インタプリタかなくぎ流

“Might come in handy one day.”

タンゴ・冬の終わりに

  二十年前に渋谷のパルコ劇場でこの芝居を見たときの衝撃といったらなかった。今でもいろいろな場面をありありと思い出せる。そんな思い出の作品が同じ蜷川幸雄演出で再演というので、チケットぴあのプレリザーブに申し込んでおいたのだが、抽選結果ははずれ。一般発売初日はネットも電話もつながらず、数分で完売。悲嘆にくれていたところ「ヤフオク」の存在を思い出し、定価よりも幾分高めで落札。ただし二枚一組での販売だったので、芝居や映画の好きな同僚の先生を誘って見に行ってきた。
【大いにネタバレがあります】

  S席だってのに、この舞台を見下ろすような高さはなんだ〜、シアターコクーン。決して見づらくはないけれど、あの位置と舞台間近の一階席が同じ値段というのは、S席なのに舞台の三分の一が全く見えないチケットを平気で売る劇団四季に次いで納得がいかない。
  ……まあまあ、抑えて。あの『タンゴ』なんだから。開演直前、鬼面人を威すふうなライブ絶叫調の『虫の女』が大音量で。蜷川氏の言う「猥雑さ」を表現したのかもしれないが、ここは昔と同じ戸川純の『諦念プシガンガ』にしてほしかった。
  ……まあまあ、抑えて抑えて。幕が開いたらあの度肝を抜く、百人近い大群衆による映画館のシーンだ。いっせいに笑い、声援を飛ばし、びっくりする若者たち。
  だが、度肝を抜かれない。幕の向こうに何があるのか分かっていたせいかもしれないが、過剰な叫び声にリアリティがなくて、あまり引き込まれないのだ。このシーン、贅沢に人を使ったと思ったら波が引くようにみんな消えてなくなるそのいさぎよさ、はかなさが真骨頂なのに、いつまでもだらだらと絶叫している。こんなはずじゃなかった。
  ……まあまあまあ、昔の名舞台と比べるのはよして、新しい『タンゴ』を楽しもうではないか。
  楽しみたいのだが、主演の清村盛を演じる堤真一、スマートすぎて、あっさりしすぎてて、まったく主人公の狂気を感じない。明らかに役不足だ。セリフの滑舌も舞台で聞くのは辛すぎる悪さ。それに輪を掛けて辛かったのは、相手役の名和水尾を演じた常盤貴子。なんだその底の浅い、いっぱいいっぱいの演技は。主演の二人がこれほどまでに見劣りしてどうする。群衆を演じた俳優の卵たちも、稽古中は複雑な心境だっただろうな。
  クライマックスでタンゴを踊るシーンは、シアターコクーンの「二階席とは名ばかりの中二階があるから実質三階席」の手すりから転落しそうになるほど驚いた。なんですか〜、そのダンスは。明々白々な練習不足、『ウッチャンナンチャンのウリナリ!! 芸能人社交ダンス部』のほうが数倍うまいぞ。京劇ならここで大向こうから『好!』のかけ声が飛ぶシーンだが、全く盛り上がらない。堤と常磐が不器用に絡むタンゴのステップからは、狂気もエロスも全く感じられなかった。
  このタンゴとそのあとの幕切れで、初演時の平幹二朗が見せた凄みは今でも鮮烈に覚えている。年月を経て、記憶が実質以上に美化されてしまったのかもしれない。でもこの芝居、やはり平幹二朗名取裕子でもう一度見たかった。
  主演の二人をのぞけば、名和連を演じた段田安則や、清村せいを演じた秋山菜津子、清村はなを演じた新橋耐子などはさすがの存在感。特に段田安則は、出てくるだけでほっとする藝の確かさだ。それは、カーテンコールの際に一番拍手の高鳴りが大きかったことからも分かる。観客は正直だ。
  「ごきげんよう! これより死におもむく僕、そして僕らの仲間から最期の別れを言います」。七十年代の熱気をその身にもてあまし気味に抱えていた俳優たちが演じた、かつての舞台とは全く違う意味を持つ再演であることは百も承知だった。けれど、これほどまでに無惨だとは思わなかったなあ。やはり美しい思い出は思い出のままにしておくほうがよいのだ。