インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

ふたたび、話好き。

「話好き」ということで人後に落ちないのがネイティブの北京語教師である。
恩師に対して恨み言めくのも気が引けるが、ネイティブの先生方はおしなべてしゃべりすぎだ。特に「会話」と銘打った授業でその傾向が強い。考えてみれば不思議なことだ。「会話」なのだから、生徒にしゃべらせてナンボではないかと思うのだが*1
日本人学生が話し下手だからだろうか。もとより言い間違いを極端にこわがり、北京語の語彙も表現もまだまだ足りない学生に話させようとしても、すぐに間が持たなくなる。授業に沈黙が訪れるのは申し訳ないとついつい口を挟んでしまう、ということなのかもしれない。それはわかる気がする。どちらかといえば内向的な日本人学生を相手に、苦労も多いのではないかとお察しする*2
しかし私が閉口したのは、我々がとつとつと言葉を選びながら話すその速度に我慢ができず、ついつい助け船を出してしまうというタイプのネイティブ教師だ。いくら「我慢して聞いてください、途中で絶対に口を挟まないでください」と頼んでも無駄である。どうしてもしゃべってしまう。しゃべりたくてうずうずしている。しゃべらずにはいられない。みなさん頭の回転が速すぎて、つたない会話に耐えきれないご様子。げにエリートは厄介だ。一度など私がこれを“知識分子的毛病”と称したら、えらく憤慨された。
大陸に留学しているとき、よく現地学生の授業に潜り込んで聴講していた。日本の大学でも、特に大教室などでは似たようなものかもしれないが、大陸の大学の講義は先生が時間めいっぱい蕩々と自説を展開する「講演会」形式が多かったように思う。外国人学生に対する教学にも同じ方式を敷衍しているのかな。
《説什麼和怎麼説》(邱質朴・著/平田昌司・編訳/朋友書店/ISBN:4892810177)という本がある。感謝・不安・非難・同意・疑問……などなど、意図と場面によってネイティブはどんな表現をするのか、くだけた物言いからフォーマルな表現までまとめたおもしろい本だ。この本の序文で邱質朴氏はこう言っている。

事實證明,如果把語言課(不儘儘是功能交際法的語言課)上成知識講授課,效果大概是比較糟的。每堂課的較為理想的時間分配最好是三七開,學生多說,教師少說。這樣做絲毫沒有降低教師的主導作用,反而使教師的工作更加艱巨,責任也更加重大。
現実に証明されているように、もしも外国語の授業(F法*3には限らない)を知識をつめこむだけの場にしてしまうと、かなりわるい結果しかうまないであろう。各授業時間ごとののぞましい時間配分は7:3として、学習者が多く話し、教授者は少なく話すようにすることである。こうしても教授者の主導性は低まらない。むしろ仕事はよりむずかしく、責任もより重大になるのである。

――邱質朴《説什麼和怎麼説》(日本語訳も同書からの引用)

北京語に限った話ではないが、単にネイティブというだけで教壇に立ち、教授方法の工夫を怠っている先生がいるとしたら、今から十五年も前に書かれたこの本の序文をもう一度読み直してほしいものだ。

*1:そのためだろうか、「会話なんて授業で教えてもらうもんじゃないよ」「会話学校なんて行くだけムダ」などとクールなことをおっしゃる方もいる。確かに語学に王道はなく、長い時間をかけて自らの会話能力を高めていくしかない。しかしよく考えられたメソッドがあって、効率的に会話能力を高めることができればそれに越したことはないと思う。

*2:最近の若い人はずいぶん違うらしいが。
 留学しているとき“専題討論”という授業をとっていた。これは毎回テーマを決めて学生同士が討論、時にはチームに分けてディベートを行うというおもしろい趣向の授業だ。先生(大陸のネイティブ)は教学の研究にとても意欲的な方で、自分はほとんど話さずにアドバイザーに徹し、生徒にどんどん話させるというスタイルだった。
 この授業で一番精彩を欠いていたのが日本人学生。反対に一番元気だったのが韓国人とアメリカやフランスなどの欧米諸国の学生だ。ディベートともなると日本人学生はより一層萎縮し、こちらが強く反論するや、「こんなの、精神的についていけません!!」と泣き出す始末。
 私は仕方なく「ディベートだから、これは一種のゲームなんです。あなたの意見に反対しているのは、私が便宜上相手チームにいるからであって他意はないし、それにここで述べる意見は自分本来の主義主張と全く切り離していいんですよ」と説明しなければならなかった。

*3:ここではコミュニケーション能力の訓練に重点を置いた「コミュニカティブ・アプローチ」のことを指している。