インタプリタかなくぎ流

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ソウル市民三部作

  平田オリザ作・演出の青年団公演。日本の植民地支配下にあるソウルで文房具店を営む篠崎家、その1909年から1929年までを描く、『ソウル市民』、『ソウル市民1919』、そして新作『ソウル市民 昭和望郷編』の三部作連続上演だ。
http://www.seinendan.org/jpn/seoultrilogy/
【ネタバレがあります】

  午後一時から九時半まで、途中一時間半ほどの休憩を挟みながら三本を連続して見た*1。テーマがテーマだし、退屈したらどうしようなどと考えていたのだが、三本とも時が経つのを忘れるほど引き込まれる、素晴らしい舞台だった。
  板張りの床に食器棚とダイニングテーブルなどだけが置かれた簡素な舞台。暗転もなければ音響も最小限のものだけ。時に舞台を長く沈黙が支配し、時に舞台に誰もいなくなってしまう。我々は篠崎家のとある一日の数時間をわずかにかいま見ているだけ――なのに、そこで交わされる「悪意なき市民たち」の会話から、植民地支配の醜さが浮かび上がってくる。
  日本の植民地支配については、一方に残虐非道の限りを尽くしたという懺悔があれば、一方に当節はやりの、経済発展にも寄与して結果的には良かったという正当化もある。この芝居ではそのどちらのステレオタイプにもくみせず、平凡な市民の日常、それも植民地支配が恒常化するにつれて進んでいく人々の「退廃」を描くことで、日本人と、さらには支配された側の人々にもぐぐっと内省をせまる力を備えるにいたっている。時間の経つのは早かったが、見終わったあとの感慨は深く、重い。
  「平凡な市民」と書いたけれど、事業を手がける篠崎家の家族構成はなかなかに複雑だ。腹違いの子供や、事業存続のための政略的結婚や、内地・朝鮮や南洋などの植民地・満洲へのそれぞれの思惑などが入り交じる。そこに日本人の女中や朝鮮人の女中がからみ、書生から朝鮮総督府の役人に出世した朝鮮人青年がからむ。日本語の他に、ほんの少しだが朝鮮語も混じる。平田オリザ独特の、複数の会話が同時に進行する戯曲とも相まって、片時も目を離せない張りつめた舞台になっていた。
  そうだ、さらには劇中、怪しげな手品師や相撲取りや、石原莞爾の『世界最終戦論』を信奉する芸術家集団(国柱会を標榜)まで登場するから、あまり平凡な家族とは言えないかもしれない(笑)。この怪しげな連中が巻き起こす怪しげなやりとりは、芝居ならではのお楽しみ。この三部作は基本的にコメディなのだ。その「まがい物」感たっぷりの怪しげな連中に笑って笑って、まだ笑いが残る口をひくつかせている時に、ふと植民地という巨大なまがい物の気味悪さが襲ってくる。
  賛美でも断罪でもなくて、当時の日本人の様子を史料などからできるだけ忠実に(といったって、想像に頼る部分がたくさんあるのだけれど)再現しようとすることで、日本人としての居心地の悪さ(?)を感じたのは、『虹色のトロツキー』以来だ。『革命京劇』などに出てくる日本人を見ても、ほとんどそんな気持ちにならないのだけれど。
  『ソウル市民』と『ソウル市民1919』は以前、韓国でも上演されたことがあるそうだ。この芝居を韓国人が見てどう反応するかというのは、ちょっと恐ろしいけれど覗いてみたい気もする。韓国公演前に日本での舞台を見た韓国人留学生は、「怒りで体が震えた」そうな。それでも「日本人自身が、これほど自分たちの醜さを客観化できることに驚いた」とつけ加えたという。しかも韓国で『ソウル市民1919』を演出した韓国人演出家が、観客に向かって「この作品は、韓国人作家によって書かれなければならない内容だった」と語るほど、彼の地の観客は成熟しているらしい。へええ。
  日中間がそこまで成熟するには、もう少し時間がかかると思う。つい、「うらやましい」と思ってしまった。

*1:三本はそれぞれ独立した演目なので、一本終わるごとに劇場を出る。