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インタプリタかなくぎ流

“Might come in handy one day.”

専門家の役割

  この年末年始はどこにも行かず、ひたすら料理作りと読書三昧です。とりあえず「積ん読」になってる本を片っ端から読んでいますが、その一方で同僚から借りた『ガラスの仮面』全巻再(再々?)読破なんかもやっているのでなかなか消化できません。
  村上春樹の『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』と『走ることについて語るときに僕の語ること』を続けて読んでいて、昨晩内田樹氏のブログを巡回に行ったらこの二冊について書かれていて、ま、単なる偶然なんですけど、元旦ということでもあるし何かそこに意味めいたものを探してしまうのが人情というもので。
  内田氏はご自身が今年土地を手に入れ家を作ることになった、ということにからめて、土地やインフラや教育や行政のような「社会的共通資本」は「それぞれの分野における職業的専門家によって、専門的知見にもとづき、職業的規律にしたがって管理、運営されるものである」という宇沢弘文氏の論を紹介し、その「社会的共通資本」に「才能」も加えるべきとおっしゃるのです。

村上春樹の『走ることについて語るときに僕の語ること』や『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』は「書く」ことの専門家がその「専門的知見」と「職業的規律」について書いたものである(少なくとも私にはそう読めた)。
それは村上さんが「自分はある種の才能の受託者だ」というふうに感じていることを表している。
例えば、次のような文章にはその「受託者の自覚」が記されているように私には思われる。
「僕は決して選ばれた人間でもないし、また特別な天才でもありません。ごらんのように普通の人間です。ただある種のドアを開けることができ、その中に入って、暗闇の中に身を置いて、また帰ってこられるという特殊な技術がたまたま具わっていたということだと思います。」(『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』、文藝春秋、2010年、89頁)
その「特殊な技術」は大上段にふりかぶった文学理論や勘定高いビジネスマインドによって管理されるべきではない。その技術の使い方について、長期にわたって集中的に考えてきた「専門家」に受託されなければならない。
村上さんはたぶんそう考えている。
――fiduciary について−年頭のことば

  「才能」というと何だか「選ばれし者」みたいな排他的特権的なニュアンスも漂うのですが、これは「人が社会の中でそれぞれに果たす役割」のことだと思います。
  私は、今やっている仕事が自分の「専門」だとはまだなかなか思えないんですけど、最近ようやく「これが自分の役割なのかもしれない」とは思うようになってきました。本当に、ようやく。とはいえ何度も転職や「改行(職種を変えること)」を繰り返してきたので、「その技術の使い方について、長期にわたって集中的に考えてきた」とはとても言えません。
  今年は自分が何かの役割を果たすことができるように、そして「専門家」に近づけるように、技術の使い方を集中的に考えていきたい、と思ったのでした。