インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

義父と暮らせば6

厳寒のこの時期、あまりにもブレーカーが落ちまくるので、結局東京電力にお願いしてブレーカーの容量を上げてもらいました。昔はこの二階屋で細君の家族が暮らしていて特に何ともなかったそうですから、いまは家電製品の使用電力が昔に比べて格段に増えたということですね。

そりゃそうです、お義父さんは火の取り扱いが怪しくなってきたので、ガスや石油関係を全て電気に変えたんですから。それでも夜中に台所のエアコンつけっぱなしとか、よく切り忘れが発生します。認知症には様々な症状がありますが、お義父さんの場合は、まずそこにしかとある物が確実に認識できないという状況が増えつつあります。

例えば夕飯に鍋を食べていて、焼酎の烏龍茶割りを飲んでいる(医者からは禁酒を勧められていますが、「週に一杯だけ楽しい酒なら」ということで許してもらいました)。で、ポン酢を焼酎にそそいじゃったりするのね。ポン酢と烏龍茶、似てるからね。う〜ん、まあこれくらいの「うっかり」ならハッキリ言って私にもありそうですが。

他にも例えば、玄関のインターホンが鳴っているのに、反応できないとか。音は聞こえていても、それが次の行動に結びつかないことがあるのです。でもそれはいつもではなく、いろいろなことに気が回ってしっかりしているときもあります。そういうアップダウンを繰り返す、そしてその振幅が大きくなってくる、ということでしょうか。

昨日も、配線の下見をお願いしていた電気工事屋さんが来てくださったんですけど、私がたまたま近所の郵便局に外出した時で、お義父さんはインターホンに反応できなかったらしく、工事屋さんは不在だと思って帰っちゃったそう。今朝改めて来てくれたので「すみませんでした」と謝ったら「どこのお宅も同じですね」とおっしゃる。

「同じ…ですか?」
「そうですよ。この辺は、子供が実家に帰って同居を始めるお宅が多いんです」

へええ。確かにこの周辺は半世紀ほど前に開発が始まった新興住宅地で、そのころ家を買って移り住んだ方が揃って高齢者になりつつあるコミュニティなんですね。朝、公園へ運動しに行くと、それはまあたくさんのお年寄りがウォーキングしてるもの。

「そういうお宅では、これまで一人暮らしで気が張ってたお年寄りが、急にほっと安心して気が抜けるんだそうですよ」

へえええ、なるほど。認知症が進んできたので同居を決めたわけですが、その同居が認知症を促進する側面もあるんですね。もちろんお年寄りが子の同居によって得られた安心感・満足感・幸福感にはかえがたいものがあるわけですが、同時にこれまで一人でしてきたこと・できたことを家族に任せるようになってしまうと。

細君は同居前からこの側面に気がついていたそうで、だから同居後も例えば朝のゴミ出しはお父さんの役目ね、とか言っていろいろ身体と頭を動かすように持って行っています。それでもお義父さんはだんだん横着になっているみたいで、「これ、洗って」とか「お〜い、お茶」とかいうセリフが増えてきたので、細君が「自分でやりなよっ!」とキレてますが。

自分の身の回りのことが、だんだん他の人の手を借りなければいけなくなってくる、それが単なる横着とか無精とかそういう個人的キャラクターの範疇を越えて、認知や認識のレベルでできなくなってくる……認知症というのは狭義には「知能や記憶や認知力や人格のありようなどが後天的に低下した、あるいは低下していく状態」を差すようですが、それはまるで大人が子供へと退行していくようでもあります。

先日、平川克美氏の『小商いのすすめ』を読んでいたら、成長のプロセスにはひとりひとりのバラエティがあるけれど、老いのプロセスは誰もが平等だという、印象に残る記述がありました。

成長とは、本来「生まれたときは平等」だったはずの人間が、個としての自分を確立していく過程で、お金持ちになったり、貧困に生きなくてはならなかったり、才能を開花させて名をなしたり、平凡な暮らしの中に幸福を発見したりというように個々にばらけていくプロセスでもあるわけです。
もちろん、現実的には生まれたときには、すでに人生に差がついてしまっているということも事実でしょうが、ここではあくまでも原理的な話をしています。
どんな大金も、才能も、名誉も、墓場に持って行くことはできません。
その墓場までのプロセスとは、まさにばらけた個々がもう一度「死」という絶対的平等へと降り下っていくプロセスであるわけです。

老いとは死に向かって収斂していくことだというイメージが、妙にしっくりと腑に落ちたのです。

この世に生を受け、幼児段階から徐々に成長して青年になり大人になり成熟をとげ、そしてまた降り下っていく、つまりは幼児に戻っていく。生まれる前の段階と「死」は同じものではありませんが、いずれもこの世に生を受けていない、この世に生がないという点では選ぶところがありません。

実際には成熟に成熟を重ねて、その成熟の最高点で往生する人もいるのでしょうから、こうした比喩が一面的であることは承知しています。それでも、老いとは大人が幼児へと、そして生を受ける前へと退行していく過程なのだなあと思ったのでした。

もっとも、うちのお義父さんはまだまだしっかりした大人ですけどね。ただ、鍋なんかやってると美味しいとこをごっそり持って行って、我々に残してくれないことがあって、私なんか「あら、子供っぽくなってきてるのかな」と思うんですけど、細君に言わせると「あ、それ、昔からだから。もともとの性格よ」だって。個人的キャラクターの範疇でしたか。