インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

コペンハーゲン

  1941年の秋、ドイツ人物理学者ハイゼンベルクが、ユダヤ人物理学者にして師でもあるボーアの自宅を訪れる。食事の後、ほんの十数分間の散歩から帰った二人はただならぬ様子で、かつて共同で量子力学を確立した二人はこの日を境に袂を分かってしまう。
  二人の間にどんな会話が交わされたのか、ハイゼンベルクの訪問の目的は何かを巡る、少々サスペンスがかった会話劇。
http://www.nntt.jac.go.jp/season/updata/10000120.html
【ネタバレがあります】

  休憩を含め、三時間近い上演時間をたった三人の俳優が演じる。物理学の用語が飛び交う膨大な台詞に圧倒されるが、話の大筋は第二次世界大戦末期の、原爆開発を巡る主張や立場の違いがベースになっているので分かりやすい。
  原子を回る電子を模しているとおぼしき円形舞台にリング状の回廊。刻々と、それも微妙に移ろい変わっていく照明。最低限の音響。あくまでも俳優の演技、それも台詞だけが頼りの、何ともインテリ受けしそうな硬派な芝居だ。
  ボーアの「相補性原理」やハイゼンベルクの「不確定性原理」などほとんど理解できない私でも、そうした理論と芝居で展開される「人間の信念や記憶や、はては実感までもが不確かなものだ」というのが通底しているのね、くらいは理解できました、はい。
  ハイゼンベルクとボーア、それにその妻マルグレーテ。すでにこの世を去ってしまっている三人が、あの世から当時を回想し、再現するという形で芝居は進行する。けれど、当時の回想が劇中劇として入れ子状に入り込み、二人が会話している時にもう一人がト書き風の独白を割り込ませたり、自身の台詞に解説を加えたりと、重層的な作り。よくまあこんな戯曲を作り上げたものだ。それを演じる俳優*1の技量もまた並大抵ではない。
  何年も前に買って、そのまま本棚の肥やしになっている『部分と全体』を読んでおけばよかった。

*1:村井国夫、新井純、今井朋彦