インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

テポドンを抱いた金正日

  中国にいる時、古本屋で購入した『十萬個為什麼(十万個の「なぜ?」)』という本がある。現在でも再版を重ねて出版されている有名なシリーズで、数学や物理学、化学や天文学といった自然科学の様々な知識をやさしく解き明かした子供向け科学読み物全集だ。

  私の手元にあるのは1970年版の全八巻で、版元は上海市出版革命組。巻頭第一ページ目には毛主席語録が掲げられ、文革まっただ中の雰囲気が紙面から伝わってくる。さらにこの本が興味深いのは、それぞれの科学知識を説明する際に必ず毛沢東の言葉が引用されていることだ。
  例えば「なぜ高気圧の中心付近では、晴れの天気が多いの?」という項目で、高気圧と低気圧の関係を説明する時は、

偉大な領袖毛主席はこう仰っています。「全ての個性はある一定の条件下における一時的な存在であり、相対的な存在である」。高気圧と低気圧も周囲との比較において存在します。相対的なものであり、絶対的なものではないのです。

  と、まず引用から始まる。台風の脅威を説明する時も、

台風は人々の生命や財産に影響を与える災害ですが、「共産党の指導のもと、どんな人間であっても奇跡は作り出せる」のです。気象台が台風予想を出し、人民が適切な準備と対策を講じれば、被害をなくしたり、減らしたりすることができます。

  といったぐあい。毛沢東の言葉が引用された部分は書体がゴチックになっていて、一目で分かるように作ってある。
  全ての科学現象を毛沢東の言葉から説き起こす。全宇宙の摂理は毛沢東思想にあり。個人崇拝もここに極まれりといった感があるが、今現在、これを上回る個人崇拝が極限に上りつめて、傍目には冗談(笑えないが)の域にまで達しつつある国がある。北朝鮮である。
  この本はそんな北朝鮮の個人崇拝、なかでも金正日へのそれがどのように作り上げられてきたのかを、地道な資料の渉猟から浮き彫りにする本。「世襲」を実現させるために気の遠くなるような手順を踏んだ下準備、神話化された生い立ち、急に表舞台から姿を消した大阪出身の第四夫人、スターリンばりの粛清劇……。読了して、なおも大きな疑問符が浮かんでしまう、あまりにもエキセントリックな将軍様の「真実」。
  筆者はテレビのコメンテーターとしても活躍中の鈴木琢磨氏。氏は学生時代から朝鮮語を学んだこの道のエキスパートだそうだが、かの国のあまりの「わがまま、身勝手、自己正義の絶対化」にこれまで何度も「もうついていけない」と思ったそうだ。それでも、その過程で出会った尊敬できる存在に励まされて興味を持ち続け、資料を分析し、批判を展開する。
  著者自身も「漫談」と形容しているように、この本の文体には少々茶化したようなニュアンスがあるけれど、決してどこかの巨大掲示板によく見られるような、まるで自らを国や民族の代表のように膨張させたり、単なる憂さ晴らしに終わったりという姿勢ではない。「かの大国」と向き合う我々も学ぶべき姿勢だと思う。