インタプリタかなくぎ流

“Might come in handy one day.”

この間“我的野蠻改行。(id:QianChong:20040426#p1)”という文章を書いたら、翻訳者仲間の狗さんが日本語に訳してくださった。自分の書いた北京語の文章を誰かに翻訳してもらったというのはほとんど初めてで、とても新鮮な体験になった。
がうさんの訳文はこちら
いろいろ考える切り口があるのだけれど、まず狗さんの訳文を読んで、自分がイメージする自分の文体と差があるように思った。狗さんの訳文に立ち現れる「私」は実際の私よりバイタリティがあって少々茶目っ気もある、年齢も少し若めの人間だと感じる。
狗さんと私は実際の面識はない。ネット上で以前から翻訳に関するコメントの交換をしてきただけだ。お互い相手がどんな容貌でどんな性格で何歳なのかも知らない*1
普段翻訳の仕事をする時、文芸作品のようにその作家と直接会うことができて、いろいろ意見交換しながら最適の訳文を目指す、などという方法はまずとれない。そんな悠長なことをしていられないのが常だし、たいていは筆者がどのような人間なのか、ごく基本的なところ(例えば肩書きとか)だけしか知らずに翻訳する場合がほとんどだ。だから訳しているうちに相手の意外な姿に気がついて、下手をすると訳文全体の変更を迫られる場合もあり得る。以前、練習で台湾のお坊さんが書いた文章を訳していて、翻訳が終わったあと初めてその方が女性で会ったことを知り*2、全面的に校正しなければならなくなったことがある。
ともあれ、狗さんの訳文を読んで、別の自分に出会ったような新鮮さを覚えた。というより逆に、狗さんの訳文が原文に忠実なのだとすれば、ここに表れている自分が周りの人の目に映る自分で、自分が自分に対して抱いているイメージはもしかするとずれているのかも知れない、と思った。ちょうど録音した自分の声が、自分の普段発しているつもりの声から少しずれているように。
狗さんが“人世真的不好混”を「とかくこの世は住みにくい」と訳しているのをみて、うれしくなった。ここは夏目漱石の『草枕』の「智に働けば角が立つ。情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくこの世は住みにくい」をイメージしていたからだ。
訳文のタイトルは「猟奇的な『とらばーゆ』」となっている。原文の題名 “我的野蠻改行。”は去年台湾でもヒットした韓国映画“엽기적인 그녀”の台湾での題名“我的野蠻女友”からとったのだが、日本では『猟奇的な彼女』として公開されたので、狗さんはこう訳された。さすが、わかってらっしゃる。しかし『とらばーゆ』は女性向けの転職雑誌じゃない(笑)?

*1:「文は人なり」で大体のところは察しがつくが、かなり先入観念の方が大きいだろう。もとより私はオフ会などに出席すると、日頃コメントをやりとりしている相手の年齢を二十歳も上に見ていたり、性別まで勘違いしていたりするくらい「読み」の甘い&浅い人間だから、全く自信がない。

*2:“○○法師”などというお名前で、すっかり男性だと決めてかかっていた。