インタプリタかなくぎ流

“Might come in handy one day.”

再見了,可魯

盲導犬クイールの一生』を映画化したもの。禁を破ってまた日本映画を観てしまったのは、私が「盲導犬」の三文字を見るだけでぐっとこみ上げてきてしまうという体質であることに加え、今なぜか台湾でこの映画がブームになっているからだ。映画館はほぼ満席だった。毎週この映画館で観ているが、ここまで一杯になるのは本当に珍しい(以下は「ネタバレ」ではありませんが、「暴言」なので反転させておきます)。
だが、期待にたがわず(?)これは日本映画。雰囲気先行でやけに思わせぶりなくせに全く深みのないストーリー展開、ほとんどわざとやってるんじゃないかと思えるほどリアリティのない演技。昨今の日本映画の悪い部分がみんな出てしまった感じ。唯一犬の動きがカワイイが、そんなのこの映画でなくたっていくらでも拝める。
毎回毎回親の仇のように日本映画をこき下ろしているのもやるせないし、ちょっと申し訳ないとさえ思うので、なぜこれほどまでに心が動かされないのかを考えてみた。言いたいことはいろいろあるのだが、まず、なんといっても俳優の演技が下手である。身体の動きが不自然なら、セリフの発声もいわゆる新劇調。子役の質の低さは世界でもまれにみるほどだ。これは私が日本人だから、日本語が母語だから、他の文化圏or言語の映画を観たときよりも点が辛くなるということなのだろうか。つまり英語や北京語の映画を観ているときは、日本語ほど自然にセリフを聞き取ったり字幕を読んだりはできないわけで、そちらに一生懸命になるあまり、他のアラが目立たない……ということなのかもしれない。
それにしても。自分で言うのも何だが、他の言語はさておき、曲がりなりにも私は北京語が飛び交う環境で北京語を話す人たちを相手に生活や仕事をしているわけで、その立ち居振る舞いや言葉遣いが自然かどうかにそれほど鈍感ではないといっても差し支えあるまい。テレビドラマなどでアイドルタレントがつたない演技をしていれば、その質の低さにツッコミを入れることもしばしばである。北京語が自分の母語ではないということを差し引いても、日本の俳優たちの演技は何かが間違っていると思えて仕方がない。
いつの頃からかはわからないが、日本では演技というものが、ひいては映画というものが大きく誤解されてねじ曲がってきたのかもしれない。何かの役を演ずるのだ、なにがしかの場面やストーリーを作るのだという意識が先に立ちすぎて、それを性急に求める余り即席の薄っぺらい表現しかできなくなってしまったのではないか。そこには厳しい予算のなかでそれほど悠長に藝術を追い求められちゃいられない、という経済的な理由も働いているのかもしれないが。
クイールの里親役をやった香川照之など、姜文が監督した《鬼子來了》では鬼気迫るぶ厚い演技をしていた。それがこの映画ではどうだ、ラップフィルムのように薄っぺらい。とても同じ俳優とは思えない。香川氏が堕落したのか、監督の演技指導が天と地ほども異なっているのか。この映画では出番が少ないから同列に並べて論じるのは理不尽かもしれないけれど。
これはもう、この程度の演技で良しとしてしまう我々日本人の「民度」の問題かもしれない。★☆☆☆☆。