インタプリタかなくぎ流

“Might come in handy one day.”

きのう、「どんな發言でも、通譯者は默々と譯出すべきであり、言葉を差し挾むのは『越權行爲』だ」などとエラソーなことを書いた。これについてandaさんが、「例えとんちんかんな内容でも通訳がそれについて悩む必要はないし、そのまま訳して次どう答えるかは話し手のことであって通訳が動揺することじゃない」と新人通譯者にアドバイスしたエピソードを紹介してくださった。
ここだけの話、「とんちんかん」なことを言う人は日本人にも臺灣人にもいる。しかもけっこう多い。「とんちんかん」でもそのまま忠實に譯せばいいんじゃないの、もとより通譯者は發言を選べないのだし、と達觀できればいいのだが、ここには頭の痛い問題がふたつある。
ひとつは「とんちんかん」な、言い換えれば理屈やストーリーの通っていない發言は譯すのが難しいということだ(不可能ではないが)。會議などで、それまでの議論の流れから突然ぽーんと飛んだ意見を述べる人がいる。物理的にありえない「トンデモ」意見を開陳する人もいる。
そんなとき、愼み深い私は「この人、頭がおかしいんじゃないかしら」などとは露ほども思わず、「私の聞き取りが惡かったのかしら」と考え、必死でその發言の要諦をつかもうと頭をフル回轉させる。
だが「とんちんかん」な發言はどう換骨奪胎してもやはり「とんちんかん」だ。かくして、頭の上にいっぱい「?」を浮かべつつも、とりあえずその發言を譯出する。もしくは「ちょっと意味がわかりませんので、お待ちください」と斷った上で、もう一度その發言の意圖をその人に確かめてみる。
ふたつめは、そうした譯出が往々にして「この通譯さん、何を言っているのかわからない。下手なのかしら」もしくは「この通譯さん、何度も聞き返している。下手なのかしら」と思われてしまうことだ。この問題についてはすでに先達の通譯者たちがあちこちで本に書き、論じている。
ただ、昨日あんなエラソーなことを書いておきながら、私はまだまだクールで強靱な通譯者に徹し切れていない。上のような状況があった場合、私は時に「ちょっと發言の意圖をつかみかねますが、一應譯します」「今の質問に相手は全く答えていませんが……」などといった前置きを入れてしまう。「下手なのかしら」と思われたくない、という機制がはたらくわけだ。これも嚴密には「越權行爲」なのだろう。
もっともこうした「譯注」がときに歡迎されることがある。それはロシア語通譯者・米原万里氏の『不実な美女か貞淑な醜女か』に見える、以下のような場合だ。

「商談の通訳の合い間に、米原さんから『彼らはこう言っていますが、ロシア人特有の脅しです。ここは強く出た方がいいですよ』と日本語でアドバイスしてもらった。彼女の交渉術で何万ドル得したことか」(商社マン)。

同書の名越健郎氏による解説より

私も交渉の席などで、臺灣側があまりにも露骨に日本側から言質をとろうと企んでいるのが見え見えなときなど、同じようなコメントをつけたことが何度かある。これはもう完全な「越權行爲」であり、ここで私は通譯者からコーディネーター側に一歩足を踏み入れていることになる。
日本側の責任者と一度この問題について話をする機會があった。この責任者の意見は「君は日本側の通譯者なんだから、そうしたアドバイスは當然だし、ぜひそういう情報もつけ加えて通譯して欲しい」とのことだった。スポット的な通譯業務ならまだしも、今の私のように長期契約の通譯を行う場合には、多かれ少なかれコーディネーター的役割も負わされることになるのだ。だが、どこまで自分で判斷してアドバイスするのか、どこまで譯出に反映させるのか、依然頭の痛い問題であることに變わりはない。
……なんて小難しく書いているが、要するに、私はコーディネーターはやりたくない。そういうことなんだな、たぶん。