。でもそんな語学学校は生徒が集まらずにつぶれてしまうかな。
 余談ですが……

 実際の武道の試合が型どおりに進むことはなく、芸事で型どおりの作品が人々の感動と賞賛を得ることもありません。

……という部分、特にうなりました。いま能の「猩々」を稽古していて、昨日観た演目にも「猩々」があったので興味津々だったのですが、ふだん稽古している時の「型」と、舞台上の能楽師の芸とにものすごく開きがあってびっくりしたものですから。一見すると、ふだん教わっているような「型」通りでは全然ないんです。というより、「え、あんなんでいいの?」と感じるくらい。声の抑揚もはっきりしないし、手や足の運びもほんのわずかで「ビミョー」で。でもあれが、とことん型の稽古を積んだ先に行き着いた、演者独特の深みであり陰影であり余韻なんであり、能のいわゆる「幽玄」という世界はその中から立ち上がってくるものなのでしょうね。最初からアレを真似したら、単に「全然なっちゃいない」ということになるんでしょう。深い世界です。