インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

北京の恋

  京劇『四郎探母』をモチーフに、日本人女性と中国人男性の恋がからみ、日中の間に横たわる「不幸な歴史」にも踏み込んだ中国映画。勤務する学校の「映画鑑賞会」ということで、映画館の上映一回分を借り切って鑑賞。個人的には『編輯部的故事』の孫鉄が監督ということで、興味があった。
http://pekingnokoi.jp/
  ヒロインは前田知恵という日本人女性が演じている。外国人として初めて、北京電影学院の本科を卒業した人だそうだ。もちろん彼女自身が流暢な北京語で演じる。これは学生にも刺激になるだろうし、最近の若い人は日中近現代史をあまりよく知らないし、「映画鑑賞会」としては妥当な選択かなと思っていた。見る前までは。
【ネタバレがあります】

  中国人俳優の演技は、相変わらず素晴らしい。特に文革で声をつぶされ、京劇の女形としての俳優生命を絶たれてしまった父親を演じる畢彦君。実際には京劇俳優ではないそうだが、ちょっとしたしぐさ一つに「かつて京劇の名女形だった男性」の身体に染みこんだ立ち居振る舞いが見て取れる(多少誇張されてはいるが)。脇を固める俳優たちもそれぞれにリアリティがあって、楽屋で忙しく動き回るスタッフや舞台袖で伴奏をするおじさんたちまで心憎い演技力を見せる。
  それに比べると、いや、比べるのもかわいそうだが、前田知恵の演技だけが浮いて見えるのがどうにも痛々しい。中国語はとても上手だけれど、あのべたべたした話し方だけはいただけない。
  しかし、この映画の問題点は他にある。前田知恵演じる留学生・梔子(しこ)の祖父が大晦日の晩にメールで告白する、かつて日本軍として中国大陸を侵略した際のカニバリズムの描写だ。
  年越しの際に肉入りの餃子をほおばる日本軍。その直前のシーンで中国人を暴行し、次々に射殺する残虐なシーンが挿入されているのだが、何とその餃子の肉がたった今殺した中国人の肉だという。
  あの戦争で、そういうことが全く行われなかったとは言えないかもしれない。極限状況で人肉を食べたという記録を読んだこともある。だが、「あの姉ちゃん、いいケツしてんなあ」、「軍曹に惚れてまっせ」というノリで女性の肉を食わせるこの映画の描き方はあまりにも浅薄で、日本人なら誰でもそういう人倫にもとることを鼻歌交じりでやってのけるという強烈なプロパガンダに縁取られている。たとえ当時軍曹だった梔子の祖父が事実を知って嘔吐し、深い罪悪感にさいなまされるとしてもだ。ひと言でいえば「ミもフタもない」のだ。
  ここまでミもフタもないことを、よりによって大晦日の晩に梔子やその恋人の鳴、鳴の父親・何翼初とその弟子・徐先生の四人で和気藹々と餃子を包み、食べている場面にぶつけ*1て一体どうしようというのか。
  いくら父祖の世代が侵略で残虐なことをしたからといって、その当人には全く身に覚えのない出来事なのだ。ここまで圧倒的な力で相手をぶちのめしてしまったら、羞恥も反省も、未来への希望や決意も一切生まれまい。ただただ暗澹とした後味の悪すぎる感情が残るだけだ。
  だいたいこの祖父も祖父だ。孫をかつて自分が殺した中国人の息子のもとに行かせ、京劇を習わせようとした一方で、大晦日の晩にこんな告白をして孫の留学を続行不可能にしてしまう。一体何がしたかったのか。映画の脚本としては完全に破綻している。
  孫鉄監督はそれでも「それほどミもフタもないことを日本人はしたのだ」と抗弁するだろうか。そうであれば、物語の終盤で何翼初が万感の思いを込めて絞り出すように語る、この感動的なセリフはいったい何のためだったのか。

戦争が私に残したのは、決して消えない傷跡だ。私の恨みは消せない。我々は永遠の“冤家*2”と言える。ただ、ご安心ください。あの子*3に罪はない。この話を決して、息子にはしません。私達は若い世代が、仲良くするよう願うべきだ。あの子達の事は、彼らに任せましょう。

  我々は「お隣さん」である中国に、否が応でも向き合っていかなければならない。日本人が過去に行った非道についても、向き合っていかなければならない。でもこの映画の描き方は、そういう気持ちを一気に萎えさせてしまう。若い人達は「ああ、中国と仲直りするにはあと五百年はかかるな」と思っただろう。そして「もう、や〜めた」と思ってしまうだろう。決して「友好」のためになるとは思えない。それくらいミもフタもなかった。
★★☆☆☆。

*1:しかも祖父がメールで長文の告白をし、それを梔子が「サイトラ」で中国語にする(日本語の文章を目で追いながら、同時に口頭で中国語に通訳していく)という設定。こんなショッキングな話を冷静にサイトラするなどありえない。

*2:敵(かたき)同士。だが「恨めしいが切っても切れない関係」という含意もある。

*3:梔子。