インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

意図をとらえること(つづき)。

通訳学校に通っていた頃、クラスに「デキる」女性がいた。北京語の発音もきれいだし、訳出もかなり正確だ。私はひそかに彼女をライバルと位置づけ、負けないようにがんばることで自分を奮い立たせていた。クラスに自分よりレベルが少し上のこうした“同学(クラスメート)”がいるのは、とてもありがたいことだ。
ところがある日、彼女のノートを見せてもらってびっくりした。そこには、その日練習することになっているスクリプトが日中対訳でぎっしりと書き込まれていたのだ。つまり彼女は、予習用に配られたテープをディクテーションし、それを日本語に翻訳し、授業ではそれを読み上げていたのである。
もちろん、語学の学習方法として、音声の書き取り→翻訳→音読というのは立派な方法だし、それなりの効果もあるだろう。だが通訳の訓練としてはどうか。音声を聞き、背景知識とその場の判断で訳出していくことと、事前に練り上げておいた訳文を音読することとはかなり違う営みではないか。
通訳学校のある先生は、授業前にテープを出したがらなかった。「実際の通訳で、音声が先に準備されていることなどありえない」というのがその理由。至極もっともな理由だと思う。
通訳者が言葉の表面にとらわれずに意図を訳すのだとしたら、世にあまたあるビジネス会話集や式辞挨拶集を丸暗記することや、通訳学校で講師の「模範解答」を必死で聴き取り、書き写すこと*1が通訳者としての訓練ではない、と思えてくる。もちろん決まった言い回しや、式典などに特有のかたい言い回しを幾つもストックしておくことは、訳出の助けにはなる。だが、それらが先にありきではない。発言内容をあらかじめ準備しておいたパターンに強引にねじ込んで訳すようなことがあったとすれば、それは通訳という作業から離れた傲慢な行為なのではないか。
こうなると、通訳者としての訓練は、訳すという行為以前に、言葉を理解したり観察したりする能力を養うことに重点が置かれるべきなのかもしれない。相手の意図をどのように的確につかむのか、それは背景知識の理解、話の前後の整合性、場の状況判断(目上か目下か、身内か客先か、前向きの討論か非難の応酬か等々多岐にわたる)などがもたらすものであり、語学力とはかなり違うカテゴリーに属するような気がする。

*1:よくあるパターン。「正解」を求める学生側の欲求も強い。