インタプリタかなくぎ流

“Might come in handy one day.”

一緒に住んでいる同僚が「錢衝さんは極端なリアリストですね」と言う。大陸に住んでいるときは彼の地の人たちから「お前は“浪漫主義(ロマンチシズム)”や理想主義に過ぎる。だからいつも騙されてばかりいるんだ」と諭され續けていた私としては、こりゃまた意外な評價だ。
きっかけはこうだ。夕食後何かの拍子に、死んだら火葬がいいか土葬がいいかというような話になった*1。で、私が「どうでもいいけど、まあ灰にして海にでも土にでも戻してほしいな。墓などもちろんいらないし、葬式も絶對してほしくない。戒名などもってのほか。ついでに言わせてもらえばあの世なんて信じていないし、宗教など人間の大腦が作り出した觀念の産物だ」なんてことを口走ったからだ。同僚はまあ、ごく普通の常識的な社會通念の持ち主のようなので、私の言っていることが何かとてつもなく過激に聞こえるらしい。
まあ私も、親が亡くなれば葬式は出すだろうし、墓參りもするだろう。宗教だってある種の人々にとって必要不可缺なものであることを否定はしない。けれど私自身は「死んだらそれでハイおしまい」と考えるのが生き方をややこしくしない祕訣だと思っていて、みんな共感してくれるんじゃないかと期待して話すのだけれど、いつも異端者扱いされて困ってしまう。
そんな思いを抱きつつ先週末に高雄の紀伊國屋書店に行ったら、『他人と深く関わらずに生きるには』(池田清彦/新潮社/2002年)という本が平積みになっていた。私は普段こういう、チーズが行方不明になっただのバターが驅け落ちしただのという、生き方をうんぬんした本は敬遠している。だがこの本は、昆虫學者である池田清彦氏の名前をどこかで見て覺えていて、氣になってページをめくってみた。そしたら偶然にもこんなことが書いてある。

死んだ人が立派な墓に入って生きている他人や他の生物の邪魔をするのはよくないと思う。死んだら土に還ってお仕舞というのが最も上品な死後である。死んだ後も墓参りに来いと言って、他人の時間を奪うのは下品であろう。

わあ、心底共感するなあ、と思って買ってきた。薄い本だからすぐに讀了。とてもおもしろかった。
池田清彦氏の主張は「濃厚なつきあいはなるべくしない」とか「車もこないのに赤信号で待っている人はバカである」とか、なかなか刺激的だ。しかし言っていることは單純明快。要するに自律・自立できる大人になりましょうね、ということである。
しかも安易な民主主義や平等主義を排して、人は持って生まれた才能はいかんともし難く、ない才能をたたいてもほこりしか出ないなどと、私などが言おうものならたちまち誤解を招いてにっちもさっちも行かなくなるようなことを、さらっと簡潔に述べていて飽きさせない。
ボランティアについてもこんなことが書いてあって、快哉を叫ぶ。

すべてとはいわないまでも、一部のボランティアは他人の商売の邪魔をしていることは間違いない。雇用の確保という観点からは、ボランティアはむしろ、やらない方がいいのである。
そこまで考えれば、ボランティアとは、本来は金を支払うべき仕事をただでさせるための(特に、行政が税金を使ってやるべき仕事を人々にただでさせるための)、巧妙なコントロール装置なのであろう。*2

なんとリアリスティックな考え方だろう。ただし、池田清彦氏自身も認めているが、この本に書かれているようなことが人々の共通認識になるためには、その前提條件として社會全體が成熟する必要がある。雜駁かつ傲慢な言い方で氣がひけるが、民度が上がって人々が賢くならなければならない。現實的に考えれば實現させるのは難しい話ばかりだ。となれば、池田清彦氏も、そのものいいに共感している私も、結局のところ大いなるロマンチシストということになるのだろうか。

*1:食後に何を話しているんだか。

*2:以前、東京江戸博物館でボランティア通譯者の募集をしていた。何日間にもわたる長時間の研修を受けた上、かなりの頻度で通譯業務をさせるというのに、全くの無報酬。だれがこんなボランティアに參加するのだろうかと不思議に思うより先に、かなり頭にきた覺えがある。